ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

ソルティードッグ(よいお年を!・声に出して読みたい傑作選44)

2007-12-31 06:34:39 | Weblog
先週の木曜日は、慶応(三田)で開かれた「死と死別の社会学」研究会に参加(註・昨年の話です)。報告討議とも非常に充実したものがあった。別にメンバーの参加資格を定めているわけではないけれども、ぼくのように自分自身が死にかけた体験をもつ者や、死別体験によって傷ついた研究者が集っていて、議論に当事者性が強いところが、この研究会の魅力です。終了後大学付近の居酒屋で飲み会。ぼくのまわりには若い大学院生が数名。

 そのうちの誰かの妹さんが年明け早々関西で結婚式をあげるとかで、新婚旅行の話になった。「加齢先生、新婚旅行はどこいかれたのですか?」と女性の大学院生。「ニューカレドニア」と答えると「お金持ちだったんですねー」。「え、なんで」と聞くと、「だって先生がご結婚なさった時は、1ドル360円だったんじゃないんですか」!。

 くりびつてんぎょう!1ドル360円の時代は、71年8月のニクソン声明と、それに続くブレトンウッズ体制の崩壊で終わっております。すると何かい。かりに71年に25歳で結婚したとしても、25+35で60。うーむ、ぼくは60代以上にみえるというわけか。まあこの人は心理学専攻の大学院生なので現代史の知識がないのかもしれないが。

 この時の旅行は悲惨でしたね。海にカメラを落としたので新婚旅行の写真がほとんど残っていない。ラプラドールレッドリバーだかの大きな犬に追いかけられたので海に逃げた。するとこいつは犬かきでさらに追いかけてくる。犬は逃げるものを追う習性があるのに馬鹿ですねー。ぼくはびっくりして海で転んでしまった。それでカメラをだめにした次第。この話をすると若い人たちは呆れていた。それに追い討ちをかけるように、「海水に浸った犬を英語でなんていうか知っている?」とぼくは彼らに尋ねました。怪訝な顔をしている若い人たちに向かってぼくは厳かにいった。「ソルティードッグ」。

 お粗末の一席、失礼しました。それではよいお年をお迎えください。

ひでき、感激!

2007-12-29 09:11:09 | Weblog
 太郎は5年生だが、どうかすると人目のあるところでも、母親のひざに乗ってくる。大丈夫だろうか、幼すぎるのではないだろうかと妻が言うのでぼくが、「東條英機も小学校にあがるまでお母さんのおっぱいを吸っていたらしいから心配ないよ」という話をした。戦犯で処刑された人もそうだからというのは、慰めになるのか。

 「東條英機」という名前を聞いた骨子が、「それって、まるこ(ちびまるこのこと)のおねえちゃんが好きな人?」という。いささか面食らった。東條英樹ってA級戦犯として処刑された戦前の軍人政治家だよ。それをどうして、まるちゃんのおねえちゃんが好きなのと聞くと、「え、芸能人じゃないの」。分かった。それは、西条秀樹だ。

 学生たちの歴史についての知識の乏しさにはびっくりすることが多いが、それは日本だけの現象ではないようである。ホワイトハウスの35歳の女性報道官が、キューバ危機を知らなかったという。エリック・ホブズボームは、アメリカの一流大学院の学生に、「第二次ということは第一次世界大戦もあったのですか」と質問されたと書いていた。骨子が東條を知らなくてむしろ当然だろう。

 何故、世界的に若者の歴史離れが起こっているのだろうか。学校の歴史教育の問題ももちろんあるだろう。われわれは両親から耳にたこができるほど戦争中の話を聞かされて育ったが、いまは親が昔の話を子どもにしなくなっているのではないか。あまりにも変化の激しい時代を生きていることも、若者が歴史的な遠近法を身につけることを困難にしている要因なのかもしれない。

 水戸に集中講義で行ってきた。いまだに「あそこの家は天狗党の家系だ」などということが話題になる土地柄らしい。しかし地元の大学生たちは、やはりいまの若者だった。歴史にはうとい。水戸駅に近い小さなマンションのそばに、「徳川光圀生誕の地」という碑が立っていた。いささか心配になる。いまの水戸の若い人たちは、このマンションで光圀が生まれたと思うのではないか。


