ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

ああ栄冠は なにがなんだかわからない

2007-10-31 11:14:17 | Weblog
 ぼくの母校の前身の鳥取中学が、第1回の全国中等学校野球選手権大会で最初の勝利校となったことは何回か書いた。次の試合で鳥取中学は和歌山中学(現和歌山県立桐蔭高校)に大敗している。和歌山中学はバントを多用した。鳥取中学のナインはこの時はじめてバントという戦法の存在を知ったのだという。大混乱に陥り、その結果大敗した。鳥取中学の選手のなかには、バントは「卑劣な戦法だ」と憤るものもいたという。

 大先輩たちの無念は分かる。しかしよく考えてみると、野球というスポーツは「卑劣な戦法」に満ち満ちている。投手が球を曲げたり落としたり、星飛雄馬のように消したりするのはもちろん卑劣だ。盗塁などもっての他。イチロー選手のように、野手のいないところを狙ってボールを落とす打法も卑劣のそしりを免れない。イチロー選手は盗塁の名手でもある。彼は球界から永久追放されなければならないのではないか。

 卑劣でない野球とはこういうものだ。松坂投手とゴジラ松井が対峙する。松坂は渾身の力をこめて、ど真ん中に160キロの直球を投じる。ゴジラはこれまた渾身の力をこめて、バットをフルスイングする。全力と全力のぶつかり合い。三振かホームランか。まことに潔い。しかし、やるにしろみるにしろ単純でみなすぐ飽きてしまうのではないか。やはり「卑劣さ」はスポーツのスパイスである。

 一昨年の夏にN高は甲子園に久しぶりに出た。千葉の古豪チームに敗れはしたものの、先取点を奪う健闘をみせた。相手投手の立ち上がりを攻め、フォアボールで出たランナーを送りバントで2塁に進め、タイムリーヒットで一点を取った。草葉の陰の大先輩たちは、自分たちを苦しめた戦法を自家薬籠のものとした後輩たちの健闘を喜んだのだろうか。それとも「卑劣な戦法」に頼る彼らを苦々しく眺めていたのだろうか。知りたいものである。

カラマーゾフの兄弟

2007-10-28 20:27:35 | Weblog
 いま世評高き亀山郁夫さんの訳で『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。まだ1巻を読み終えたところだが、いや実に面白いし分かりやすい。若い人が読んでも親しみがもてるのではないか。ベストセラーになるのも道理である。

 前回米川正夫さんの訳でこの小説を読んだのは中学生か高校生の頃だった。当時は、末弟のアリョーシャでさえ、ぼくにとってはお兄さんだった。ところがいまではアリョーシャは自分の子どもぐらいの年齢。父親のフヨードルは55歳だという。はるかにこちらに近づいてしまった。光陰は矢の如し。

 昔読んだ時には酒乱で好色家のフヨードルなど嫌悪の対象でしかなかった。しかし今回は共感する部分が多々あった。フヨードルが金なら一文でもおしいと演説する場面がある。自分は薄汚くだらだらと生きながらえたい。そのためには金がいるのだ、と。これは多くの中高年の本音のように思う。 フヨードルは「老醜」を象徴する人物だと思う。だからアリョーシャ以外の彼の子どもたちは、父親を憎んでいた。しかし歳をとればとるほど、男の子は父親に似てくるものだ。いまぼくはそれを痛感している。

 前に読んだ時、ぼくにはフヨードルの「好色」の本質がよく分からなかった。自分が子どもだったせいもあるし、米川正夫先生の訳が、すこしお上品に描写をぼかしたところもあったのだと思う。しかし今回は女の身体の線がどうのこうのと、フヨードルが語っている。自分は女の身体だけを、いやその一部だけを愛することができると赤裸々に語っているのである。なるほど、これは筋金入りのエロ親父だと納得できた。

 妙に心にとまった部分があった。自分はいい女だけが好きなのではない。大抵の女は自分にとっていい女なのだ、とフヨードルはいう。ある意味フヨードルは博愛主義者で、その血が末弟のアリョーシャに受継がれたのだろう。カラマーゾフ的なものの本質が何なのか、少しわかったような気がした。大変な名訳だ。この後を読むのが楽しみだ。みなさんにも是非読んでいただきたい。

