ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

一瞬の夏2

2006-07-31 07:12:01 | Weblog
 先週、骨子の吹奏楽のコンクールがあった。立派な演奏だった。骨子からは、女の子同士のいじめや諍いの話しかきいていなかっので、音楽もやっていたのだなあ、とおかしな感想をもった。県大会出場を決めた骨子たちは、喜びを爆発させていた。

 吹奏楽部は文科系のなかの体育会みたいなもの。年がら年中活動している。朝練も含めて一日の練習時間はとても長い。多くの練習時間を、楽器ごとのパートという「島宇宙」で過ごす。思春期の女の子たちの人間関係のストレスは凄まじいのだろう。いじめやいさかいがたえないはずだ。

 妻は中学校の時に吹奏楽部だったが、コンクールに出た記憶がないという。高校に入って吹奏楽部の門をたたいたものの、練習のハードさに驚いてすぐにやめてしまった。ぼくのソフトテニスも似たようなものだった。試合の数は少ないし、休みの日もたっぷりあった。いまの中学校の部活の厳しさは、比較を絶している。

 中学校の部活が大きく変質したのは、80年代のことだ。この時代には少年非行が増えていた。共働きの家庭が増えていたから、放課後長い時間子どもを「野放し」にすれば、非行を一層増大させかねない。学校に「託児機能」が期待されるようになった。そこで「部活の出番」である。子どもたちも当然、勉強よりは部活の方に熱中する。教師の側も目にみえる成果の上がる部活にエネルギーを注ぐようになった。

 中学の部活は弊害ばかりが目立つ気がする。整形外科にいくと中学高校の部活生ばかり。健康な身体をつくるはずの部活が子どもの身体を壊しているのだからお話にならない。早くから練習づけにして挫折を味あわせればその競技が嫌いになる。せっかくの才能の目が多数つまれているのではないか。このことは吹奏楽についてもいえる。楽器など、一生つきあうことができるもののはずなのに。音楽で勝った負けたと大騒ぎをするのも、おかしな話である。

「血液型は何ですか」?2

2006-07-28 05:48:17 | Weblog
 もともと血液型と性格の研究は、ナチスがはじめたものらしい。ナチスは無駄だと知ってとっととこの疑似科学から撤退したが、そこに執着したのが、わが帝国陸軍であった。戦時中は、住所と名前と血液型の書かれた布をみんなが服に縫い付けていた。それをみて互いに、この人はA型だからこう、B型だからこう、と批評しあっていたと亡くなった母は言っていた。そのあたりから血液型と性格は一致するとい俗説が一般に広まっていったのだろう。

 血液型と性格論議が爆発的なブームになったのは、70年代から80年代にかけてのことである。能見正比古という作家がこのテーマの本を何十冊も書き、ベストセラーになった。「血液型は何ですか?」ということばが広く聞かれるようになるにあたっては、この能見という作家の貢献は大きい。

 しかし何故、日本社会ではこれほど血液型が注目されるのか。この国では、何でも人間関係を上下序列の観点からみる。上下序列の明らかにならないうちは話もできない。東海林さだおが好んで描く、よく知らない人と同席した時に感じる気まずさの原因はこれである。ところが血液型なら誰でももっている。そして型による上下の別は基本的にない。だから会話のとっかかりとして、とても重宝されるのだと思う。

 70年代から80年代にかけては、時代区分の上ではポスト高度経済成長期にあたる。この時代には「1億総中流」ということばが流行った。他方では実質的な資産格差が大きく開いていったのもこの時代のことである。そして、偏差値競争や、周囲との差異化に人々が狂奔したブランドブームなどにみられるように、この時代には人間は平等ではないという気分がどんどんと強化されていった。液型とは、「人間平等」のシンボルであったともいえる。また他者との差異化を容易にはかれる、誰もがもっている元手のかからないブランドだったともいえるのだ。

翼をください3

2006-07-25 07:26:10 | Weblog
 中田ヒデが引退に際して、これからは「自分探し」をやるといったのには少々驚いた。28にもなって「自分探し」などと本気でいっているとすれば愚か者というしかない。ところが中田はむしろ大変頭のよい男のようにみえる。それが邪魔をして、周囲を見下し、チーム内部での亀裂を生んだのではなかったのか。

