ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

異邦人

2006-11-29 10:52:43 | Weblog
 鳥取に帰って感じることは、とにかく景気が悪いということだ。唯一の大企業鳥取三洋電機は大不振。製造業はグローバル化のなかで壊滅状態。頼みの綱の第一次産業は、後継者不足から衰退の一途。観光もふるわない。いい材料は何一つない。経済を血の流れにたとえると、「再生不良性貧血」という連想が浮かんでくる。

 鳥取県の片山知事は、改革派知事の代表選手として名高い。彼は公共事業を徹底的に削減して、県の財政立て直しに大なる貢献を果した。就任以来、県の公共事業費は半減しているはずである。何故これほどの財政削減が可能になったのか。それは片山氏が岡山の人で、よそ者であることが大きかったのだと思う。地元に何のしがらみもないから、義理人情にとらわれることなく、財政削減の大なたをふるうことができたのだ。

 財政出動を国や地方の政府が積極的に行い、政府は赤字を出しながもら景気を浮揚させていく。これがケインズ政策である。片山県政はこれの逆をやった。市場から県の金を引き上げて、財政の健全化を図った。その結果として残ったのが慢性的な不景気である。

 片山知事は、経済政策ではまったく無策だ。バラマキに頼るのではなく、経済を浮揚させるには、地域(鳥取弁でジゲ)の力を引き出さなければならない。しかし、よそ者である片山氏には鳥取というジゲの力が何であるのか、皆目分からないのではないか。財政削減ではプラスに作用した彼のよそ者性が、経済政策の面ではマイナスに働いている。

 数多の改革派知事がいま馬脚をあらわしてきている。そのなかでの片山知事の清廉さには、目を見張るものがある。県民の信望は絶大だ。かつて鳥取を支配していた土建ボス、農協ボスの類はすべて没落した。来年の知事選で片山氏は、間違いなく3選されるだろう。しかし県経済の「再生不良性貧血」に治療の目処はたたないままだ。片山氏の後には、「中央との深いパイプを」を売り物にする人物が知事の椅子に座っている。そんな予感のする今日この頃である。

大人しい日本の私

2006-11-26 11:53:50 | Weblog
 フランスでは、新しい雇用法に反対する若者たちの暴動があった。日本の若者はこれだけ不利な状況におかれながら、何故デモの一つも起こさないのか。海外の識者が一様に不思議がるところである。学生たちにこの問いを投げかけると、あのおきまりの答えが返ってくる。「それが日本の国民性だから」。

 大人しいのが日本人の国民性?これほどの嘘っぱちも他にないだろう。いまアンドルー・ゴードンの『日本の200年』という本を読んでいる。日本の近現代史を過不足なく説明している。よいテキストになる。うちの学生にも是非読ませてみたい。この本を読んでいると、日本近現代史とはすなわち、民衆騒擾の歴史であるということに気がつく。

 幕末維新期の一揆の多発。自由民権運動期の民衆の政治行動の活発化。ポーツマス講和条約に際しての日比谷焼き討ち事件や米騒動は、後の日本の進路にも大きな影響を及ぼした。戦後も日米安保闘争に、三井三池の労使紛争。そして学生反乱と三里塚、各地の反公害闘争と書いていけばきりがないほどだ。こうした騒擾が起こらなくなったのは、1973年にオイルショックで高度経済成長が終焉してからのことに属する。

 何故、高度経済成長の終焉とともに民衆騒擾が起こらなくなったのかこあもの時代には、「一億総中流」というイメージが流布されていった。すべての日本人のなかに、あたかも自分が「もてるもの」であるかのような錯覚が生じたのだ。「もたざるもの」たちの起こす騒擾に対して、この時代以降、共感よりもむしろ忌避感が強まっていった。「もたざるもの」が圧倒的に増えた現在でも、この感覚は続いている。強迫的に自分が「もてるもの」の側にあると思い込む傾向は、むしろ強くなっている。

