ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

礼節・信義・根性

2008-02-29 15:32:37 | Weblog
 10年前、最初の単著を出した時のぼくは、心身ともにタフな人間だった。同僚の病気の話を聞くと、「なんで人間は病気になるのだろう」と不思議に思ったものだ。「ストレス」とか「鬱」ということばはもちろん知っていた。しかしそれがどんなものか実感できなかった。病気とは無縁の人間だと思っていた。ところがその翌年、ぼくは大病をしてしまう。

 骨髄移植を受けてからは心身の両面で下り坂だ。欝と思しき経験も数年前にした。短いし軽かったが非常に苦しかった。ぼくは、今回の出版にまつわる心の動きを自分で「小心」と茶化している。しかし自分の仕事が突然無意味に感じられたり、あらぬ不安や妄想にとりつかれているのである。欝かどうかはともかく、心が弱っていることはたしかだ。

 最近のぼくの楽しみは月曜日夜の亀山郁夫先生の出てくる教育テレビの番組をみることだ。この前の月曜日は『カラマーゾフの兄弟』のお話。受験の終わった骨子と夜更かしの太郎も一緒にみていた。ぼくがこの小説を読んでいたので、太郎は興味をもったのだ。ドストエフスキーは、この小説を書き上げた2ヶ月後に亡くなっている。太郎はそのことにいたく感心していた。

 その翌日のこと。ぼくは何をする気力も湧かず、ほぼ終日寝転っていた。夕方のことだ。骨子と太郎のこんな会話が聞こえてきた。「びんちゃん、最近寝てばかりいるね。どうしたんだろう」と太郎。それに桜が答えていわく。「びんちゃんはね、『カラマーゾフの兄弟』みたいな大きな本を書いたから、疲れているんだよ」。太郎はなんといったか。「じゃあ、2ヶ月後に死ぬの?」。

 おとといは自分が書いた本が届いた。立派な本だ。内容も素晴らしいと思えた。そして今日、骨子が見事、県立S高校に合格を果たした。骨子に合格のお祝いと、ぼくの本を『カラマーゾフの兄弟』にたとえてくれたお礼とをいった。後者について骨子は「皮肉にきまってるじゃない」と笑っていた。わが家に春が来た。

本が届いた

2008-02-28 16:49:20 | Weblog
昨日はいささか極端な記事を書いたと反省している。不適切と思われる部分は修正しておいた。記事を投稿したしばらく後に本が届いた。3年半苦労して書き上げた作品である。大学では大変なことが続き、楽な仕事ではなかった。それだけに嬉しかった。

 ゲラと本になった時とではやはり印象も違う。全編過激なトーンが貫いていることは間違いないが、語りの柔らかさにまぎれて大きな違和感を与えるところはない。ややエキセントリックな感のあることは否定できないが、学者の作品、大学教授の作品といって恥ずかしくないものになっていると思う。そしてぎりぎりのところで社会学の作品になっているとも考えている。むしろ私は、憲法や歴史認識の問題を社会学の土俵で持ち出す自信を深めた。

 識者への批判の部分もよく節度を保っていると思う。平素の私の文章を読みなれた人ならむしろ物足りないと感じることだろう。版元は権威と格式のある出版社である。有能で見識のある編集者が学者の書く文章に厳密なチェックを入れている。少しでもおかしなところのある本が、この会社から市場に出て行くわけが絶対にない。

 2000年に入った頃にこの国のなかでは、少年犯罪が急増し若者が怠け者になったからフリーターが増えたと、青少年をモンスターのように言い募る「ユースフォビア」(青少年恐怖症)が根を張っていた。「ユースフォビア」を生み出した社会心理的メカニズムの分析は、この本のなかで私がもっとも自信をもっている部分である。しかしここで皮肉な事実に気がつく。私は自分の作品とそれがもたらす反響をモンスターのように恐れ、鬱々としていたのだ。作者が作品に復讐されたというべきか。

 私の父はものすごい心配性の人だった。ささいなことが気になって、夜も寝られなくなる。そしてすぐに生きるの死ぬのの騒ぎになるのだ。私はしょっちゅう繰り返される父のどたばたを子どもの頃、ひややかに眺めていた。しかし歳をとることで、自分が父とそっくりになってきたことを認めないわけにはいかない。

 最後になったがこの本の担当のお二人の編集者に御礼をもうしあげなければならない。20年来おつきあいをいただいているベテランのN氏。そして若く聡明な女性編集者のkさん。どうもありがとうございました。3冊目の単著をこのお二人と一緒に生み出すことが、いまの私の願いである。
  

