ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

トラヒゲと資本主義2(日本はどこへ行くのか・声に出して読みたい傑作選52)

2008-04-29 09:20:23 | Weblog
 魔女の国。海賊の国。ひょうたん島が出会う国々のなかには、禍々しいものも少なくなかった。ひょうたん島の住人は基本的には善人ばかりである。しかし、彼らは容易に悪によって篭絡されてしまう。悪に加担することも稀ではなかった。民主制は、他の政治体制のもつ毒や悪に対して無防備である。そして民主制は容易に衆愚政治に堕してしまうのだ。

 この島の住人のなかでただ一人、常に判断を過ることがなかったのが白皙の美少年・博士である。しかし、真実を語る博士は悪によって目を曇らされた他の住人たちから疎まれる。忠実な友であるライオン君とともに幽閉された博士は、「もしも ぼくに 翼があったらなぁ…」と歌うのだ。博士は無謬であるという設定は、戦後民主主義の理性信仰のあらわれだろう。

 この島の民主制は、蹉跌に満ちたものだった。指導者として過ちを犯すごとに、ドン・ガバチョは潔く野に下る。島のはずれに庵を結び、「藤原朝臣(ふじわらのあそん)ドン・ガバチョゴム長」を名乗り、配所の月を仰ぐ心境を三十一文字に認める。そして、『ドン・ガバチョ回顧録』の執筆に専心したのである。もっとも、いとも簡単に大統領に復帰してしまうのが常だったが。

 マシンガン・ダンディに心臓を打ち抜かれた魔女たちが、ガマガエルの正体をあらわす「マジョリカ編」の結末は衝撃的なものだった。クレタモラッタ島の神々は、地上に降下して人間となり、漬物屋を生業に選ぶ。主力商品はもちろん「福神漬け」である。単純なハッピーエンドではない、含蓄に富んだ終わり方をしたストーリーが多かった。

 善と悪、幸と不幸との間に明確な線を引くことはできない。「ひょうたん島」が伝える教訓である。この番組が終わった30年後、高度経済成長期の美談集『プロジェクトX』の放送が始まった。30年間でNHKはすっかり堕落してしまった。この番組のチーフプロデューサーは、ぼくと同い歳の人間である。彼は、「ひょうたん島」から何を学んだのだろうか。

乱塾時代

2008-04-26 08:13:04 | Weblog
和田中の問題やら、東京都が貧しい家庭の塾代を援助する問題だとか、最近何かと塾が話題になる。骨子も中2から塾に行っていた。塾に行っていない子どもは珍しがられるほどである。東京圏では、どうしてみんな塾に通うのか。それは公立中学校がほとんど受験指導をしないからである。

 模試(2度ほどあったか)や補習をしないというだけではない。受験に必要な自分の「学力」も分からない仕組みになっている。試験の順位を出すことはない。いや教科ごとの平均点すら公表しないのだ。通知表はもちろんあるが、これは「勤務評定」のようなもの。まじめにやっているか、提出物をきちんと出しているかといった部分の比重が大きい。50点で5。100点をとっても3。そんな極端なケースも生じる。受験学力の有無はこれではまったく分からない。

 公教育は受験指導をしないという建前を貫くのであれば、教育行政の側は、公立高校を小学区制にして高校間の格差をなくし、一定の学力水準に達した希望者を全員受け容れるようにすべきだろう。これなら競争は起こらないから受験指導もいらない。ところが現在の教育行政は、「独自入試」を課す高校を創るなどして、競争と序列化を煽っているのだ。

 公立中学の教師たちが、受験指導を放棄したに等しい現状に私は違和感を覚えている。子どもたちにとって高校受験は最大の関心事であり、また人生で最初に迎える試練でもある。ところが公立中学の教師たちは、そこにほとんど関わっていない。これで子どもときちんと向き合っているといえるのだろうか。

 公立中学の先生は、子どもの受験の面倒はほとんどみないのに、受験を生徒管理のために利用している。子どもたちが内申書に対して感じているプレッシャーはすさまじい。中学校の先生は、内申書で子どもを脅すだけ。少なくとも塾の先生は受験戦争をともに戦ってくれる。学校より塾が楽しいという子どもの気持ちも分からぬではない。


