ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

みんなちがって人間だもの

2007-05-29 22:01:38 | Weblog
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

 金子みすずの有名な詩である。この詩には何の文句もない。ある小学校の校長先生が、この詩をえらく気にいって、その学校のすべての教室にこの詩を掲げさせたという話を聞いたことがある。「みんなちがってみんないい」という詩が例外なくどの教室にも。「私はみんながちがっていいとは思いません」という子どもがあらわれた時、この学校の先生はどう対処するのだろうか。

 金子みすずの詩とならんで学校の先生が好きなものに、あいだみつおの箴言(?)がある。「人間だもの」という、あれだ。人間なのだから、小さな間違いや失敗は誰にでもある。それにこだわらずにおおらかに生きろということがいいたいのだろう。ぎすぎすした世相のなかでこのことばに「癒し」を感じる人も少なくないはずである。

 しかし、「人間だもの」は恐ろしいことばではないのか。本能の壊れた動物としての人間は、どんな悪でもなしうるのだから。原爆を投下した飛行士が「人間だもの」といってもおかしくはない。歴史に名を刻む連続強姦殺人犯が、現場にたたずみながら「人間だもの」といってもまったく違和感はないのだ。イェルサレムの法廷で、何故大勢のユダヤ人をガス室に追いやったのかと問われたアイヒマンが、人間だもの」とうそぶいても、何の不思議もないのである。「人間だもの」で許されるのなら、なんでもまかり通ってしまうことになる。安易に口にすべきことばではない。

女王の教室(学校もいまや大変・声に出して読みたい傑作選27)

2007-05-27 08:39:47 | Weblog
骨子は、4年の時の担任と相性が悪かった。彼女は50代のベテラン教師。前任校と比べて「ここの子どもは出来が悪い!」と子どもたちを罵っていた。体罰もしょっちゅうだった。できのよい子どもも被害を免れない。えこひいきのない公平な先生ではあった。デキスギ君でさえ、たらいで殴られている。しかし、なんで小学校の教室にたらいがあるのか。
 
 授業参観に行って驚いた。クラス中が異様に静かだ。子どもたちは無表情に先生の求める答えを口にするだけ。授業は無味乾燥だが理路整然としている。頭のよい人だと思った。小さな子どもが嫌いなのだ。中学か高校の先生が適職なのだと思った。彼女の娘が大学院生ということで、ぼくにいろいろと大学の話を聞いてきた。大人には感じのよい人だった。

 冬に入った頃のことだ。娘のクラスでトラブルが起こった。いじめともいえない。女の子同士の喧嘩である。しいちゃんという子どもが学校に来られなくなった。この先生がしいちゃんにどんな対応をしたのかは知らない。しかし彼女は、クラスの子どもたちの前でこういった。「しいちゃんは、心の病気に罹りました。以後しいちゃんと関わらないように!」。

 しいちゃんと骨子は仲がよかった。「禁」を破ってしいちゃんとの交流を続けていた。妻もあまりにひどいと思い、先生に事情を問質すのだがのらりくらりとかわしてくる。5年生になり、若い熱血先生のクラスに入った骨子は見違えるように明るくなった。しいちゃんも新しく担任になった篤実な中年男性教師の導きで学校に出て来られるようになっていた。

 しいちゃんは卒業式の時、自分を立ち直らせてくれた先生のような素晴らしい先生に私もなりたいと、壇上から謝辞を述べていた。この学年の卒業式のなかでもっとも感動的な場面だった。件の先生は、その後も同じようなことを続けていたが、とうとう学校を辞めるはめになった。教育委員会にこの先生を辞めさせるよう直訴する親があらわれたのだ。その親もやはり教員だった。

あたらしい憲法のはなし

2007-05-24 08:57:06 | Weblog
 中学3年の骨子が、学校の社会科で憲法を習っているところです。夏休みまでに憲法の全条文を写してこいという宿題が出たそうです。みんなお経を写すようだといってぶうぶう言っているようですが、彼女は嬉嬉として課題と取り組んでいます。一つ一つの条文に共感するところと、疑問に思うところが彼女なりにあって、非常に知的な興奮を覚える作業のようです。