死刑執行人の哲学3

2007-10-26 06:46:36 | Weblog
日本では刑務所に入るのは簡単なことではない。初犯では凶悪犯罪でもやらかさない限り、まず執行猶予がついてしまう。囚人の数もアメリカと比べてふたけた(!)違う。これは法務省が文部科学省と並ぶ無力な官庁で、予算がつかないことに起因している。刑務所を増やせないから、刑務所はどこでもすし詰め。裁判官もそれが分かっているから、簡単に実刑判決を下すわけにはいかないのだ。

 刑務所は悪の大学という考え方がある。悪いことをした人がいっぱいいるところだから、そこに入った人間は犯罪のノウハウを学ぶことになる。また、「務所帰り」・「前科者」の烙印を押されれば、社会復帰は非常に困難なものになるだろう。刑務所は更生の場というよりはむしろ、犯罪者を再生産する場という性格が強い。このことは監獄制度が始まった頃から指摘されてきたことだと、かのミッシェル・フーコーも言っている。

 日本はなかなか刑務所に行くことのできない刑罰の緩い国だ。しかし同時に犯罪の非常に少ない国でもある。刑務所が犯罪者を再生産する場であるとすれば、刑罰が緩い「にもかかわらず」ではなく、刑罰が緩い「がゆえにこそ」この国では犯罪が少ないといえるのではないか。無力な法務省ばんざい!しかし不思議に思うことがある。これほど刑罰の緩い日本で、何故死刑という突出した厳刑(極刑)が残っているのか。

 死刑を廃止すれば、必然的に終身刑が生まれる。いくらまじめに務めても、仮釈放の希望のもてない終身刑の受刑者を処遇することは容易ではないだろう。日本の刑務官は諸外国に比べて極端に多くの受刑者を担当させられている。そんな刑務官たちに、終身刑の創設は重い負担としてのしかかっていくに違いない。死刑を廃止するためには、パンク状態の刑務所をなんとかしなければならない。この点で無力な法務省の存在は、呪わしいものとなる。


 

テレビよ、驕るなかれ!

2007-10-23 06:57:38 | Weblog
近年の政治はワイドショー政治と呼ばれている。ワイドショーで脚光を浴びた政治家が強い影響力を振るうようになった。小泉首相の得た高い支持率は、まさにワイドショー政治の所産だろう。最近の東国原宮崎県知事の人気も、ワイドショーの力なしには考えられない。

 ワイドショーはいまや政治だけではなく、司法にも大きな影響を与えるようになった。山口県光市の母子殺害事件をめぐる報道をみよ。差し戻し審の弁護団が、被告の少年の殺意を否認する弁論を行うと凄まじいバッシングの嵐が起こった。橋下某なるタレント弁護士の、それこそワイドショーでの扇動によって、少年の弁護団への懲戒請求が所属弁護士会には殺到した。

 被害者遺族の感情を害するような発言をしたことが懲戒の理由になるのなら、殺人事件の被告の弁護は一切不可能になってしまう。検察側が容疑者が「クロ」であるという心象をメディアに与えさえすれば、無実の人を簡単に罪に陥れることができる。「ワイドショー司法」は裁判をリンチに変えてしまうだろう。

 司法の世界へのポピュリズムの浸透と平行して、裁判員制度の導入が進められようとしている。この制度そのものは、望ましいものだとぼくは思う。しかし「世論」が厳しく裁判員を見張っている。そしてまた裁判員も「世論」に汚染されているのだ。殺人事件の被告に「冤罪」の疑念が生じたとしても、犯人を擁護する勇気をもつものはいないだろう。そもそも「世論」に抗して、そうした疑念を抱く者すらいないのではないか。テレビの影響から完全に裁判員を遮断することなど不可能事だからだ。

 昔テレビは「馬鹿の箱」(idiot box)と呼ばれた。大宅壮一はテレビの普及は日本人を「一億総白痴」にするといった。いまやテレビは「狂人の箱」(crazy box)と化している。大宅の言にならうなら日本人は「一億総狂人」。テレビは民主主義と人間の理性への敵対物と化してしまった。こんな邪悪な存在は憲法で禁止すべきでる。