♪私がおばさんになぁっても

2008-04-23 06:28:28 | Weblog
 先週の授業で、最近では「青年期」がどんどん後ろにのびていて、最近の官庁統計では、34最までが若者=青年のくくりに入っている場合があるという話をしました。30代前半の「高齢フリーター」の論客は、自らを「若者」と名乗っています。この話をしていると、教室の中から「ぎゃあー」という叫びがあがりました。なんで叫ぶのか。そう学生に聞くと「だって34歳って、おじさんおばさんじゃん」と実も蓋もないことをいいます。

 いつまでも大人にならない時代だとか、青年期が後に伸びているとかいうけれども、「30過ぎればおじさん、おばさん」という若者たちの感覚には、変化はないようです。就職や結婚で社会人として身を固める時期が後ろに延びている。これを「ポスト青年期現象」といいますが、青年・若者の社会学的定義と、何歳までが若いのかという感覚とはまた別物のようです。

 私の学生たちはときに矛盾したことをいいます。「まだ自分は子ども」といいながら、「うちらは若くないから」。「大人」の内実を満たしているとは思えない。しかしメディアや消費産業がもちあげる「若者」は、女子高生か、あるいはもっと下の年齢を指すようになってしまった。大人でも若者でも子どもでもない。あるいはそのすべてでもある。そうしたアイデンティティの宙吊り状態に彼女たちはいるのかなあ、と思いました。

 就職と結婚とによって青年期が終わるのであれば、フリーター現象と非婚晩婚化によって、「ポスト青年期」は果てしなく後に延びる可能性があります。官庁統計のくくりで、若者・青年の次にくるのが「後期高齢者」。そんな時代は来るのでしょうか。話としては面白いのですが、それはやはりギャグの域を出ないと思います。生殖の能力がやはり若さの前提でしょう。いまは女性ばかりでなく、男性にも更年期があることは広く知られています。いくらなんでもポスト青年期も、40の手前ではとまるでしょう。

ああ、腹がたつ!

2008-04-20 13:58:32 | Weblog
千葉県の県立高校で、入学金を納めていなかったという理由で、新入生二人が入学式への参加を拒否されました。この二人の生徒とご両親は、どれほどの屈辱を味わったことでしょうか。こういう卑劣な「みせしめ」をして恥じることのない校長に「教育者」を名乗る資格はありません。

 マスコミ報道によれば、教育行政は現場の先生たちに、未納の授業料の徴収をさせているとのこと。お金のとりたてが教師の仕事でしょうか。日教組は日の丸・君が代ばかりにかかずらっていないで、授業料徴収の押し付けに徹底的に抵抗をしてください。「子どもたちに二度と授業料を支払わせない」というスローガンを掲げればよい。高校大学の学費は無償であることが、国際人権規約に定められた「世界標準」なのですから。

 授業料未納の総額などたいしたものではないはずです。くだらぬ石原銀行には何百億税金をつぎこんでも平気。無用なダムにもやはり何百億もすでにお金が投下されている。そして「特定財源」を守ってじゃかじゃか無用な道路を造ろうとしている。他のところでは相変わらず湯水のようにお金を濫費しているのに、こと教育に関わることだと、はした金でも目の色を変えて取り立てようとする。

 今回の千葉の高校のようなことをやれば、子どもの心がどれほど傷つくかなどということにはまったく頓着がないらしい。この国の大人たちは教育を無価値な営みだと思っているらしい。子どもなんかじゃまだと思っているらしい。子どもや教育をおろそかにしているのだから、誰も子どもを生もうとしないのは当たり前です。

 それにしても生活保護を打ち切って餓死させてしまった北九州の事例といい、今回の入学金の問題、そしてかねての給食費未納の問題といい、この国の権力は貧困を懲罰の対象と考えているようです。これはイギリスで救貧法が施行される以前の感覚です。21世紀を迎えたこの国は、19世紀に逆戻りしてしまったのでしょうか。


玄界灘(祝ブログ開設4周年・声に出して読みたい傑作選51)