「どこからでもかかってきなさい!」(小谷敏『子どもたちは変わったか』世界思想社2200円)

2008-02-27 05:51:02 | Weblog
 正直に言う。私は昨日まで、この本が出ることに怖気づいていた。本が印刷にまわってからの一週間というもの、私はほとんど仕事が手についていない。いや、家にいる時間の大半は布団をかぶって寝ていた。情けない。

 本書のなかで私は高名な識者を何人も実名をあげて批判している。それが気になりはじめた。もちろんおかしなことは何も書いていない。相手に異論があればそこで論争がはじまる。ただそれだけのことだ。しかし何かとんでもない問題がおきるのではないかという不安にとらわれた。何度も何度も担当の編集者にそのことで電話を入れていた。

 しかし実はそれは周辺的な問題でしかない。この本には「過激」が満ちている。明治維新を「非道のクーデター」と断じる過激。戦後日本の平和主義を「空疎なもの」と断じる過激。そして教育の官僚統制を否定する過激である。読者は思うことだろう。この本の著者はなんと豪胆な人だろうか、と。冗談ではない。私は稀代の小心者である。小心者が過激な本を書くから醜態をさらすことになる。

 2月のはじめのことである。担当の編集者から「週明けに責了します」というメールが届いた。責了すると手直しができなくなる。なんとなくゲラのコピーを見返してみた。あらためてその過激さにたじろいだのである。もう後戻りのできないところに自分が足を踏み入れたという恐怖感にとらわれた。そこから私の長い狼狽は始まった。

 本の印刷が始まっても怖気づいていた私は、控え室で恐怖に震えているボクサーのようなものである。重ね重ね情ない。しかし実はそうしたケースは多いとも聞く。リングに上がって戦意がなければ、その瞬間ボクサー失格である。あと数日でこの本が店頭に並ぶ。リングに立つ時が来た。もう怖気づいてはいられない。ファイティングポーズをとらなければならない。もう後戻りはできないのだと、はらをきめる他はない。

 繰り返して言う。私は小心者だ。だが、あえてこういおう。「どこからでもかかってきなさい!」と。もちろん言論の上の争いにしてください。それも正面からのね。

 加齢御飯大教授。51歳。過激にして愛嬌あり。だけどもとっても小心者。

小谷敏『子どもたちは変わったか』世界思想社2008年3月刊行 2200円

 まえがき
 1  神なき国の子どもの誕生―Ph.アリエスと日本の近現代
 2  「専業子ども」と「教育ママ」-高度経済成長期における幼児期と社会
 3  はじまりは、やはり鉄腕アトム―マンガ文化の社会学
4  永遠の子どもの方へ―「ナルシシズムの時代」とオタク文化の繚乱
5  漂流する家族・「破産される」学校―ポスト高度経済成長期の子ども世界
6  「禁じられた遊び」―いじめ花咲く天皇の逝く国で
7  仮面ライダーたちの変貌―ネオテニーの新世紀へ
8  妄想の共同体―「ユースフォビア」の起源と流行
9  オトナ帝国への逆襲―赤ん坊の生まれない国
10 人はパンのみにて生くるにあらず―教育改革と学力論議の徹底批判
 
 初出一覧・参考文献・事項索引・人名索引

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仰げば尊し

2008-02-23 08:14:56 | Weblog
 指導要領の改訂だとか、神奈川では日本史が高校で必修になるだとか、教育をめぐってはまた馬鹿馬鹿しいニュースが報道されている。新しい著書のために昨年は近現代の日本教育史をにわか勉強した。そこで思ったことがある。戦前の「教育勅語体制」のもとでは教師の自由は著しく制限されていたが、戦後の教育の民主化によってそれが是正された。それが定説とされている。しかしどうだろうか。

 たしかに戦前の日本の小学校では、学校行事のごとに教育勅語の奉読は行われていた。まさか奉読に反対して席を立たないなどということができるわけもなかっただろう。しかし形の上だけ頭をさげておき、子どもにきちんと暗記させておけば何も言われなかっただろう。教師の「心のあり方」にまで介入してくるいまどきの教育行政の方がはるかに抑圧的だともいえる。