 彼女が憲法に関心をもつにあたっては、いま通っている塾の先生が、法学の博士論文を執筆中の学者の卵で、少年犯罪や冤罪事件を素材に、法律や憲法の話を実に生き生きと分かりやすく語ってくれていることの影響が大きいようです。それだからこそ彼女は、憲法はひからびたことばの羅列ではなく、自分の生活と密接なかかわりがあるという感覚をもつことができるのだと思います。いま学問の先端でばりばり研究している人の熱気を感じることができる。これが塾のよいところなのかもしれません。

 若い世代の政治的無関心を嘆く声がありますが、それは大人たちがそうした議論を若者にしむけてこなかった、怠慢によるところが大きいのではないでしょうか。骨子の塾のクラスにも、やはりその先生の授業の熱心なファンで、毎時間質問をしている男の子がいるといいます。きちんと話せば子どもも必ず関心を示すのです。

 国民投票法案が国会を通過しました。もう「改憲」か「護憲」かを議論している段階ではありません。保守改憲に反対であれば、それに対する代案を準備しておくべきではないのか。その準備がなければ、反動憲法ができた時に、闘うこともかないません。そもそも改憲派も護憲派も、本当に憲法を読んで議論しているのか、疑わしく思うところがあります。知らないでは議論にもなににもなりません。骨子もすなる写経ならぬ写憲法。大人がやってみるのも一興と思います。その上に立って日本人一人一人が、「私擬憲法草案」を作るべきではないのでしょうか。

  


犬を飼う

2007-05-21 05:16:43 | Weblog
子どもの頃の住環境は悲惨なものだった。店舗と家屋と工場がくっついている。われわれ家族は、工場の真上に住んでいた。菓子やの工場は、一日中高温で煮炊きしている。冬は暖かくてよかった。夏は地獄である。日中は40度を超え、夜も気温が下がらない。祖母の死後、役人を辞めて当主となった父は「改革」を断行。工場を郊外に移して、家族の家も別途借りることにした。ぼくたちは庭つきの家に住むことになった。昭和40年春のことである。

 庭つきの家に住んで、犬を飼う。これは兄の強い念願だった。「パパはなんでも知っている」。そして「名犬ラッシー」。テレビで刷込まれたアメリカ的な生活様式に、彼は強い憧れを抱いていたのである。引越しがすんで数日がたつと、さっそくぼくたちはDデパートに犬を買いに行った。大枚5000円をはたいて、芝犬を購入したのである。綺麗な犬小屋も一緒に買った。名前はブラッキー。英語の教科書に出ていた犬の名前だと、兄は言っていた。

 ぼくたち家族はこの犬を可愛がった。問題はエサである。昔のことゆえ、ドッグフードなどというしゃれたものはない。そこで、家族の食べ残しやら、近所の八百屋の余りものやらを貰ってきては犬に食べさせていた。この犬はものすごくよく食べた。どんどん食べて、身体もどんどん大きくなった。柴犬なのに秋田犬と見まがう体格になった。ぼくたちは最初、「エサをやりすぎたからこんなにデカクなった」ぐらいに考えていた。だが異変は続いた。

 ピンと立っていた尻尾も耳もダランと垂れ下がり、褐色の毛並みが汚い黄土色に変色していった。それでもまだぼくたちは「エサをやりすぎたから汚くなった」などと言っていたが、そんなことがあるはずもない。ぼくたちは雑種をつかまされたのだ。だがデパートに抗議をしなかった。この犬はすでに家族に溶けこんでいたからである。ぼくたちはこの犬を「ブラ」と呼んだ。「ブラッキー」という立派な名前も命名の由来もそのうちみんな忘れてしまった。