 だからこのことばは、とても本音とは思えない。お菓子メーカーの社外役員を務めるほどの男だ。ビジネスセンスをあるのだろう。いまもっとも俗受けのすることばだと知っていて、意図的に「自分探し」ということばを使ったのではないか。

 中田だけではない。今回のサッカー日本代表は、頭のよい人たちの集まりであった。宮本は勉強で難関同志社大学に入り、英語とフランス語はペラペラ。おじいちゃんは大学教授と聞く。中田浩二も米子の中学時代は、トップクラスの秀才だった。サッカー名門校に行ったが学力的には十分進学校に進めたという選手は他に何人もいる。ジーコジャパンは、選手の出身階層においても、知力(学力?)においても日本人の平均の上をいく集団だった。

 ベッカムは途方もなく勉強ができない。ワールドカップ決勝の暴言と頭突きの応酬は、どうみても子どもの喧嘩である。お上品とはとてもいえない。ただこのことはいえる。ヨーロッパのサッカーは、ジダンのような移民の子どもや、ベッカムのように貧しい家庭の勉強のできない男の子が、巨富を手にすることを夢見て挑む、ハングリースポーツなのである。

 世界標準が矢吹ジョーなら、日本代表は岩清水弘(『愛と誠』の登場人物。「君のためなら死ねる!」で有名)といったところか。これでは勝負にも何もなったものではない。中田は「頭のいい人」の弱点を端的にもっていたが、それは日本代表に共通のものだった。あの沈滞した雰囲気と、無気力なプレーぶりは、30数年前の進学校のクラスの様子を彷彿とさせるものだった。これは「しらけ世代」だけの感慨なのかもしれないが…。


白鯨(祝50歳の誕生日・声に出して読みたい傑作選5)

2006-07-22 05:22:40 | Weblog
 中学一年の時の担任だったK先生は、英語弁論の達人だった。「T市で唯一、RとLが発音し分けられる男」、「長年の修練の結果、彼の舌は石になっている」等々、多くの伝説に包まれた人物でさえあった。教師としての彼は、中学生を大人扱いする人だった。彼の出した夏休みの宿題がふるっていた。「夏休み中に一度、徹夜をすること」。徹夜するぐらい熱中できる対象をもたない人生はつまらない。それが先生の持論だったのである。

 この「宿題」をぼくはとても新鮮に感じた。小学校の先生たちは夏休みに入る時、判でおしたように「規則正しい生活を」と繰り返していた。それをK先生は、「徹夜せよ」、「熱中せよ」というのだ。ぼくは徹夜をしてメルヴィルの『白鯨』を読むことにした。前年の夏、影丸譲也が『少年マガジン』誌上で劇画化していたのを読んでいた。ものすごく面白かった。今度は「大人の本」で読んでみようと考えたのである。早速本屋で文庫本を買った。

 執念で白鯨を追い求めるエイハブ船長の冒険には心踊るものがある。しかし、こちらも生涯最初の徹夜に挑むのだ。心の高まりはいささかも、かの老船長に劣るものではなかった。しかし、うんざりするほど長い本だ。とても一晩で読みきれそうにはなかった。それでも、とにかく7月21日を「冒険敢行」の日と決めた。13歳の誕生日の前日である。夜9時に『白鯨』を読み始める。9時にはもちろん意味がある。クジラと「9時だ」を掛けたのだ。

 クジラにまつわる長い長いぺダントリーが気になってそこから読み始めた。気がつくと日付けが変わり22日。ぼくの誕生日だ。エイハブ船長がドアを開けて酒場に入って来る最初の場面を読み始めたまさにその瞬間、ぼくの部屋のドアが開いた。大学受験浪人中の兄がそこにいた。「まだ起きとっただかいや。ああ、今日はお前の誕生日だなあ。お祝いをしようで」。兄は冷蔵庫から何本もビールをもってきた。ぼくたちはそれを次々と空けてしまったのである。翌日、ぼくは生涯最初の二日酔に苦しんでいた。トイレでもどしながら、ぼくの頭にはこんなフレーズが渦巻いていた。「吐くゲー、はくげい、白鯨…」。正直に言おう。ぼくは、この大作をまだ読み通したことがない。

エースをねらえ!