葬儀新聞

2007-10-20 07:57:29 | Weblog
 今年のゼミ生でエレクトロニクス関連の業界紙に内定をもらった人がいる。ぼくはマスコミ論の担当者だし、彼女はとても優秀な学生でもあるので、その会社に入ることを強く勧めた。彼女も相当悩んだようだが、もう一つ決まっていた一般企業に入ることにして、業界紙の方は断ったようだ。エレクトロニクスの記事を書いていく自信がないという。理系はもともと苦手なのだという。無理もないと思った。

 新聞といってイメージするのは一般紙かせいぜいスポーツ新聞ぐらいだろう。しかしどの業界にも必ず業界紙というものがある。うちの実家はもなかやだが、「菓子工業新聞」をとっていた。理容業なら「理容新聞」がある。不動産屋さんなら「不動産新聞」があるのだと思う。

 4年前の4月のことである。母が亡くなってお通夜をさる葬祭センターであげた。その後のなおらいの席でふと気づくと、あととり君(母の孫になる)の姿がみえない。彼はロビーで一心不乱に新聞を読んでいた。彼が読んでいたのはなんと「葬儀新聞」であった。業界の数だけ業界紙はある。葬儀業界がある以上、「葬儀新聞」があっても何の不思議もない。それが一般紙やスポーツ新聞と並んでロビーに置いてあったのだ。

 あととり君になおらいの席にもどるよう促した後でぼくも「葬儀新聞」を読んでみた。ユニークな葬儀に取り組む葬儀屋の紹介記事あり、葬儀業界の新年度の景気予測ありで、なかなか興味深いものがあった。なるほど。あととり君が読みふけるのも分かる。未知の世界を垣間見せてくれる業界紙は、たまに読むと非常に面白い。おばあちゃんのお通夜の夜に読まなくてもよいとは思うが。いや、同じように同紙に読みふけってしまったぼくにそれをいう資格はないのであった。

カナダからの手紙(あれから1年たちました・声に出して読みたい傑作選40)

2007-10-17 06:37:21 | Weblog
骨子がカナダから帰ってきました。市の交流事業で、10日弱の短い旅行。しかし骨子にとっては貴重な体験です。骨子がホームステイをしたのは、トロント市のスカボロー地区というところ。白人よりインド、中国、韓国のアジア系住民が圧倒的に多い地域のようです。骨子のホームステイ先は、サンタナちゃんというインド系の女の子の家。ご家族はとてもよい人たちで、心のこもったもてなしを骨子は受けました。

 食べ物にはやはり、相当苦労をしたようです。クッキーがおやつで出てくるのだけれど、恐ろしく甘い。クッキーの味は砂糖の味。それにマーブルチョコのようなものが埋め込んであって、もう大変。しかもココアやジュースを飲みながらクッキーを食べるというから驚きます。甘いものが好きなのか。それとも味覚が鈍感なのか。どちらだろう。

 さすがにインド系のご家庭でカレーが二晩も出たそうです。一度はカニのカレー。これは辛くても、それでもヨーグルトをかけてもらって事なきを得た。翌日はお母さんが香辛料の調合に失敗したのか、インド人家族が悶絶するほど辛いカレーが出てきたとか。インド人もびっくりの激辛カレーを食べた骨子ちゃんは、翌日お腹を壊してしまいました。

 カナダでおいしかったのは、タコスやケンタッキーフライドチキン、そしてマクドナルドのハンバーガーのようなファーストフードだったと骨子はいいます。ホストファミリーと買い物に行ったショッピングモールや空港で食べたようです。味もサイズも(大きいのを頼まなければ)それほど日本と変わらない。「こちら(北米大陸)の味が日本に来て、それに慣れちゃってるんだよね」と骨子。

 クラスには韓国・中国系の子どもたちも大勢います。東アジア系移民の家庭にホームステイをした人は食事の面では、まだしも恵まれていたのかと思いますが、日本人の考えている中華料理とは全然違ってとまどった部分もあったようです。ただ、骨子の拙い英語も、東アジア系の子どもたちにはよく通じたらしい。やはり文化的に近い分、「以心伝心」ということがあるのかなと思いました。

東京音頭3

2007-10-14 06:28:25 | Weblog
 わが家はヤクルトをとっているので、毎週ヤクルトレディが来る。ヤクルトレディは昔、ヤクルトおばさんといっていた。この言い換えに対しては、垂直鉄筋コンクリート長屋を「マンション」(邸宅)と呼ぶのにも似た違和感を覚える。

