大阪のお笑いは何故だめなのか、という話を中島らもが書いていた。東京は八戸の人と熊本の人が一緒にいるような場所である。だからお笑いの場とはいえ非常な緊張感があるから東京のお笑いは磨かれる。しかし関西は大きな田舎。みんな親戚みたいなものだ。笑いくたくて仕方のない連中が演芸場には来ている。だからしょうもないギャグでも観客が腹を抱えて笑ってくれるので、関西のお笑いは進歩しない。
東京は、たしかに八戸の人と熊本の人の集う場所だ。そして八戸の人と熊本の人が共通に恐れていることは、田舎者だといって馬鹿にされることである。下手なところで笑えばそれこそ自分が笑われるのではないか。そういう恐怖感を常に抱いているのが、東京の地方出身者である。この恐怖感を語らせれば東海林さだおの右に出る者はいない。彼も三多摩という東京内部の田舎(都下)の産である。
徳島(ここは関西文化圏)から来た学生が、東西のお笑い文化の比較という興味深い卒論を書いたことがある。関西の人は自分が面白いと思ったところで笑うが、東京の人は周囲の反応をみて、一拍おいて笑う。そう。お笑いだけではない。東京は、自分の感性を信じることを禁止されている都市なのだ。メディアやインテリや、すなわち権威の言が圧倒的な力をもつ都会なのである。
自分の感性を信じることができず、ひたすら権威のことばにすがる東京。内輪の馴れ合いから、つまらないギャグにも大笑いするかもしれないが、どんなに権威がほめようとも、自分がつまらないと思えば絶対に笑わない大阪。どちらの方に文化を育てる土壌があるか。答えは明らかである。若者文化をとってみても、劇画にフォークソング、そして近年の関西パンクと、創造的な文化の発信源はまず関西だった。東京がその経済力にものをいわせて、文化の発信力においても関西を圧倒していることが、この国の大きな不幸だとぼくは思う。
東京は、たしかに八戸の人と熊本の人の集う場所だ。そして八戸の人と熊本の人が共通に恐れていることは、田舎者だといって馬鹿にされることである。下手なところで笑えばそれこそ自分が笑われるのではないか。そういう恐怖感を常に抱いているのが、東京の地方出身者である。この恐怖感を語らせれば東海林さだおの右に出る者はいない。彼も三多摩という東京内部の田舎(都下)の産である。
徳島(ここは関西文化圏)から来た学生が、東西のお笑い文化の比較という興味深い卒論を書いたことがある。関西の人は自分が面白いと思ったところで笑うが、東京の人は周囲の反応をみて、一拍おいて笑う。そう。お笑いだけではない。東京は、自分の感性を信じることを禁止されている都市なのだ。メディアやインテリや、すなわち権威の言が圧倒的な力をもつ都会なのである。
自分の感性を信じることができず、ひたすら権威のことばにすがる東京。内輪の馴れ合いから、つまらないギャグにも大笑いするかもしれないが、どんなに権威がほめようとも、自分がつまらないと思えば絶対に笑わない大阪。どちらの方に文化を育てる土壌があるか。答えは明らかである。若者文化をとってみても、劇画にフォークソング、そして近年の関西パンクと、創造的な文化の発信源はまず関西だった。東京がその経済力にものをいわせて、文化の発信力においても関西を圧倒していることが、この国の大きな不幸だとぼくは思う。