 大正から昭和にかけては、生活つづり方運動は非常に盛んであった。とくに昭和期の農村におけるそれは、作文を通して子どもたちに現実と向き合わせ、貧困と闘う手立てを考えさせるという非常にラディカルな傾向さえ含んでいたのである。そうした授業を日々教師たちは行っていた。そして放課後に子どもを残してつづり方の指導をし、文集を作成していたのである。指導要領で授業内容ががんじがらめにされている現在、こうした授業を教師たちが行うことはまず不可能事である。多忙を極めるいまの教師には、戦前の教師たちのようなゆとりももてまい。戦後改革が教育の世界に自由をもたらしたという言説は、極めて疑わしい。

 昭和16年。小学校は「国民学校」に名を変えている。総力戦体制を支える「小国民」を「練成」するための機関に小学校は変身した。生活つづり方運動の大弾圧が起こったのがこの年のことである。逆にいうと日米戦争が始まる年までは、日本の小学校の教師たちは大きな自由を享受していたということになる。いまの日本の教師の自由度は、「国民学校」時代のそれと同レベルのものだといえはしまいか。

雇用・利子および貨幣の一般理論

2008-02-20 09:37:52 | Weblog
 「おかあちゃん、うちに電気ある?」太郎が妻に聞いていた。「電気あるよ。冷蔵庫や洗濯機も電気がないと動かないよ」。「そうじゃなくて、偉いの人の一生を書いた本のこと」。ああ、「伝記」ね。太郎のイントネーションがおかしかったのだ。国語の単元で、伝記を読む課題が出されたのだという。そういえば昔、偉人伝というのをたくさん読まされたなあ。野口英世にナイチンゲール。何故か豊田佐吉などというのもあった。

 ぼくもまあ、伝記はたくさんをもっている方だ。ハンナ・アーレント、チャールズ・パース、アイザイア・バーリン、石原莞爾…。どれをとっても小学生にはとても読めない。そこで学校の図書館からノーベルの伝記を借りてきた。ダイナマイトの発明者で、ノーベル賞にその名をとどめるかのアルフレッド・ノーベルの伝記である。

 この本を読んで、太郎はいたく心を動かされた。ノーベルの努力の果ての発明が人類に惨禍を呼んだ悲劇に対してでも、そのことへの彼の大きな後悔が、科学の進歩と平和の実現を呼びかける偉大な賞を後世に残したことに対してでもない。ノーベル賞がアルフレッド・ノーベルの莫大な財産の「利子」をもとに運営されているという事実に対してである。お金を預けていると利子が生まれる。お金がお金を生む。このことに太郎は深い感銘を受けたのである。もともと太郎はお金が好きなのである。

 ノーベルの伝記を読んで、太郎は「自分は将来利子で生活できる人間になりたい」と思った。千里の道も一歩からという。太郎は、お年玉を貯金する決意を固めていた。そしていまからお金を貯めて家を買うのだという。最近の太郎がショックを受けたのは、「インフレ」という概念を知った時だった。インフレになると貯金は無に帰する。太郎はぼくに聞いた。「びんちゃん、いつインフレになる?」。あのね太郎君。そんなことが分かれば、びんちゃんはいま、こんなところでこんなことをやっていません。

トラヒゲと資本主義(どこまでいっても明日がある!・声に出して読みたい傑作選47)

2008-02-18 05:28:08 | Weblog
 小学生のころ、熱心にみたテレビ番組といえば「ひょっこりひょうたん島」である。ひょうたん島は、大統領を置く共和政体。海を漂うこの小さな島は世界をへめぐり、そこで様々な政治体制の国と遭遇する。犬の国(警察国家)。ライオンの王国。そしてクレタ・モラッタ島の神様の世界(神政政治)。国家のあり方は様々なのだと子ども心に思ったものだ。

 ひょうたん島は、男と女、大人と子ども、動物と人間、神様と魔女と人間の間に至るまでもが垣根のないボーダレスの社会である。番組の作者の一人に井上ひさしがいる。戦後の一時期を仙台の孤児院で過ごした人である。この作品には、戦後の混乱期の姿が投影されている。誰もが生きるのに懸命だったこの時代に、人々の間の垣根はなかったのだろう。

 この国の通貨はガバス。芋版で、大統領自身が刷っていた。産業といえばトラヒゲの経営するデパートだけ。民主的なひょうたん島は、実はとても貧乏だったのだ。「ギリシャと貧乏は双生児」ということばを思い出す。貧乏なアテネの市民は、アゴラに集って一心に議論をしていた。「経済大国」と化したこの国からは、政治的な議論が死に絶えて久しい。

 会社が倒産して死のうと思い、最期の晩餐の時にテレビをみていたらドン・ガバチョが、「今日がだめなら明日にしましょ」と歌っていたので一家心中をとりやめたという人のエピソードは広く知られている。このガバチョの歌には植木等のスーダラ節を彷彿とさせるものがある。山下清が放浪できた古きよき日本ののんき性が、まだこの時代には残っていた。

「ひょうたん島」の放送は、69年の3月に唐突に終了している。郵便配達人しかいないポストリアという国の描写がNHKの監督官庁である郵政省(当時)の逆鱗に触れたためだ。共和制の夢は、「省庁天皇制(by関曠野)」によって断たれたのである。「ひょうたん島」が終わった後のこの国の世相は、のんき性など許容しない世知辛いものに変わってしまった。

青春とはなんだ!