 もちろん20代30代のまだうら若いといってもいい女性たちに「おばさん」は失礼だ。それなら「ヤクルトお嬢さん」ではどうか。既婚の中高年女性に「お嬢さん」はいかがなものかという良識の声が聞こえてくる。しかし巣鴨の刺抜き地蔵に集う妙(高)齢の女性たちを「お嬢さん」と呼ぶ前例はすでにみのもんたによって作られている。躊躇を覚える必要はないだろう。

 それにしてもヤクルトのフロントはひどい。長年ヤクルトのリリーフエースを務めてきた高津投手にシーズン終了直後、突然の戦力外通告である。ヤクルトの黄金時代は、高津の快投なくしてはありえなかった。近年は不調が続いていたとはいえ、盛大なセレモニーとともに送り出されるべき選手ではないか。

 ヤクルト球団は、外国人として、また右打者として初の年間200安打を達成したラミレス外野手と契約を結ばないのではないかいう観測が流れている。予想される契約金の高騰を嫌がっているようだ。この観測が正しければ何をかいわんやである。岩村が去り、古田が去り、そしてラミレスまで去れば客が呼べる選手は青木だけになってしまう。誰がこんなチームの試合をみたいと思うものか。

 この前、ヤクルトお嬢さんが便の観察シートをもってきた。便に一番はっきり身体の状態があらわれるから、毎日克明にその回数と形状とを記録するようにと、家族の人数分のシート(4枚)をもってきてくれた。さすがビフィズス菌やら腸内環境やらを強調する企業だけのことはある。ヤクルトお嬢さんの勧奨に従って、これからは自分の便の観察にあいつとめたいと思った。そしてこのシートをみながら、ぼくの頭にこんなことばが浮かんできた。

 ヤクルトスワローズのフロントは、う●こだ。

「丸山真男をひっぱたきたい」を書いた奴を「ひっぱたきたい」2

2007-10-12 06:58:16 | Weblog
 沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定が、地元の人たちの怒りを買った。「軍命」を裏づける史料が存在しないというのが文科省の言い分である。馬鹿馬鹿しい。証拠を残さぬ暗黙の「指導」は、いまでも中央官庁の得意とするところである。しかもポツダム宣言の受諾決定から占領軍が到着するまでの間に、旧軍に都合の悪い書類はほとんど燃やし尽くされた。証拠書類が残っていたら不思議である。

 文部科学省は「五流官庁」。よい鉄が釘にならないように、よい成績で国家公務員一種(昔は上級)試験を受かった者は、決してこのお役所を志望しない。「ゆとり教育」を推進した、「金八官僚」氏は、高校生の時から受験体制に反発し、文部官僚になって日本の教育を変えるという明確な志をもっていたと述べている。

 しかし氏をめぐっては、公務員試験の成績がひどく悪くて文部省(当時)しかとってくれるところがなく、ゼミの教授の研究室で「もうぼくの人生は終わりです」と号泣したという都市伝説が根強く語られていた。まさかそんなことはないだろうが、そうした都市伝説が信憑性をもつほど、この役所の地位は低い。

 高学歴の官僚がよりつかないこのお役所は、ある意味ノンキャリアの天国である。文部省と呼ばれていた時代には、大学の学部学科の新設に際して厳密な審査があった。各大学の学長に応対するのはノンキャリアのお役人たちである。えらい学者先生たちは、暖房もない寒い廊下で、背もたれもない椅子に座らされて延々と待たされる。そして主として高卒のお役人たちは、高名な学者に対して居丈高で侮辱的でさえある「指導」を行うのである。

 ノンエリートが、丸山真男のお仲間を「ひっぱたく」。赤木智弘氏垂涎の光景ではないか。国家公務員試験の年齢制限も安倍内閣の「再チャレンジ」政策のおかげで延長された。公務員試験を受けて、文部科学省に入ることを彼には強く勧めたい。しかしいまや大学設置基準は大綱化され、文部科学省はあまり介入してこなくなった。件のサドマゾヒズム的情景も過去のものになってしまった。その意味でも赤木氏は「遅れてきた青年」のようにみえる。