KY

2007-12-27 14:46:52 | Weblog
 今年も「合同ゼミ」が終わった。「正当化される差別」という、とんでもない報告もあったが、自分たちのゼミのものも含めて、研究報告のレベルはなかなかのものであった。とくにさすがヴィジュアル世代で、レジュメのレイアウトやパワーポイントを使ってのプレゼンテーションは、こちらが驚くほどうまい。自分の学生時代にこれほどの発表ができたとは思えない。大学生の学力低下という話も疑わしくなってくる。

 しかし、これが質疑応答になるととたんに低調になってしまう。質問そのものは的を得たものが多かった。ところが立派な報告をした学生が、耳を疑うようなとんちんかんな答えを返してくる。そこでまた質問者がつっこめば、議論も盛り上がっていくのだろう。ところが「ありがとうございました」とか言って、簡単に矛を収めてしまうのだ。質疑によって対象に対する理解が深まっていくということがない。「議論力」は、ぼくらが学生だった頃より、はっきりと低下している。

 フランス人は議論が好きで得意だ。「自由・平等・友愛」という原則がみなに共有されているから、フランス人は安心して議論ができるのだと思う。ところが日本は違う。人々に共有された政治的原則など何もない。若者たちはよく「KY」という。「空気読めない人」の略だ。日本人を支配しているのは原理原則ではなく、「空気」なのである。「空気」に反することをいえばたちまちいじめの対象になる。学生たちは、小さい頃から人と話をする時、頭を働かせるのではなく「空気」を読むことに懸命だったのだろう。これでは「議論力」が育つはずもない。

 山本七平さん(あまり好きな人ではないが)は、帝国軍隊は「空気」に支配された集団だと述べていた。若い学生たちが「KY」という。結局敗戦は日本社会を本質的に変えるものではなかったのだ。そして、ぼくらの時代に比べて若者たちの議論力が衰えているのだとすれば、それはこの国のなかで原理原則の力がいっそう衰え、「空気」の支配力がいっそう強まったことを示してはいないだろうか。

「正当化される差別は存在する」

2007-12-25 06:41:26 | Weblog
「合同ゼミ」に参加してきました。3つの大学から6つのゼミが集まって研究発表をする集まりです。今年は2回目の参加。わがゼミは「ミクシィとフリーペーパー」というテーマで報告をしました。とてもよいできでした。その他のゼミの報告も力作ぞろいです。それぞれのゼミの担当教員の指導方法にも学ぶところが多く、非常に刺激を受けました。

 ところが一つだけとんでもない報告があった。さるかなり偏差値の高い大学のゼミです。唯一の2年生のゼミなので、同情すべき点がなくはないのですが…。このゼミは例年一つの映画を取り上げ、それを多角的に分析します。今年は「手紙」。東野圭吾の小説が原作で、犯罪の加害者となった男の弟が世間の迫害にあうという物語です。弟の勤める家電量販店の店長は、兄の犯罪を理由に彼を配置転換した上、こういいます。お前が差別にあうのは当然だ。お前の兄貴は、自分の犯した罪が身内にまで及ぶことを考えるべきだったのだと。

 店長のことばに、このゼミの学生たちはいたく感心したようです。彼らは次のような結論に逢着しました。「犯罪は社会に重大な危険を及ぼす行為だから、それを抑止するために犯罪加害者の家族が差別されることは正当化される」。「社会防衛上正当化される差別は存在する」という一大発見をなした彼らは、その大学でアンケート調査を実施します。彼らは報告を、誇らしげにこう締めくくりました。「約半数の学生が、この命題を肯定しました」。

 こんなでたらめな報告を看過するわけにはいきません。ぼくをはじめとする教員連の集中砲火を浴びました。去年の同じゼミの報告はいたってまともだったので、一体どうしちゃったのだろう。しかしそういう問題ではない。彼らは自分が差別される側に落ちるかもしれないという想像力をもたないのです。それ以上に半数もの学生がこの「命題」を肯定したことが恐ろしい。20年後、30年後の日本は、一体どんな国になっているのでしょうか。