2008-02-15 06:56:37 | Weblog
 骨子の世界をみていると、子どもたちの高校選びは部活が基準になっているとつくづく思う。スポーツ特待生や勉強が出来ない子の話ではない。骨子たちのように、そこそこ勉強のできる子たちでもそうだ。この傾向は、神奈川で高校の学区がなくなってから、ひどくなってきている気がする。

 野球部に所属していた男の子は、秦野にある旧学区のトップ校に進むことにした。高校で野球をやるのはきつい。中学時代やっていなくてもハンディのつかない競技といえば弓道。彼の成績と弓道部のある高校という条件で学校を選ぶと秦野まで行くことになる。ものすごく勉強のできる女の子が、何故か近所のマンモス私大の附属高校に行く。全国クラスの吹奏楽部で腕を試したいのだ。

 骨子だってそうだ。県立S高校を選んだのは、この学校の吹奏楽部の定期演奏会を観に行って魅了されたからである。演奏のレベルは銀賞どまり。それほど上手くはない。ただここの定期演奏会は遊び心に富んでいてとても楽しい。いま骨子は、死にもの狂いで受験勉強をしているが、それもS高の定期演奏会の舞台を踏みたい一心なのである。O高はたしかにいい学校だが、ここの吹奏楽部はマーチングが売り。これは骨子が死ぬほど苦手としているもので、O高に入れば吹奏楽はあきらめなければならない。

 神奈川県が高校の学区を撤廃したのは、生徒の選択の自由を広げ、競争を激化させることで、公立高校の大学進学率の(東大合格者数?)の上昇を狙ったものである。では選択の幅が増えた時、子どもたちは何を基準に学校を選ぶのか。彼らが一番関心をもっているもの。それは部活である。学区があった時には、その地区の学力にみあった学校にみんながいっていた。ところがいまや、子どもたちは部活をするためにその高校に行くのだ。勉強は二の次三の次になるだろう。進学実績はあがらず、ひたすら部活が活性化していく。学区撤廃の「意図せざる結果」である

♪桜の園の若人たちは

2008-02-12 09:15:04 | Weblog
 昨日は骨子の私立入試の発表の日。町田のO高校にめでたく合格。この学校の創始者の先生は、戦前中国で孤児のための教育に従事しておられました。学校の名前はその先生が学んだアメリカのカレッジに由来しています。キリスト教の学園なのに、ここの大学に中国政府が中国語の普及を目的に創った孔子学院が置かれているのはそのためのようです。学校の敷地に入ると二宮尊徳の銅像があったのでびっくりしましたが。キリスト教。儒教。そして…。笙野頼子さんがいうように、日本人の信仰の基本は習合なのだなと納得した次第。

 説明会での校長先生の話が非常によかった。もちろん進学には力を入れているが、高校生活の成果は数値によってはかれるものではない。社会で成功する人間を育てることが教育の役割ではない。人はパンのみにて生くるにあらず…。いまどき古風でまっとうな教育者がいるものだと感心しました。

 ここの創始者の先生が学ばれたアメリカのカレッジは、かのジョージ・ハーバート・ミードの母校でもあります。アメリカで最初に女性の入学を許可し、黒人奴隷を逃亡させる組織が南北戦争以前にはあったという、監督派教会系のリベラルな校風のカレッジです。私は一応ミードの研究者ということになっているので、骨子がここを受験したのも何かの縁でしょう。

 この学校の名前をはじめて聞いたのは、30年ほど前の夏の甲子園大会でした。昨年の佐賀北高校のように、まったくノーマークで勝ち進んで優勝してしまいました。サヨナラヒットを打った菊池太陽という選手の名前と、「イエス イエス イエスと叫ぼうよ」という校歌はいまでも耳に残っています。

 骨子の本命は県立高校。そちらに受かって欲しいのはもちろんです。しかし、偏差値や進学実績ということを超えて、立派な教育理念とよい伝統をもつ高校に娘が合格できたことを親としては素直に喜んでいます。そしてここは、私たち親子にも深い縁がある学校です。私とジョージ・ハーバート・ミード。そして、骨子の本当の名前が校名についている学校なのです。