2008-04-18 06:22:43 | Weblog
 大学院生の頃はアルバイトに明け暮れていた。博士課程の時である。町田の予備校で日本史を教えることになった。最初この仕事を紹介された時ぼくは断った。日本史など知らないのである。大学入試を日本史で受けるつもりがなかったので、単位数の少ない授業しか受けなかった。担当教師もやる気のない人だった。学生時代の寮は酷いところだったと繰り返し話していた。授業はほとんど進まなかった。ぼくの高校日本史は元寇で終わっている。

 仕事を紹介してくれた先輩は、予備校の授業など話術だけで何とでもなると無責任なことをいう。甘言につられて引き受けてはみたが、やはり後悔した。学力不足は歴然である。まず漢字が読めない。「八色の姓」。これはなんと読むのか。実力のなさはすぐに生徒に見抜かれた。授業が終わるごとにその日のぼくの間違いを指摘してくれた生徒がいた。有名私大に合格したその生徒は、「先生に教えたことが一番の勉強になった」といってくれた。

 きちんと準備していればまだ何とかなったのだと思う。ところがいやなことは先にのばす性分だ。結局予備校の近くの喫茶店でモーニングサービスを食べながら予習をするはめになる。それをやるにも誘惑と戦わなければならない。スポーツ新聞やインベーダー・ゲームが、「おいでおいで」をするではないか。ぼくは簡単に誘惑に屈してしまった。何も知らない人間が何の準備もせずに教壇に立つ。空恐ろしい授業を一年間ぼくは続けた。

 それでも元寇の話にはいささか自信がある。高校日本史の最後の授業をぼくはまじめに聞いていた。だからぼくは神風が吹いて元の船が沈んだことを知っている。「日が落ちて沖の船に戻ると決めた時、元の将軍はなんと呟いたか知っていますか?」。ぼくは生徒に尋ねた。生徒は怪訝な顔をしている。ぼくは厳かに言った。「暗くなった。もう、げんかいだな!」。そう限界だった。翌年、ぼくのもとにその予備校から出講の依頼は来なかったのである。

ジャパンミラクル

2008-04-16 06:11:11 | Weblog
 近所に世話好きなおばあさんがいる。先週末、夜の9時ごろにうちを訪ねてこられた。友達からもらったけど私は食べないから、といってチョコレートをくれた。なんと中国製である。悩んだ末に、せっかくいただいたのだからと食べることにした。子ども二人がまず食べた。ひどくまずいという。ぼくが食べたのは、なかにクリームの入ったチョコレートだった。そのクリームが、ひどく油っぽくていやな味がした。ポマードを口に含んだような感じと形容すべきか。あわてて吐き出した。やはり中国製品は怖い。

 いまの中国をそしる人たちが、日本の高度経済成長期を礼賛するのが不思議で仕方がない。高度経済成長期の日本といまの中国とはそっくりではないか。急速な経済発展と、「世界の工場」と呼ばれたそのポジション。そして「安かろう悪かろう」の輸出製品。それだけにはとどまらない。水俣の漁民たちは何十年にもわたって水銀入りの魚を食べさせられ、その結果水俣病が発生した。地域社会と国とチッソは、長きにわたってその事実に蓋をしてきたのだ。人権抑圧によってもたらされた経済発展という点でも、日本と中国は酷似している。

 中国人は毒を食べているという。たしかにそうかもしれない。だが、チクロ、サッカリン、ズルチン、そして数多の人工着色料。高度経済成長期の子どもであるぼくの世代はさんざん毒入食品を口にしている。ぼくが子どもの頃、空中からの農薬散布がさかんに行われていた。田んぼで遊んでいた時、背骨の曲がったおたまじゃくしが何匹もいて、驚いた記憶がある。当時ぼくらが食べていた米や野菜は、かの毒入り餃子とどれほどの違いがあるのだろうか。毒を食って育ってきたことが、自分の世代よりもむしろ、骨子や太郎の代にたたるのではないかと心配している。

 70年代のはじめに起こった激烈な反公害闘争は、こうした状況を相当程度改善していった。中国にそうした運動が起きることは期待できそうもない。いや、日本でも反公害運動が、冷酷なこの国の権力構造を退場させたわけではなかった。今日に至るまで、水俣病患者を苦しめたのと同じ権力が、若者の未来を閉ざし、弱いものは死ねといわんばかりの福祉行政を行っているのだ。

 