社会の木鐸?2

2007-05-18 06:18:17 | Weblog
鹿児島にいた時の話です。娘の幼稚園のお母さんたちが顔を合わせて、どういうわけだか新聞の話になった。みんな新聞をとっていないという。妻が驚くと、「加齢さんのところは新聞とってるの。さすがにインテリのご家庭は違うわねえ」と皮肉ではなく逆にびっくりされたといいます。

 ニュースはテレビで間に合う。テレビ番組は、いまたくさん出ているテレビ雑誌を買えば分かる。お父さんの職場には新聞があるから、仕事に必要な記事はそれをみれば十分。なので新聞はとらないんだとみんないっていたそうです。「南日本新聞」は大変だなあ、とその時思いました。

 日本の新聞は「社会」というより、むしろ「世間」に依存して発達してきたようにみえます。どの家庭も新聞をとってきたのは、新聞をとっていないとまともな家族とみなしてもらえないという、「世間体」を気にしてのものではなかったのか。地方紙のばあい、「おくやみ」欄がテレビ欄と並ぶ高い閲読率を誇ってきたのも、誰かが亡くなった時に義理を欠くことを、地方の人たちが何より恐れていた証だといえます。

 ところがいまや、「世間体」など誰も気にしなくなった。義理を欠くことも恐れなくなった。だから地方の普通の人たちが、新聞をとっていなくても平気なのではないかと思います。新聞離れはとくに地方のばあい、社会的関心の低下という以上に、「世間の崩壊」と深く結びついているのではないでしょうか。

ぼくの子どものころ、新聞は読むだけのものではありませんでした。紙粘土の材料として、焼き芋等の包装紙として、そしてトイレットペーパーがわり(もちろん汲み取り便所に限る)として、大活躍していました。当時の新聞紙は庶民の重要な生活資材だったのです。もう誰も新聞など読まないのだし、宅配制度の維持も無理だろう。だとすれば、新聞の生き残る道は、かの「もったいない精神」が盛大に復活して、新聞紙が生活資材としての輝きを取り戻す以外にないのだとぼくは考えます。

バルタン星人(ウルトラマンの結婚式には出るのかにゃ?・声に出して読みたい傑作選26)

2007-05-15 08:17:56 | Weblog
 6年前の秋。ぼくは神奈川県内の大学病院の無菌室にいた。白血病治療のためである。この年の春。鹿児島から東京の大学にかわってすぐぼくは白血病(骨髄異形成症候群)の告知を受けた。幸い兄とHLA(白血球の型)が一致。骨髄移植を受けることになった。9月のなかばに入院。30数種類の検査を受けた後9月の末に無菌室に入った。致死量をはるかに超える抗癌剤の投与と放射線の照射とで、ぼくは文字通り半死半生の状態に陥っていた。

 伊奈正人さんの『サブカルチャーの社会学』(世界思想社)が届いたのはそんな時だった。ミード、ヴェブレン、ミルズ。若者文化への関心と、地方の大学に10年以上勤務したこと。大学院生時代からの仲間である伊奈さんとは共通点が多い。無菌室のなかでさっそく読んだ。仲間がよい仕事をしているのをみるのはとても励みになる。ぼくも元気がわいてきた。

 読み終わって礼状をすぐに書くことにした。ところが手元にはウルトラマンとポケモンとディズニーのはがきしかない。子どもに手紙を書くことしか頭になかったのである。まあいい。ぼくはバルタン星人のはがきにお礼を書き始めた。ところが抗癌剤の影響で手が震えてどうしようもない。ただでさえヘタな字がとんでもないことになってしまった。どうにかこうにか礼状を書き上げた。はがきに余白が多いのが気になったのでバルタン星人の横に「しゅわっち」と書き足した。ぼくは礼状の出来栄えに深い満足を覚えたのである。

 興が乗ったので学部長にもはがきを書くことにした。いまの大学に呼んでくれた偉い先生である。「せっかくお呼びいただきながら着任早々このようなことになりまことに申し訳ございません。復帰した暁には…」。字は読めたものではないが格調高い大人の文章だ。これにもぼくは満足した。やはり余白が気になった。今度はゼニガメのはがきである。ぼくは「ぴかちゅう」と書き添えた。何故だかこちらのはがきが投函されることはなかった。


社会の木鐸?