2006-07-19 06:19:08 | Weblog
 昨年、「専門社会調査士」という資格を取った。最近調査なんてやっていないのだが、わが専攻も「社会調査士」の資格を出すというのでとらざるを得なくなった。資格が新しく誕生した時の特例として、現職の教員が申請すれば、ほぼ自動的にとれる仕組みになっている。「ポツダム○○」みたいなもの。本当の社会調査の専門家に顔向けできない心境だ。

 ぼくは資格や免許と無縁に生きてきた。資格と名のつくものを取ったのは、ほとんど30年ぶりだ。大学2年の時に、「軟式庭球技術検定2級」という資格をとった。特級、1級がさらに上にあったと思う。高校時代の経験者で大学の軟庭サークルに席を置いていれば、自動的にとれる資格だったと思う。それ以外には、中学の時とった英検3級があるのみだ。

 軟式庭球は、いまではソフトテニスという名称に変わっている。本物のテニスの道具が手に入らなかった時代に、ゴムマリを使った代用スポーツだ。外国では、韓国や台湾でしかやっていないので国際性もない。現在では本物のテニスに競技人口を奪われているが、それでも中高の部活ではまだまだ盛んだ。ゼミの学生のなかにもこの競技の経験者は多い。

 ぼくも学生時代はずっとソフトテニスをやっていた。この競技をやる人間にとって、梅雨の時期は非常に憂鬱だった。空気が湿っている。コートも雨でぬかるんでいる。するとラケットのガットが、簡単に切れるのだ。鯨のヒゲでできているガットは、湿気にとても弱い。鯨は海の生き物のはずなのに、どうして湿気に弱いのか。いまでもよく分からない。

 高校時代ソフトテニス部だったゼミ生に、この時期よくガットが切れなかったかと聞くと、彼女は怪訝な顔をしている。そうか。いまは鯨のヒゲのガットなどあるはずがない。「ワイヤーのガットか。あれはなかなかきれないよね」と聞くと彼女は「ええ」と答える。「でもあんまり好きじゃなかった。打った時の感覚がどうもね。『わーいやー』っていう感じ…」。

「血液型は何ですか」?

2006-07-16 00:14:03 | Weblog
どうして血液型性格判断という疑似科学のような代物が、この国でこんなに幅をきかせるようになったのでしょうか。「血液型は何ですか?」。これはあまりなじみのない人と話す時に、話のとっかかりとして無難なものでしょう。

 出身地の話も、みんなが知っているようなところならよいかもしれない。しかしぼくの生まれた鳥取など印象が薄いようで、「ああ、あの出雲大社の」とかいわれるのがおちです。出身校の話はもっと危険です。たちまち上下序列の感覚がそのなかから生じてきます。血液型は4つしかない。それぞれに与えられた紋切り型のイメージも、どれが上でどれが下ということもありません(「B型差別」というような話もありましたが…)。だから、「無難な話題」ということになるのでしょう。

 しかしぼくが相手だと血液型の話はちっとも「無難」ではなくなります。「血液型は何ですか」と聞かれて、実際にこんなやりとりになったことが幾度かあります。「1999年の10月4日まではAB型でした。同年10月5日以降はB型です」。「は??!」。「白血病に罹って兄の骨髄をもらいました。骨髄移植で問題になるのはHLA=白血球の型です。ABO=赤血球不一致の場合は、ドナーの型に変わります」。

 お気の毒に。相手は凍りついてしまいます。がたがたと震えていた人さえいました。ぼくは99年の10月の4日と5日とで自分の性格が激変したとは全然思いません。血液型性格判断などいい加減なものなのです。入院中、血液内科の若い医者が、やはり若い看護師さん(女性)に「君、血液型は何?」と鼻の下を伸ばして聞いているところを何度かみました。こんな輩の医師免許は取り消してもらいたいものだと思いましたまる



