昔は身近にあった死が、病院や施設のなかに閉じ込められるようになった。そこから「死のタブー化」といわれる意識が社会を広く覆うようになりました。日本では、1980年代がそのピークだったのではないでしょうか。死体写真を売り物にした写真週刊誌を大手出版社が競って刊行していました。たくさんの管につながれ延命処置を受ける患者の姿(関西ではこれを「スパゲッティ」と呼んでいたそうです)が一般的だったのもこの時代のことです。
「死のタブー化」への反転現象と呼ぶべきものが、現在生じてきています。「スパゲッティ」はいまや死語。闇雲な延命はしなくなりました。ホスピスや自宅で自分の望む形で最後を迎える人も増えています。愛する者との死別を経験した遺族の傷つきやすさへの配慮も、社会に根づきはじめています。「千の風になって」という曲のヒットも、1980年代には考えることもできなかったでしょう。
他方日本は、先進国のなかで国家レベルで死刑を行っている唯一の国です。政府は「日本文化の伝統(「死んでおわびを」)」とともに、「遺族感情(犯人を死刑に!)」を死刑存続の理由にあげています。闇雲な死への恐怖に訴えかけることで犯罪を抑止し、社会をまとめあげようとしていること。そして、多様で繊細であるはずの遺族感情のなかに、犯人への憎悪しかみようとしないこと。これらは「死のタブー化への反転現象」とは正反対のものでしょう。
ホスピスムーヴメントにおいては、宗教者の役割が欠かせません。「死のタブー化への反転現象」の基底には、キリスト教に根ざす「人格の尊厳」の観念が横たわっているのではないか。今日の日本国家は、「臣民」を奴隷化しようとした明治国家のDNAを色濃く受け継いでいます。日本国家にとって「人間の尊厳」など敵視の対象でしかありません。日本が成熟した市民社会としての側面をもちながら、なお過去の亡霊が権力構造の中枢に居座っていることが、死と死別についての上記の分裂した意識をもたらしているのではないでしょうか。
「死のタブー化」への反転現象と呼ぶべきものが、現在生じてきています。「スパゲッティ」はいまや死語。闇雲な延命はしなくなりました。ホスピスや自宅で自分の望む形で最後を迎える人も増えています。愛する者との死別を経験した遺族の傷つきやすさへの配慮も、社会に根づきはじめています。「千の風になって」という曲のヒットも、1980年代には考えることもできなかったでしょう。
他方日本は、先進国のなかで国家レベルで死刑を行っている唯一の国です。政府は「日本文化の伝統(「死んでおわびを」)」とともに、「遺族感情(犯人を死刑に!)」を死刑存続の理由にあげています。闇雲な死への恐怖に訴えかけることで犯罪を抑止し、社会をまとめあげようとしていること。そして、多様で繊細であるはずの遺族感情のなかに、犯人への憎悪しかみようとしないこと。これらは「死のタブー化への反転現象」とは正反対のものでしょう。
ホスピスムーヴメントにおいては、宗教者の役割が欠かせません。「死のタブー化への反転現象」の基底には、キリスト教に根ざす「人格の尊厳」の観念が横たわっているのではないか。今日の日本国家は、「臣民」を奴隷化しようとした明治国家のDNAを色濃く受け継いでいます。日本国家にとって「人間の尊厳」など敵視の対象でしかありません。日本が成熟した市民社会としての側面をもちながら、なお過去の亡霊が権力構造の中枢に居座っていることが、死と死別についての上記の分裂した意識をもたらしているのではないでしょうか。