 不満があっても大人しくしていて、お上に異議を唱えないのは日本人の国民性でも何でもない。いまの日本人は、江戸期の農民よりも、よほどお上に従順なのではないか。不満や不平をもっていても、それが強い者に向かうことはない。そのはけ口は必然的に弱い者に向けられていく。大人の世界にも子どもの世界にもいじめがはびこる所以である。

ノーベル賞と大島紬

2006-11-23 16:17:24 | Weblog
 「史上最強のサラリーマン」、島津製作所勤務の田中さんが、ノーベル賞を受賞してからもう4年がたちます。「博士」でも「教授」でもなく、「さん」というのがいいですね。地位や権勢を追い求めるエセ学者の鼻をあかしたようで痛快です。何しろ「田中」さんです。一番フツーの名字。このノーベル賞は、日本のコモンマンの素晴らしさを物語るものといえるでしょう。

 田中さんフィーバーが続いていたころ。太郎がぼくにこう尋ねました。「びんちゃん、ノーベル賞とったことある?」。田中さんがいかにもそこらにいる感じのお父さんなので、ならば「びんちゃん」もと、太郎は思ったのかも知れません。

 ぼくが大学院の博士課程に入った1981年。福井教授が田中さんと同じノーベル化学賞をとりました。この時、ストックホルムの受賞式後のパーティに、福井教授が大島紬を着てあらわれました。それをみた母は、50万円を出してぼくに大島紬の着物を買ってくれたのです。うちの次男坊も将来学者になるのであれば、ノーベル賞をとる可能性皆無とはしない。ストックホルムで恥をかかないように立派な着物を作ってやろう。そんな母心からでした。しかし、そのころは精悍なスポーツマン体型だったぼくも、その後は醜く中年太りをしてしまい、当時の体型にあわせて作った大島紬は、一度も袖を通さぬうちに着れなくなってしまったのです。

 7年前。ぼくの病気の報を聞いて両親はひどく落ちこみました。しかし商売人の両親は、根がプラグマティックにできています。彼らは早手回しにぼくの葬式の相談をしたようです。そこで死に装束をどうするかという話題になった時、母がなんと言ったか。「ああ、大島紬がありますわいな。あのもんが太って着れんようになっとりましたけど、大病して痩せりゃあ大きさもちょうどようなりましょうで。ノーベル賞のパーティでなしに、こんなことで着せるのはほんに残念ですけどなぁ」。

 ぼくはあやうく大島紬を着て、ストックホルムならぬあの世の土(?)を踏むところでした。そんなことにならなくて本当によかった!

日本語練習帳(「ごきげんよう!」・声に出して読みたい傑作選15)

2006-11-20 12:50:01 | Weblog
 鹿児島の大学に就職した翌年の春に婚約をした。その年の正月に池袋の居酒屋で唐突にプロポーズした後、とんとん拍子にことが進んだのである。彼女が「天皇がOB」の大学を卒業する直前のことだった。同じ大学の法学部の事務助手に彼女の就職がきまっていたので、1年間は遠距離恋愛である。私は暇だったので、しょっちゅう東京に遊びに来ていた。

 婚約者とはG大で待ち合わせることが多かった。最近結婚した女性皇族がG大の国文科に在学していた。ぼくも一度だけ学食で彼女をみた。華やかな「ご学友」に取り囲まれていたが、彼女自身は地味で好ましい印象を与える人である。バイニング婦人の薫陶を受け、若い頃にはマンションから電車で皇居に通勤したいといっていた明仁天皇の影響もあるのだろうか。

 ある日、G大の国文科の研究室で婚約者と待ち合わせることになった。彼女もそこの出身で、仲のよい友だちがやはり事務助手をしていた。ぼくは当時でたらめな身なりをしていた。髪はボサボサ。薄汚れたトレーナーによれよれの綿パン。穴だらけのテニスシューズを履いて、手には「めぞん一刻」の紙袋を提げていた。どうみても「怪しい人」である。