葬式ごっこ

2006-07-13 07:59:57 | Weblog
 秋田県能代市の小学生殺害事件は異様な出来事であった。犯人とされた女性の子どもも亡くなっている。最初秋田県警は、まともな捜査もせずに事故扱いしていた。小学校1年生の男の子が殺されてからは、連日容疑者の実家にマスコミ各社が張りついていた。メディアが被疑者を有罪推定し、被疑者は悲劇のヒロイン気取りでメディアに対して発言を続ける。80年代以来おなじみの、「劇場型犯罪」のパターンがここでも繰り返された。

 容疑者の女性の高校時代の卒業文集が紹介されている。級友たちが彼女に寄せているメッセージをみると、これが実にひどい内容だ。「二度と生きて秋田に帰ってくるな」。「お前の将来は殺人者だ…」。卒業文集は後々まで残るものである。どうしてこんな寄せ書きを教師も許したのだろうか。

 この寄せ書きで連想したのが、「葬式ごっこ」である。東京の中野富士見中学の鹿川君という少年が、盛岡のデパートで首をつって自殺をした。86年1月のことである。クラスのほとんど全員が「鹿川くんよ安らかに眠れ」と書かれた寄せ書きに署名をしていた。なんと担任を含む4人の教師が、この「葬式ごっこ」に加わっていたのである。不良グループのいじめにあっていた鹿川君は、このできごとがきっかけで自殺を決意した。秋田の容疑者の女性も、高校時代に、人格を全否定されるような手ひどいいじめにあうことによって、社会に対する憎悪が芽生えたのではないか。

 鹿川事件が起きた時期と、この容疑者の高校時代とは、80年代の後半。ほぼ同じ時代にあたる。当時は様々な学校の「荒れ」が問題になっていた。第二次ベビーブームによる人口圧の高さ。生活の郊外化によって人間が雑居しているような新興住宅地が急増したこと。等々が「荒れ」の原因としては考えられる。そして、バブルへと進んでいた時代の道徳の崩壊が、鹿川君と彼女が受けた仕打ちの背景にはあるように思う。

おじいちゃんは原子爆弾

2006-07-10 17:00:54 | Weblog
世界で最初の骨髄移植は、1958年に旧ユーゴスラビアで行われています。原子力発電所の被曝事故がきっかだったとされています。 「大量被曝でリンパ球がゼロになってしまった。どうしよう。そうだ健康な他人の骨髄を移植すればいい」。現場の医師のそんな機転から、この治療法は生まれたようです。

 この時代に、無菌室などありません。HLAのことも、ほとんど何も分かっていなかったでしょう。だからこの時移植を受けた患者は、すぐに死んだものと思われます。

 冷戦時代のバルカン半島で生まれた、この治療法は長らく忘れられていました。これを蘇らせたのはアメリカの一人の博士です。彼は、70年代の前半に、ほとんど信じられない数(数万?)の移植をこなして、骨髄移植を体系化していきます。その過程では累々たる屍が築かれたのでしょうが。無菌管理の技術の発達によって、骨髄移植は現代医学のなかに地位を占めるようになりました。 日本でも1976年に、名古屋大学付属病院で最初の骨髄移植が行われています。

 骨髄移植は、超一流大学の近代的研究室で、ノーベル賞級の頭脳が徹底的な思索と実験の果てに生み出した治療法ではありません。文字通り火事場のドサクサで生まれた「野戦病院の技術」なのです。

 もちろん、最初の骨髄移植から比べて現在のそれは、各段に洗練され、安全な治療法となっています。しかし多田富雄教授は、骨髄移植など「野蛮な治療法」だと言い切っています。免疫についてはまだ分かっていないことが多いのに、その根源である造血細胞を入れ換えることが、免疫学の泰斗には「野蛮」と映るのでしょう。いまだに骨髄移植は、やってみないと何が起こるか分からない、荒っぽい治療法です。骨髄移植につきまとう、荒っぽさは、「野戦病院の技術」というその出自と、無関係ではないように思われます。

 原発事故から骨髄移植は生まれました。原発は、原爆開発の副産物です。この意味で骨髄移植は、原子爆弾の孫技術なのです。「おじいさんは原子爆弾」と言ってもいいかも知れません。 治療中の患者は、途方もない苦しみを味わうわけですが、それはどこか広島・長崎の被爆者の苦しみとも重なるように思いました。