ちりとてちん4

2008-02-09 22:03:47 | Weblog
 「かきくらし なお降る雪の 寒ければ 春とも知らぬ 谷の鶯」。骨子の高校受験はまだまだ続いております。わが子ながらようがんばりますなあ。あたくしが勉強をみてやればよさそうなものですが、もう脳の老化が激しくて中学の勉強でも分からないところがいっぱいあります。いや、そもそも若い頃からあたくしの学力は怪しげなものでございました。

 町田の予備校で日本史を教えていた大学院生の時のことでございます。N高時代の日本史の授業は元寇で終わっておりますので、室町時代から先は未開の大地みたいなもの。ほとんどなじみの事柄が出てはきません。それでも板垣退助が岐阜で刺されたのは知っております。それがテキストに出てきた時は嬉しくなりました。「この時、彼は『板垣死すとも自由は死せず』と叫んで果て、長く100円札のおじさんとしてその遺徳を顕彰されたのであります」だかのええかげんな話をしたのでございます。

 ところが翌週テキストをみると、この事件の後も板垣はなんと生きております。そして大隈重信と組んで内閣を組織しているではありませんか。あたくしはびつくりしました。大隈が総理大臣になったなどとは知りませんでした。あたくし、大隈の創設した大学の卒業生ですが「「在野精神」なんて詐欺じゃん」と思ったものでございました。

 しかし人間どうせ死ぬのでございます。政治家になって暗殺されて死ぬ。これは男子の本懐といわざるべからず。いまから10年の後。あたくしは政治家になって「急進ガラパゴス党」の党首になっている。そして「立憲野良猫党」と政策協定を結びます。日本国憲法のラディカルな改憲、ベーシックインカムとワークシェアの実現等々がその内容でございます。そして二つの政党で両院の3分の2を占めるべく、ガラパゴス党の林副総裁と全国を遊説中に悲劇は起こります。あたくし、テロリストの凶弾に倒れるのでございます。そして林副総裁の腕のなかでこう叫んで息絶えます。「カレーは死すともハヤシは死せず」。

 お後がよろしいようで。

禿げとふさ(もう髪の毛なんてほとんどないわ・声に出して読みたい傑作選46)

2008-02-07 10:18:56 | Weblog
宮下志郎さんの新訳で、モンテーニュ「エセー2」(白水社)を読んだ。面白い。この本のなかでモンテーニュは、幸不幸は財産の多寡とは関係がない、要はその人の気のもちようだといっている。

 貧しくとも心豊かに暮らすことはできるし、財産が多くなると、今度はそれを減らすまい、増やそうと神経をすり減らし、人生を楽しむどころではなくなるとモンテーニュはいう。頭の毛がふさふさした人でも、ほとんど毛のない人でも、髪の毛を1本、他人に抜かれれば怒り狂うだろう。それと同じで、財産をもっていることが心のゆとりにはそれほどならないのだと、このモラリストはいっている。

 大きな財産をもったことなどないが、モンテーニュのいっていることは分かる気がする。資産家は財テクだとか節税だとかが大変そうではないか。しじゅうお金のことを気にしている点では貧乏人とかわりがない。最低限の所得があれば、あとはモンテーニュのいうように、幸不幸はその人の気の持ちようということになる。関曠野さんによれば、そのラインは年収150万円なのだそうだ。最低ラインの所得を国が保障すれば、みんなハッピーになって有効需要も増え、疲弊している地方経済も活性化するだろうと関さんはいっていた。

 「働かざる者食うべからず」というが、いまは額に汗して働いても、食えない人が一杯いる(ワーキングプア)。所得保障は大賛成である。それに老若に関わらず食えない人を援助すればよいのであって、たっぷり資産を持っている老人に年金を出す必要もない。年金の問題が解消すれば、少子化を恐れる必要がなくなるのは関さんのプランの大きな長所である。

 所得保障の問題はおくとして、モンテーニュの言には異論がある。私の頭髪はいまや絶滅の危機に瀕している。地肌が透けてみっともないと、家族から日々言われている。いま私の髪の毛を一本抜くような人間は絶対許すことはできない。毛髪が豊富にあった20代、30代の時代とは比べものにならない、頭髪への執着がいまのぼくにはある。髪の毛を引き抜こうとする不逞の輩に対しては、禿げしい怒りを覚えるに違いないのだ。