 エレベーターでは、小柄で眼光の鋭い老人と一緒になった。かの大ベストセラー『日本語練習帳』を書いた国語学の大権威である。大権威はぼくをじろりと睨みつけた。怪しいやつだと思ったのだろう。ぼくも目に力をこめてにらみ返した。えらい人かも知れないが、人をにらみつけるなど無礼である。二人の男のにらみあいは続いた。

 国文研究室のある階にエレベーターがついた。大権威はエレベーターを降りるやいなや「曲者だ!ひっとらえろ!!」と大声で叫んで走り出した。宮様が在籍していたので大権威もナーバスになっていたのだろう。助手さんと大学院生たちは、「曲者」を求めて大捕り物を始めた。すぐにぼくと彼らは出会った。みんなぼくのことを知っている。彼らはみな「曲者」に会釈をすると、どたばたと走り去っていった。

カナダからの手紙3

2006-11-15 11:49:23 | Weblog
 カナダへの派遣がきまってから今日まで、「あっ」という間に時が過ぎていしまいました。その短い期間に、充実した体験がたくさん詰まっています。夏休みのカナダ行きに向けての準備合宿では、他の中学の友だちと仲良くなる事が出来ました。そこで英語の特訓を受け、カナダについての知識を身につけて、派遣へ向けての準備を整えました。

 私がホームステイをしたのは、インド系のご家族でした。夕食は毎晩カレー。皆右手(素手)で食べています。私も最初は頑張ってそのマネをしました。あまりにも私が食べるのが下手だったようで、翌日からはお母さんが箸を出してくださいました。そのカレーの辛いこと、辛いこと。超激辛カレーが出た時には、ホストファミリーの方々さえもが、辛さに苦しみ会話ができなかったほどです。

カナダに行く前は、油気が多いのではないか、食べものが総じて巨大なのではないかと、そんな心配ばかりをしていました。辛いカレーで苦しむなど、夢にも思いませんでした。一口に「カナダ」と言っても、本当に色々なのだなあ、と思いました。

私が通ったのは、とても広い学校でした。日本と授業の風景が全然違う!とにかく騒がしいのです。ところが、恐い先生の授業の時間には静かになります。行儀の悪い男の子を、「Get Out!」と言って追い出した先生がいました。その先生の授業時間中は本当に静かでした。この点は日本と何の違いもありません。変なところは似るものです。

学校ではクラスの人と沢山話す事ができました。向こうの子どもたちが、紙に書いたり辞書を引いたりしてくれたので、思った以上に沢山話ができて嬉しかったです。カナダでは、NARUTOという日本のアニメがとても流行っていました。私もこのマンガのファンなので、NARUTOの話題で大いに盛り上がりました。

 大変素敵な経験でした。私たちを支えていただいたすべての方々に心より御礼申し上げます。どうもありがとうございました。あ、せっかくなので英語で。
Thank you very much!!
                             
            by骨子(帰国報告会でのスピーチより)


無菌室のエスノグラフィー

2006-11-12 10:55:48 | Weblog
これまで何度かこのブログにコメントをいただいた方が、現在無菌室で闘病を続けておられる。その方がネット上で毎日日記を書いておられるのだが、やはり7年もたつと骨髄移植の現場も大きく様変わりするようだ。まず無菌室と書いたが、この方の場合は普通の個室に大規模な空気清浄装置をもちこんだという表現の方が正しい。機器の高度化でかつてのような大げさなインフラが必要なくなったということだろうか。

 私の時には無菌室へのワープロパソコンのもちこみはできなかったが、いまではネット上で多くの方が、闘病の模様を「実況中継」しておられる。ネットの存在は、患者さんにとって情報収集・情報発信の上での大きな武器といえる。無菌室の外側の人間にも、友人の容態がリアルタイムで分かることは非常にありがたい。しかし、過酷な治療である。また自分自身その経験がある分、読むのがつらい部分があるのも事実である。そして無菌室のなかからの発言がとぎれるとやはり心配になるものだ。