天皇陛下に敬意

2007-12-23 17:31:56 | Weblog
 このブログにもよくコメントをいただく方々といっしょに、憲法改正草案を考えています。もちろん「改憲」といっても右翼的なものではなく、日本を連邦共和制国家にしようというラディカル改憲案なのですが。その先頭に立っている松本和志さんの改憲案では、最初共和制であるにも関わらず議員内閣制になっていた。それはよいのですが、王も大統領もおらず首相が元首になるしかない。それはまずいのではないかということが以前の会合で出されました。

 王様をおかないのであれば大統領が元首だろう。大統領も権力の非常に強いアメリカ型にするか、象徴的な役割を演じるドイツ型にするか、いろいろな意見が出されました。ぼくはいまの天皇に、初代の終身大統領になってもらってはどうかと提案しました。もちろん世襲はせず、現天皇が亡くなった後は、選挙で任期をきめた大統領を選びます。

 世界の王政の歴史をみても、平和な時代に、何も悪いことをしていないのに王様をやめさせられた人はいません。いまの天皇は非常に立派な人です。それに象徴天皇制から共和制への移行が平和的なものであることを日本の外に示す必要があります。そのためには天皇に横滑りしてもらって大統領になっていただくのが一番よい。現天皇は非常に聡明な方だから、ヴァイツゼッカー大統領も顔負けの立派な演説をなさるのではないか。

 何故象徴天皇制ではだめかといえば、関さんが「省庁天皇制」と揶揄してみせたように、象徴天皇の存在が国民主権を曖昧なものにしてしまい、霞ヶ関官僚が恣意のままに振舞う部分を大きくしてしまったからです。そして宮内庁のために皇族の人権が蹂躙されている事実はみなさんもよく御存知だと思います。天皇を初代大統領に。かなりとっぴな意見に見えますがみなさんのご感想をおよせください。


足踏堂さんに答えて2

2007-12-20 08:11:39 | Weblog
 足踏堂さま。おっしゃるとおりで、私の批判はいわば憲法の社会的機能に関するものでした。憲法の条文に内在した批判ではないというのはその通りだと思います。いまパオロ・マッツアーリノ氏の『反社会学講座』を1年生ゼミで読み終え、同氏の『つっこみ力』に入ったところです。彼はこのなかで国民の納税の義務だけ書かれていて、国が国民から徴収した税金を適正に使う義務を負うことが書かれていないと、日本国憲法を批判しています。はっとしました。

 憲法には国民の3大義務が明記されています。教育と納税と勤労です。しかしそれらの義務は日本国民が、「誰に」対して負う義務なのかということが書かれていません。憲法とは国家を成立させる社会契約の宣言です。どんな契約書にも誰が誰に対してどんな権利と義務とを負うのかが明記されています。何故日本国憲法には、「日本国民は日本国家に対して○○の義務を負う」と書かれていないのでしょうか。こんな契約書は無効だと思います。

 そして次に奇妙な点は、マッツアーリノ氏がいうように、国家はこれらの義務を国民に課しながら、それにみあういかなる対価も保証していないことです。まあ教育は、それを受けることじたいが大きな対価ですからよしとしましょう。しかし納税に関してはマッツアーリノ氏のいうとおり。勤労についても「すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負ふ」とありますが、勤労の見返りについては一言も書かれていません。このことと今日の若者の窮境との間には大きなつながりがあるのではないか。

 勤労の義務を謳うのであれば「日本国家は、勤労の義務を果たした日本国民に対して、人間としての尊厳を損なうことのない水準の生活を保証する義務を負う」という条項がなければおかしい。こうした条項があれば、憲法は若者たちが自らの権利主張を行う際の「武器」となりえたでしょう。ワークシェアリングやベーシックインカムの政策を推し進める、強力な根拠ともなったはずです。赤木さんが絶望に陥ることもなかったと思います。