仁義なき戦い

2006-07-07 08:01:02 | Weblog
 「オールウエイズ3丁目の夕日」という映画が評判を呼んだ。中高年の世代は、貧しいなかを人々が肩を寄せ合っていきていた「夕日」の世界に、強いノスタルジアを覚えたのではないか。しかし人間的だったあの時代に、少年の凶悪犯罪がいまより4倍も多かったと聞けば驚く向きも多いかもしれない。しかし、あの時代には日常的に若者の殴り合いを目にすることも多かった。荒々しい暴力性を発露するという意味でも人間的な時代だったのである。いまは暴力や攻撃性が内向している感じをもつ。自殺が多い道理である。自殺の変形のような殺人事件もよく起きる。

 いとこでとても勉強のできる女の子がいた。「女の子」というがぼくより一回り以上歳は上。いまでは孫が何人もいる。おばあちゃんだ。N高ではなく、自由な気風のH高に進学した。ずっと一番を通していた。だが好事魔多し。2年生の時に難しい病気に罹る。長期の療養のために医学部受験を断念せざるを得なかった。それでも一生懸命頑張って薬大に合格した。大したものだ。

 ぼくの両親もわがことのように彼女の合格を喜んでいた。「薬剤師だが。ようがんばったで」。しかし、ぼくにはこの「やくざいし」ということばが恐ろしかった。当時の鳥取の町では、神戸系のやくざと、広島系のやくざが血みどろの抗争を続けていたからである。往時の東映映画を地で行く現実があった。町のそこここでやくざが焚き火を囲んでいた。選挙事務所と間違えてやくざの本部で酒を飲ませてもらおうとした男もいた。その男がどうなったのかは、誰も知らない。

 こうして「やくざ」ということばが、幼いぼくの頭のなかにすりこまれていった。だから、いとこの合格も素直によろこべなかった。ぼくをかわいがってくれたやさしい彼女が、恐ろしい「やくざ医師」になると思ったのだ。それから数年後。腕のよかった祖母の主治医が野球賭博で捕まった。小学生になっていたぼくは、これこそ本物の「やくざ医師」かも知れないと秘かに思った。

ショッカー

2006-07-04 15:11:43 | Weblog
 
 平成の仮面ライダーシリーズ、延々と続いております。江戸期から「鬼」の名で呼ばれ、代々世襲され続けているライダーが妖怪と闘うという、水木しげるばりの設定の、なごみ系のシリーズもありましたが、昭和のそれに比べて残虐度が増している印象を受けています。悪徳弁護士の仮面ライダーが出てくるシリーズもありました(「龍騎」)し、ライダーの敵方が観念的な「ゲームとしての殺人」にふけるシリーズ(「クウガ)もありました。とても子どもにみせられた代物ではありません。みせてたけど…。

 初代仮面ライダーの敵方、ショッカーの働く悪事といえば幼稚園バスを襲うことぐらいでした。当時の新聞には「ショッカーは世界制服を標榜しながら、幼稚園バスばかりを標的にしている。こんなことで大望を実現することができるのだろうか。人事ながら心配になる」という投書が載ったりしたものです。この話を授業でしたところ、こんな反論を寄せた学生がいます。

 ① 観念的な「ゲームとしての殺人」などより、子どもたちにとっては、身近な幼稚園バスが襲われる場面の方がよほど恐ろしい。② 自分が信頼していたものが襲われる経験は、子どもたちのなかに社会や他者への不信感を植え付ける。人間の社会は信頼によって成り立っている。子どもたちの中の不信の芽が将来大きく育った時に社会は崩壊し、世界はショッカーの手に落ちるであろう。

 頭のいい人がいるものだと感心しました。不信の増大が社会を崩壊させる。いま子どもが被害者となる事件が起きるたびに、大人たちは過剰反応を示しています。子どもが被害にあう傷害事件や殺人事件は、年々減少傾向にあるにも関わらず、です。「失われた子どもの安全」は、メディアの作り出した幻影でしかありません。そうした過剰反応が、他者や社会への不信感を子どもたちに植え付けていくことを私は危惧しています。