 私のネット上の友人も移植から60日ほどたった。いろいろと不調はあるものの、骨髄の生着は順調で、医者はそろそろ退院してかまわないという口ぶりであるという。私は移植後65日で退院したが、これは骨髄移植患者としては、当時の病院での記録になるのではないかというほどの短時日の入院である。当時は移植後100日が退院の目安だったのだ。

 7年前の「記録」とされたものが、いまは標準となっている。といえば言いすぎかもしれないが、明らかに入院の日数は短縮されている。これは長期の入院を認めなくなった保険医療制度の改革とも無関係ではないだろう。しかしそれだけ移植医療が進歩したということでもある。血液疾患の治療法の目覚しい進歩は、私も入院中から感じていた。一日永らえれば、医学の進歩のおかげでもう一日おまけがつくかもしれない。そんなふうに考えたことを思い出した。

明日のために2

2006-11-09 06:25:55 | Weblog
 亀田ファミリーの3男が、中学に行かないことがマスコミから叩かれていた。たしかに中学は義務教育である。しかし、彼が中学に行って何かいいことがあるのだろうか。およそ勉強する気などないのだと思う。机に座っているのは、彼にとって苦痛でしかあるまい。それにあの一家の性分だから、大人しくしているはずがない。きっと暴れれると思う。あのハードパンチを食らったら大変だ。

 数学者の森毅さんは、小中学校(こっちは旧制)の時に、病弱ではないのによく学校を休んだという。その時、お父さんは学校に行けとは言わなかった。「学校にいくよりも充実した1日を送ること」を条件に、森さんが学校を休むことを許したのである。亀田3男が教室にいても、空疎な1日でしかない。しかし、ボクシングの練習で過ごす1日はものすごく充実しているだろう。森さんの父上なら亀田3男に「大いに休みなさい」とおっしゃるのではないか。

 この話題をもちかけると、勤務校の学生も福沢大学の学生も、きまって「でも中学ぐらい行っておかないと後で困る」という。たしかに義務教育で習うことが分かっていなければ、困るだろう。しかし、教室に座っていれば、その知識は身につくのだろうか。それに困った時に勉強をやり直せばいいではないか。必要に迫られてする勉強ほど身につくものである。多くの子どもたちにとって勉強が苦痛でしかないのは、それを学ぶ切実さをおよそ感じることができないからである。

 誰にとっても何の益もないのに、亀田3男に学校に行けとマスコミは騒ぎ立てる。こういう風潮がいじめられている子どもを自殺においやるのではないか。学校に行かない人間はどうしようもないという風潮があるから、「よい子」たちは親を悲しませまいとして、無理をして学校に行く。その結果が、自死だというのは何たる皮肉か。

 北欧諸国では、親が責任をもって子どもの教育にあたるのであれば、子どもを学校に行かせなくてもかまわないという国があると聞いた。日本もこれに倣えばよい。いやでいやでしょうがない者に無理やりに行けというのでは、学校も収容所も変わらない。

悪の陳腐さについて2

2006-11-06 07:00:27 | Weblog
 各地の高校で起こった単位のごまかしの問題を授業でよく話す。この3月まで、1年生の反応がとてもよい。ある公立進学校から来た学生の話。「私の高校はまだこの問題で名前があがっていません。でも高校に入って買わされた教科書のうちに全然使わなかったものが5冊もありました。きっと私の高校はごまかしの事実を隠しているのだと思います」。家庭科の授業は土曜日に2回ほど集められておしまい。「これで70回授業をしたことにしておく」。担当教師がそう宣言したといっていたのは、東京圏の私立高校の出身者。

 ごまかしをやったのに頬かむりをしている学校。一応ごまかしの事実を白状はしても、すべてを明らかにしていない学校。家庭科のケースのように違法ではないが、脱法に近い手口でずるをやった学校…。表に出ているのは氷山の一角でしかなく、公立私立を問わず、進学校といわれる学校はみんなこの手のことをやっているのでないかとさえ思えてくる。