食い物のうらみ

2008-04-14 16:35:40 | Weblog
 少年の凶悪犯罪が実は昔に比べて減っていることは、よく知られるようになった。しかし、青少年をめぐる環境は悪くなっているのに、何故彼らが犯罪に走らないのか。このことについて、あまり語られていないのが不思議である。

 これはぼくは少子化のよい影響が出ているのだと思う。子どもを育ててみるとわかるが、上の子というのはおっとりしている。ごちそうがだされても、あっというまに下の子に食べられてしまうのだ。長男長女、それに一人っ子が増えた。おっとりした気質の若者が増えている。そのことと犯罪の現象は無関係ではあるまい。

 マクロでみてみよう。人口が多いとストレスがかかる。団塊の世代が「戦後少年犯罪のピーク」を築き、猛烈な若者の反乱を引き起こしたのも、その人口圧の高さ故だ。この世代が若い頃にかりに就職難に直面し、フリーターが激増していれば、どんな騒ぎが起こったことだろうか。権力者たちは、いまの大人しい若者たちと少子化に感謝しなければならないのである。

 ガストン・ブートーゥールというフランスの社会学者は、戦争は「延期された子殺し」だといっている。戦争は歴史的にみて人口急増地域で起こっているとブートーゥルはいう。人口が急激に増えた日本とドイツが20世紀前半の世界平和の撹乱要因になったことを想起すれば、ブートゥールの言は大いにうなずけるものだ。平和国家を標榜するこの国で、何故少子化を歓迎する空気が支配的にならないのか。不思議でしかたがない。

 プルーストの「失われた時を求めて」は、マドレーヌの匂いが過去の回想を喚起する場面から始まっている。フランスは人口の増えない社会だった。そのため軍隊も弱く工業も盛んにならなかった。しかし、子どもの数が少ないからこそ、優雅にマドレーヌの匂いを楽しむゆとりもあったのだと思う。子だくさんの20世紀初頭のドイツ人家庭でマドレーヌがおやつに登場すれば、兄弟姉妹間の壮絶なバトルが始まること必定である。強国への未練はさっぱり捨て去って、フランスのような繊細な文化大国の道を目指すのも悪い選択ではないと思うのだが。

空治国家

2008-04-12 11:43:07 | Weblog
 覚醒剤取り締まり法違反の容疑で逮捕され、一審で無罪になりながら拘留されていたスイス人女性に、二審の東京高裁でも無罪の判決がくだった。裁判長は彼女に「まことにお気の毒」と声をかけたというが、「お気の毒」ですむ話ではない。刑事訴訟法には、無罪の判決を受けた者を拘留してはならないと明記されている(345条)。無罪拘留は完全な法律違反である。

 彼女は不法滞在の外国人であった。釈放し、国外退去させてしまうと控訴審が維持できなくなる。それが無罪拘留の続けられた理由であった。被告側の異議申し立てに対して最高裁は、「罪を疑う相当な理由があるため控訴審で勾留しても問題はない」とこれを退けている。日本が批准している国連人権規約のなかには、有罪が確定するまで被告人は「無罪と推定される権利を有する」と明記されている。憲法第98条には、国際法の遵守義務が謳われている。スイス人女性を「有罪推定」した最高裁の判断もまた、法を無視したものなのである。

 最高裁判所までもが平気で法律を踏みにじっているのである。こんな国が、「法治国家」であるはずがない。法という普遍的な原理に頼れない国の民は、その場その場を支配する力関係に敏感にならざるをえないだろう。だから日本人は懸命に場の「空気」を読もうとする。力をもつ者たちから疎まれ、つまはじきにされることを何より恐れているのだ。自分が不当な迫害にさらされた時に、法による保護を求めることは不可能なのだから。日本は「法治国家」ならぬ「空治国家」である。

 「空治国家」日本で裁判員制度がはじまる。裁判員たちの苦労には並々ならぬ者があるに違いない。なじみの無い法律と格闘しなければならないだけではなく、法廷の場の「空気」を読まなければならないのだから。もし世間の「空気」に背く判断を裁判員たちが下した時、果たしてこの人たちの身の安全は保障されるのだろうか。裁判員制度のなかから、様々な圧力に屈することなく自分たちの信念を貫く「12人の空気をよまない男と女たち」があらわれることが、この国の希望である。