足踏堂さんに答えて

2007-12-18 09:11:53 | Weblog
 足踏堂さま。私は赤木さんの文章を読んだ時に、これは戦後憲法体制と私たちの世代(団塊の世代に始まる戦後第一世代)に対する痛烈な批判を含んでいるなと直感的に思いました。憲法は公論が生まれる基盤であり、現憲法が大日本帝国憲法よりもはるかに進歩的な内容をもつものだということに対して、私にはまったく異論はありません。足踏堂さまのおっしゃるとおりです。しかしその憲法の進歩的な条項は、いま生きているのでしょうか。

 憲法には「健康で文化的で最低限度の生活」が保障されています。しかし、若いワーキングプアの生態を描いたルポルタージュのタイトルは『生きさせろ!』でした。憲法は、若者の窮境を救う力にはまったくなっていない。そう考えれば赤木さんの左翼=護憲派に対する怒りもよく分かります。立派な条項がまるで空文でしかない憲法!これほど「むかつく」ものが他にあるでしょうか。丸山真男とは、戦後憲法体制の象徴なのだと思います。

 私はこの文章を読んだ時もの凄く不快な気持ちになりました。戦争待望論など愚劣の極み。帝国陸軍の新兵いじめへの憧憬を語るなどとはもっての他。そう思ったからです。その評価は変わりません。しかしこの国には、弱者が依拠すべき原理原則が存在しません。憲法こそそうした原理原則となるべきもののはずですが、この国ではまったくそうはなっていない。原理原則の存在しないところで上げる叫びは、ひどくねじくれたものになるのではないか。憲法の機能不全が赤木さんの論議を狂わせていったといえなくもありません。

 何故とっくに死んでしまった丸山を、赤木さんはひっぱたかなければならなかったのか。われわれ戦後第一世代には、ひっぱたくべきどんな思想家も存在しないからです。この世代は経済的には高度経済成長期の、そして思想的には戦後民主主義の遺産にパラサイトしてきたのです。若者の窮境を前に「護憲」を唱えるのは、知的怠慢のように思えてなりません。後の世代のためになるものを何か遺して死にたいというのが正直ないまの心境です。

吉本隆明をひっぱたきたい

2007-12-16 21:26:43 | Weblog
鳥取在住の市民運動家、土井淑平さんは関曠野さんの旧友である。多忙な通信社の記者時代に、何冊も分厚い本を書いた土井さんは、関さんとともにぼくが畏怖してやまぬ年長の友人である。土井さんの処女作は『反核・反原発・エコロジーー吉本隆明の政治思想批判』。反核運動の最盛期に、この運動はソ連の差し金ではじまったものだという妄言を吐いた吉本隆明を、真っ向から批判した好著である。

 赤木さんの本を読んで驚いたのは、吉本隆明とそのやり口が実によく似ていることだ。ひからびた思想家と情熱的な思想家の奇妙なキメラ。そうきめつけて丸山真男を最初に「ひっぱたいた」のは吉本であった。丸山真男を「ひっぱたく」庶民への憧憬を語る赤木さんの筆致は、「大衆の原像」を称揚する吉本を彷彿とさせるものである。左翼おじさんはたしかにうざいが、彼らが若者の窮境の元凶のはずがない。左翼のくせに、左翼に意味不明の難癖をつけ、大向こうの喝采を狙う手口も両者は酷似している。破廉恥な論法を使って絶対に自分の非を認めず、論争相手をボロクソにこきおろすあたりも吉本にそっくりだ。

 しかし不思議に思う。いま書店で、吉本ばななの本はあっても、吉本隆明の本などみることもない。どこで赤木さんは「吉本流」を学んだのか。土井さんのことばで印象に残っているものがある。吉本はドラキュラだ。自分に批判的な若い論客を対談に招いてはもちあげ、しっかりと味方につける。いま(20年前)の若い物書きたちは、大方が吉本か江藤淳の子飼いになってしまっている。土井さんはそう言っていた。

 20年前の若手は現在、物書きや編集者の世界の最前線で活躍していることだろう。彼らの多くは、吉本に若い頃「生き血」を吸われた人たちである。赤木さんは東大のジャーナリズム講座のお師匠から吉本流を学んだ可能性大である。「論座」に赤木さんの論文を載せた編集者も、若い頃吉本にかぶれていた口ではなかったか。吉本の亡霊は、いまも日本の論壇をさまよっている。そして吉本が垂れ流した害毒は若い世代をも汚染し続けているのである。ひっぱたかれるべきは丸山真男ではない。吉本隆明だ!