2007-05-12 06:45:48 | Weblog
 今年の3年生のゼミでは、『 日本型メディアシステムの興亡―瓦版からブログまで 』柴山哲也)という本をテキストにしています。面白くはありませんが、新聞を中心とした日本のメディアの実情をきちんと押さえていて、テキストにするには適した本です。

 学生たちが驚いていたのは、新聞社が宅配制度を維持するために全部あわせると50万人近い雇用を抱えていること。それなのに、全マスコミの売り上げをあわせてもトヨタ自動車一社に及ばないということです。ぼくが学生だった頃のマスコミ論の教科書には、全マスコミ産業の売り上げをあわせて日立製作所1社とほぼ同額と出ていました。

 日立製作所の社員数は10万人ぐらい。新聞産業だけでも50万人を抱えているわけですから、マスコミ産業の労働生産性は日立の5分の1以下ということになる。マスコミはかっこいい知識集約型産業だと思っていた学生たちは、その労働力集約産業としての実態をつきつけられて、ただただ唖然としていました。

 若者の新聞離れを著者は心配していますが、たしかにいまの若者は新聞を読まない。全国紙の支局長をしている友人がいますが、彼のもとに地元国立大学の学生がインターンシップで働きに来た。新聞はよく読むのと聞くと、「読んでません」と学生たち。いやうちの新聞でなくてもよい、地元紙でもいいんだと念を押すと、新聞と名のつくものは一切読んだことがないと、全員が答えたそうです。新聞を読まない人間に新聞社に働きに来てもらっては困るとこのインターンシップ、翌年から廃止にしたといっていました。

 ぼくのゼミ生も新聞を読まない。読まないというより読めないようです。活字の塊みたいでよみにくい。記事がどこにつながっているのか分からない。そう聞いて今度は僕が唖然としました。新聞を読むリテラシーがいまの若者からは失われしまっている。日本の新聞を支えてきた宅配制度の維持も困難な状況があります。いまの若者が大人になった時には、日本の新聞はもう存続していないかもしれません。

白い巨塔

2007-05-10 10:39:15 | Weblog
 発病から8年もたつと、通っている病院にもいろいろと変化が起こってきます。主治医は昨年、新潟の病院にご栄転。その時無菌室でお世話になった先生が、助教授に昇格されて私の主治医になりました。また病院も大改装。見違えるほどきれいに新しくなりました。あの重々しい完全無菌室は、いまでは姿を消したようです。

 新しく建て変わった病院で驚いたのは、まるで呼び出しの声がしないことです。個人情報保護のためでしょう。患者さんの名前が呼ばれることはありません。該当の診療科に行って、診療カード機械に入れる。すると部屋の番号と順番が書かれた紙が出てきて、それを受け取り、液晶の掲示板にその番号が出ると部屋に入っていって診察を受けるという仕組みです。会計も自動支払機ですませますから、病院に入ってから出るまで診療室以外は、音なしでことが進んでいきます。

 これは、個人情報の保護という面からは正解でしょう。それに闘病中は呼び出しの声の無神経さに苛立ったものです。しかし、人がほとんど介在しないで機械で手続きを進めていくシステムはぼくなどでもとまどうところがある。ご老人は途方にくれるのではないでしょうか。それに、うるさいのは気がまぎれる分もあります。音のない世界は、どこか死をイメージさせるところがあります。白血病を抱えていた時に、この音なしのシステムだったら、「死のベルトコンベアー」に乗せられたような不気味さを感じて、ぼくは気が滅入っていたと思います。

 個人情報をさらけ出され、弱っている患者さんの耳元でたえず大音声が流れている環境はいうまでもなくデリカシーにかけ、快適ではありません。しかし、静謐のなかで機械を相手に手続きをとる環境が、人間的であるとはとてもいえません。患者さんにやさしい環境とは何か。とても難しい問題に思えます。

優劣のかなたに

2007-05-07 19:36:31 | Weblog
 学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで

 国語教育の実践で名高い大村はまさんの詩である。大村さんが亡くなった時に、この詩がメディアでよく紹介されていた。言っていることにはもちろん何の異論もないのだが、強い違和感を覚えた部分があった。

 たとえばこの詩を、大村さんの教え子で、晩年の大村さんの世話をしていた苅谷夏子さんの書いた追悼文でみた。苅谷さんは、学力低下論で名高い苅谷剛彦東大教授の奥様で、自らも東大の国文科を出ておられる。そして、「朝日」の「天声人語」でも、NHKの夜の時事解説の番組でも、この詩を目(耳?)にした。

 苅谷さんだけではない。「天声人語」氏も、NHKの解説委員も、超一流大学を出ておられるのだろう。つまり「優」の極みの人たちである。その人たちが「優劣のかなたに」といっている。どこかおかしくないか。「優」の人たちは勉強が好きだ。いくらでも「学びひたれ」るだろう。勉強が嫌いな、できない子どもたちの気持ちが、彼らに分かるのだろうか。分かっていないということが分かっていないとすれば、あまりに鈍感すぎる。

 勉強のよくできる、大好きな人たちが、「勉強ってこんなに楽しいのにね」とうなずき会っている姿が浮かんでくる。少し飛躍があるかもしれないが、ここに今日の教育改革論議の不毛性が浮かび上がっているようにみえる。学校教育の基準が、昔勉強がよくできた人たちの身の丈を基準にきめられているのだ。これでは落ちこぼれる子どもが増えるばかりではないのか。

 正直にいう。ぼくはカリスマ教師が嫌いだ。子どもたちに対する支配欲と、ある種のサディズムを感じるからだ。林竹二然り。鳥山敏子然りである。ただ『山びこ学校』の無着先生は好きだ。無着先生は、狭いクラスのなかでの陶酔や達成には何の関心もなかった。子どもたちの目を外の広い世界に向けようとする志向性を無着先生の実践からは感じる。

家族(祝子どもの日・声に出してよみたい傑作選25)

2007-05-05 17:11:52 | Weblog
 ぼくの兄には3人の子どもがいる。みんな男の子だ。いまはみんな成人した。親にとっては、どの子も同じようにかわいいはずである。しかし上の子に期待をかけるし、下の子にはどうしても甘くなる。まんなかの子どもは大変である。自分を常にアピールしていなければならないからだ。兄の次男のえーちゃんも、小さな頃から武勇伝が数知れずあった。

 小学校の入学式の時のこと。えーちゃんたち新入生は、講堂の舞台の上にいた。斬新な試みである。主役の新入生こそが高い場所にいるべきではないのか。そんな「進歩的」な親の主張が通ったためである。校長先生の式辞がはじまると、えーちゃんが壇上で踊り出した。そして数人の子どもたちが、それに追随したのである。入学式は滅茶苦茶になった。

 小学校3年生ぐらいの時だったか。えーちゃんはやんちゃが過ぎてお母さんにひどく怒られた。えーちゃんは姿をくらました。夕方になっても帰ってこない。こんな時は近所に住んでいるおじいちゃんたちのマンションが駆け込み寺だ。ところがそこにもいない。近所を探してもえーちゃんはいない。夜になった。警察に捜索願を出そうかという話も出た。

 その時、庭でごそごそと動く物音がした。えーちゃんだった。家の庭の隅に潜んでいたのだ。みんながえーちゃんを取り囲んだ。「馬鹿」!えーちゃんのお父さん(ぼくの兄)はそう叫ぶと、彼の頬を打った。そしてえーちゃんを抱きしめると号泣を始めた。みんなも一緒に泣いた。その時、おばあちゃんがいった。「なんでマンションに来(こ)なんだだ?」。すると末っ子のけーちゃんが答えた。「だって年寄りはそうで(遠からず)死ぬだもん。頼っとったっていけんが」。「ほんにそうだ。年寄りはそうで死ぬで」とおじいちゃんがいった。みんなが笑った。