 相模原風清し 

2008-04-10 12:32:38 | Weblog
 火曜日は骨子の入学式でした。骨子たちは第45期生。創立が昭和38年といいますから、団塊の世代を受け容れる学校としてできたのでしょう。ぼくたちの住むS市には、60年ほどの間にほとんど周辺町村を合併することなく人口が大膨張した特殊な発展過程があります。いまはこの学校は住宅地のなかにあります。しかし、創立当時の学校の周りは一面の畑だったのではないでしょうか。

 駅から離れたところにあるこの学校は95%の生徒が自転車通学をしています。生徒指導の必要はほとんどない学校だが、自転車事故だけは頭が痛いと骨子の担任の先生が話していました。骨子も駅から自転車で通います。しかも自転車に乗るのが非常に下手。高校の近くの道路に花が手向けてありました。死亡事故があったのでしょうか。不安になります。

 一応S高は進学校。「MARCHに強い」というのが自慢のようです。司法試験に定評のあるC大とおしゃれなA大がとくに人気だそうです。校風や学問の内容ではなく「自転車で通える距離」(A大は2年間だけですが)にあるのが人気の秘密だとか。若者たちの意外な地元志向。そういえば、ここはS市の公務員や教員になる卒業生の多い高校でもあります。

 校長先生は、声が大きくて押し出しもよく「やり手」といったタイプの人でした。横文字やスローガンが頻繁に飛び出します。「訓示」や「講話」というより「プレゼン」といった感じをもちました。教育者というより企業経営者のような印象。いまは学校も数値で業績を残さなければならない。それで社長さんのような校長先生が増えているのでしょうか。

 新入生総代のあいさつは見事なものでした。「まだ知り合いが誰もいない状態で、みんなを代表して何かを語ることには抵抗を覚えます。だからいまの自分の心境について語りたいと思います」。そう話し始めた彼は、期待と不安に満たされた自分の心のうちを、美辞麗句や紋切り型に頼ることなく見事に表現していました。校長先生のお話より、断然感動的でした。

幾度もあいさんに答えて

2008-04-08 15:15:08 | Weblog
「所得保障にみんなが賛成なら、社民党でも共産党でも選挙公約にすれば、与党になれる、わけないですよね。 だから「憲法9条」なんて言っている」。

 たしかに「憲法9条を守れ」という既成左翼の議論は愚劣ですよね。憲法9条がなくても、国連憲章とパリ不戦条約がある限り戦争は国家犯罪でしかないのですから。大体社民党の前身の社会党が政権に就いた時に、社会党の村山首相は何といったか。「自衛隊は違憲だが、自衛隊法に適合しているから合法」という「違憲合法論」を持ち出してきた。本当は憲法なんてどうでもいいんですよ。あの人たちは。

 しかし、社民党や共産党しかないから所得保障の議論が現実味をもってこないとはいえないでしょうか。何しろマルクス主義に根をもつ「働く者」=賃労働者の政党ですから。勤労と所得とを切り離すという所得保障の考え方からもっとも遠い政党だともいえます。

 若者たちの現在の窮境は、日本に緑の党がないことと大きな関係があるとぼくは考えています。何しろ労働は環境に対する暴力です。働かないのが一番環境にやさしい(笑)。環境保護を国是とするドイツ人の労働時間が極端に短いのも決して偶然ではないでしょう。緑の党があれば、必要な時だけ働くというフリーター的生き方は「環境にやさしい」として称揚されたでしょう。仕方のないことではあるし、正当なことでもあると思いますが、若者を擁護する学者たちが「若者たちは働きたがっている」ことを強調することにもぼくは違和感を抱くものです。日本には労働の倫理だけが根を張っていて、反労働の倫理があまりにも弱い。「怠ける権利」を積極的に主張する若者が出てきてほしいとぼくは望んでいます。

 所得保障がなされれば人々は必要以上には働かなくなるでしょうから、CO2排出量も劇的に減るでしょう。環境を第一義に考える「緑の党」が日本にあれば、所得保障が急速に現実味を帯びるとぼくが考える所以です。あいさんが中心になって、若い人たちの力で「緑の党」を立ち上げるというのはいかがでしょうか。