真空地帯

2007-12-13 06:59:58 | Weblog
1年生の基礎ゼミでは、興味をもったニュースを紹介する「オーマイニューズ」というスピーチをやらせています。いまの若者の関心を知ることができて非常に興味深いのですが、「自衛隊員の自殺急増」というニュースをとりあげていた学生がいました。自殺率が、他の現業国家公務員の2倍以上にのぼっているとのことでした。そのなかでも陸自の自殺率が際立って高く、これはイラク派遣の影響もあるのではないかという見方をその学生は紹介していました。

 来年の春に防衛大を出る甥っ子は海上自衛官になります。海自も陸上に続いて自殺率が高いので気になるデータではあります。これは自衛隊が「日陰者」であることと関係があるのではないかとぼくはコメントをしました。憲法上、自衛隊は存在してはならないことになっている。しかし自衛隊という名の軍隊が実際には存在し、そこで働く人たちは重い責任を担わされている。そのひずみが高い自殺率となってあらわれているのではないか、と。

 前防衛事務次官の夫婦ぐるみの接待まみれは、まさに驚くべきものでした。しかしこれも「日陰のもの」であればこそできたことではないのか。その存在が明確に憲法の上で位置づけられていれば、防衛省の内部にも、社会の側からの厳しい監督の目が届いたのではないでしょうか。「平和憲法」が防衛省を伏魔殿にしたててしまったのです。

 とにかく憲法の上では存在しない軍隊が実際には存在して、しかもそれが世界でも屈指の強力な軍隊ときています。この状況を護憲派はよしとするのでしょうか。自衛隊をきっぱりと廃止できないのであれば、その存在を憲法の上に明記し、行動に規制を加えるべきでしょう。それがシビリアンコントロールのためにも、そこで働く人たちの人権のためにも必要なことなのだと思います。

15歳のハローワーク

2007-12-10 06:10:14 | Weblog
 骨子の中学校の「総合的学習」の発表会というのに行ってきました。この前やった、「職業体験」の発表です。各クラスの代表が出てきて話すのですが、いやどれも堂々たる出来栄えで驚きました。骨子は新聞社の某全国紙の横浜総局というところに行った時の話をしました。仲良しのリコちゃんが行ったのは東京大学工学部!「大学教授の一日」と名づけた発表は秀逸でした。

 「D教授は朝の7時には研究室に入ります。夕方の6時に家に帰ります。教授のなかには昼頃出勤して、深夜に帰る人もいるそうです。出勤時間は自由にきめることができます。教授は朝早く来て、自分の論文を書いて、その後は大学の仕事をするとおっしゃっていました。

 この研究室で一年にどれぐらいの研究費が使われていると思いますか。1億2千万円!教授はいまは実験をしないそうです。研究費を請求する書類を書くことに毎日追われているそうです。最低でも10ページにびっしり字がうまった書類をつくらなければならない。これは大変なプレッシャーだと言っておられました。

 研究はすべて英語で発表するそうです。『英語が書いたり話したりできない奴はダメだ』と教授はくりかえしおっしゃっていました。私も、英語を頑張りたいなあと思いました。これで終わります」。

 リコちゃん、すごいことを聞き出してきましたね。理科系の場合、教授になると研究(実験)はしないみたいです。英語を自在に操れるのはたしかにかっこいい。しかし1億ちょっとの売り上げ(?)で、日々金策に追われている。これってなんだか、あまりうまくいってない小さな会社の社長さんみたいではありませんか。大学教授とは、夢のある仕事だとリコちゃんは思ったのでしょうか。心配になります。