 県立高校の発行する内申書は公文書である。そこに履修すらしていない科目の成績を記載すれば、公文書偽造罪にあたる。つまりは犯罪だ。みんながやっている。それがこの国では最大の免罪符になる。いや、他がやっているのに自分のところだけやっていないと、逆に罪悪感に苛まれるのではないか。「バスに乗り遅れるな」ということばは死語になってはいない。単位のごまかしに手を染めた校長先生たちも、生徒に「人に流されるな。おのが信じるところに従って生きよ」と訓示していたのだろうか。まるでブラックユーモアだ。

 大学もいま「改革」のさなかにある。その「改革」が何故必要なのか。「他所がやっているから」。それが本当に大学を益するかどうかの検証がなされることはほとんどない。ここでも「バスに乗り遅れるな」は金科玉条だ。付和雷同性こそが日本人の国民性だと言いたくもなる。「死刑廃止バス」に乗り遅れて一向に平気そうなのが説明のつかないところだが。

天皇陛下万歳!(来年はヤクルト勝つかにゃあ・声に出して読みたい傑作選14)

2006-11-03 07:48:35 | Weblog
今年の日本シリーズは、北海道日本ハムファイターズが優勝。新庄ブームにドラゴンズが飲み込まれた格好でした。6年前、私が無菌室でみた日本シリーズは、王・ダイエー(現ソフトバンク)と星野・中日の決戦でした。とにかく無菌室ではやることがありません。英語の分厚い本も夜読むと眠れなくなるので、日没で読書はおしまい。日本シリーズの全試合をプレ一ボールからゲームセットまですべて見ました。こんなことはおそらく最初で最後でしょう。

 中日のホームゲームには、末期ガンのミュージシャン、池田貴族が観戦に来ていました。名古屋出身の彼は熱狂的な中日ファンだったのです。「美憂」という名の幼い女の子を遺してこの年のクリスマスに、彼は帰らぬ人となったのです。ダイエーのシリーズ制覇が決まった翌日には、中村江里子似の主治医と年配の看護師さんが、「ダイエーのバーゲンが楽しみ」と主婦の会話をしていました。テレビ東京は、高倉健が中日ドラゴンズの監督を演じたハリウッド映画を平日の昼間に流していました。ドラゴンズが敗退した翌日だったから、トホホっていう感じがしないでもなかった。

 星野仙一は、鳥取の隣県岡山の人で、高校(倉敷商業)時代は東中国大会決勝で米子南高校に敗れ、甲子園出場の道を断たれています。わが郷土と因縁浅からぬ彼には好感をもっていました。また、幼くして父親を亡くし、苦労をした彼は、足長育英会への支援を惜しみません。私もあやうく太郎と骨子を遺児にしかかったので、この点では星野仙一には手を合わせたい気持ちすらあります。ところが…。

 無菌室を出てしばらく日の過ぎた11月なかばのこと。テレビは、「天皇在位10周年記念式典」の映像を伝えていました。ぐれいだとかえっくすじゃぱんだとか、異様な風体をしたロックミュージシャンが天皇の在位10年を寿ぎ奉る歌を歌っています。くりびつてんぎょう!ロッカーって欧米では、反体制の象徴ではないのさ?おりから国会では、盗聴法をはじめとする物騒な法案の審議が進んでいました。ああ、日本は変な国になった。翼賛体制の復活だ。生きていてよくなかった。放射線の雨に打たれて、あのまま死んでいればよかった…。そんな思いが私の脳裏を駆け巡ります。とどめをさしたのが、かの星野仙一です。「天皇陛下、バンザーイ!」。うぐぐ。やはり彼は明大野球部の恩師、島岡吉郎の衣鉢を継ぐ右翼だったのでしょうか。

 この後、中日・阪神と彼の関わるチームをどうにも応援する気にはなれませんでした。まあ、ナベツネからの巨人軍監督要請を断ったので少しは見直したところですが…。