白虎隊

2007-10-09 21:05:44 | Weblog
 この前の日曜日は、骨子の中学の体育祭だった。応援合戦は大変なみもので、生徒たちで考えたダンスで大いに盛り上がっていた。まさに「祭り」という感じ。子どもたちの創意工夫がかんじられた。それに比べてぼくらの中学高校時代の「運動会」は、走ることと、集団演技(マスゲーム?)。ただこれだけ。遊びの要素はかけらもない。旧東欧圏のスパルタキアードもかくやという代物であった。楽しくもなんともなかった。

 N高3年の時、ぼくらの集団演技はなんと白虎隊の剣舞。銀紙を買って来て竹光をみんなが作った。古賀政夫作曲の「白虎隊」という歌に合わせて踊る。「十有九士屠腹(とふく=切腹のこと)して果てる」という詩吟にあわせて切腹の所作をして、地面に倒れるのがこの剣舞のクライマックスだ。運動会の当日には、何百人もの若者が「屠腹」してグランドに突っ伏したのだ。さぞ壮観だったことだろう。

 なんで鳥取の高校生が白虎隊なのだ。この剣舞をやることにきめた体育のO先生はその理由をこう説明していた。「N高を出たら鳥取を出て行く人が多かろうが。それでもたまに昔の仲間とどこぞでばったり会うこともあるわいな。そんな時にはなあ、「白虎隊」を歌いながらこの剣舞をしてみんさい。高校時代がよみがえってくるでぇ。ええでぇ」。明るい人柄のO先生は多くの生徒から慕われていた。しかし何の説明にもなっていない。なにが「ええでぇ」なのかさっぱり分からない。

 N高を卒業して30年以上が経つが、どうかするといまだに「白虎隊」のメロディが頭のなかで一日中鳴っていることがある。そしてぼくは東京の街中で、白昼N高時代の旧友とばったり出会うのではないかと密かに恐れている。その旧友と意気投合して、O先生の勧奨に従うことになるのではないかと恐れているのだ。50男が二人、新宿だか渋谷だかで突然剣舞をはじめる光景を想像していただきたい。そしておやじ二人が「十有九士屠腹して果てる」と口走りながら、地面に倒れこむ場面を想像していただきたい。


思い出のアルバム2

2007-10-07 00:10:32 | Weblog
太郎は小さい頃、幼稚園バスの運転手さんが大好きだった。あだなは「やまちゃん」。50台の前半ぐらいにみえた。中年男性である。元暴走族という噂があった。孫がいる、とも聞いたことがある。ヤンパパの走りだったのだろうか。

 「小田急の新しいエクゼ(exse)ってロマンスカー、とってもくさいんだぜ。何でか分かる?えーくぜー」。運転をしながら、そんなおやじギャグを飛ばしていたらしい。それを太郎はものすごく喜んでいた。ぼくのおやじギャグは学生から冷笑をもって迎えられるのが常である。ぼくはやまちゃんに羨望の念を禁じえなかった。

 卒園式の日のことだった。ぼくと妻はやまちゃんのところに行って、3年間ありがとうございましたとお礼を述べた。やまちゃんは言った。「太郎君はねぇ。とっても頭がいいよ。うまく育てると大変な人間に育つよ」。

 親ばかのぼくにはやまちゃんのことばが心底嬉しかった。小学校に上がって太郎がテストでどんなひどい点をとっても、この子は頭がいいのだ。だってやまちゃんがそう言っていたではないかと思ったし、妻にもそう言っていた。妻が、やまちゃんのいうことを信じていても仕方がないではないかというと、ぼくは何をいう、ああいう子どもをたくさんみてきた人の言はとても信用できるのだと反論した。

 いまでも時々ぼくは、やまちゃんどうしているかなあ、と思う時がある。やまちゃんのバスがショッカーに襲われていなければいいが、と思うこともある。ショッカーは初代仮面ライダーの敵役。世界征服を標榜しながら幼稚園のバスばっかり襲っていた変てこな集団だった。

 最近、やまちゃんの幼稚園は子どもが集まらなくて困っているらしい。年中と年長は2クラスあったのが、いまでは1クラスになってしまった。幼稚園が潰れればやまちゃんの生活はどうなるのだろうか。幼稚園バスの運転手さんにとっての本当の脅威は、いまやショッカーより少子化の大波である。

♪せまるー ショウシカー じごくのぐんだーん♪