空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編①

「土俵を間違えた人」第1回①


 「土俵を間違えた人」は曽野綾子氏の「沖縄戦から未来に向かって」に対する、太田良博氏による再反論ということになります。また、沖縄タイムスでは6回の連載となっております。

 曽野氏への皮肉とも思える文章から始まる第1回なのですが、そういった感情的な言動への追及は無意味でありますから省略します。残念ながら太田氏曽野氏の双方で、このような本題から外れた言動が繰り返されているようです。

 この回において太田氏は二つの主張をなさっております。
 一つ目は手榴弾の管理について、もう一つは曽野氏が主張した無理心中に対する反論です。

 一つ目の手榴弾の管理については、少し長いですが以下に引用いたします。


 「弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六事件で、兵は夜間演習と称して出動させることができるが、叛乱将校たちにとって最後の難問は、兵器庫の銃弾をどうして持ち出すかということだった。(中略)結局、二・二六事件の場合は叛乱軍の少尉ほか数名が、兵器委員の下士官に暴行を加えて鍵をうばった」


 「作戦中は、武器弾薬の処置はさらにうるさい。手榴弾などが住民の手に簡単にわたるはずがない。赤松隊の隊員たちは、軍律がきびしかったように言っているから、なおさらのこと、武器弾薬の管理も厳格でなければならなかったはずだ。そういう状況を考えると、大量の手榴弾が住民に渡されたということは、ただ事ではないのである」


 第三戦隊によって厳重に管理されたはずの手榴弾が住民に渡されたという事実が、赤松大尉の「自決命令」があったという根拠だといった主張は、太田氏がこれまでに再三提示している事柄であります。現に「沖縄戦に「神話」はない」の第5回や第6回でも、住民が集合した理由とともに主張なさっています。

 さらには、赤松大尉が渡嘉敷島の住民を信頼していないという前提で、その住民たちに手榴弾が渡された経緯を説明しております。赤松大尉や集団自決に対する太田氏の基本的な考え方を知るうえでは重要だと思われるので、これも少し長いのですが以下に引用いたします。


 「手榴弾のようなものは、絶対に信頼できる者でなければ渡せないものである。信頼できないものに渡したら、逆に、自分らのところに投げつけられるおそれもあるからである。
 ところで、赤松は住民を信頼していない。どの住民も通敵(スパイ行為──引用者注)のおそれがあるとみている。たびたびの住民処刑にそれがあらわれている。それでは、信頼していない島の住民に、なぜ手榴弾を渡したかが問題である。「これで、死ね」というので渡したこと以外のことは考えられないのである」


 集団自決に対する太田氏の考え方は、集団自決の顛末だけでなく、集団自決後の籠城(複郭陣地での持久戦)や住民の処刑から米軍への投稿まで、赤松大尉及び日本軍の一連の流れを総合し観察した結果ではないかと思われます。
 別の言い方をすれば、赤松大尉が行った住民のスパイ視や処刑は、彼らを全く信頼していない証拠であり、それゆえに集団自決も赤松大尉が「自決命令」を出していたに違いない、というような考え方ではないかと思われます。最初から住民を信頼していないのですから、そのような住民に手榴弾を渡す行為というものは、すなわち「自決命令」であって、自決させることが最初から決まっていたとも解釈できそうです。

 このような太田氏の考え方が正しいかどうか、間違っているのかどうかについては特に考察いたしません。

 当ブログの目的は繰り返しになりますが、「集団自決の実像」を考察することです。
 そして集団自決後の住民スパイ視や処刑については、全く別の事象であると思っております。
 これは集団自決時の状況と住民処刑の状況が違うということが考えられ、とりまく状況が違うということは、たとえ同じ登場人物であったとしても、思考や行動パターンが異なる可能性を否定できないと思っているからです。
 もっと具体的に指摘するならば、集団自決直前の赤松大尉の思考・行動パターンと、住民処刑を実行した時の思考・行動パターンは違うのでないか、というような疑問です。

 集団自決と住民処刑は比較対象として参考になるかもしれません。しかし、太田氏のように住民処刑をした、または命令を出した行動パターンを「基準」とする、あるいは「前提」として集団自決を考察することは、個人的見解としては上記の理由で不適切ではないかと考えておりますが、これ以上の考察は省略いたします。

 太田氏の提示する手榴弾の管理について特に強調されるのが、前述のとおり「厳重に管理された手榴弾」は、なぜ住民に渡されたのか、ということです。これは既に「沖縄戦に「神話」はない」から主張されております。

 ただ、厳重に管理された手榴弾の具体例として二・二六事件を挙げているのですが、この例は個人的見解として、あまり適切ではないといわざるを得ません。なぜかというと、手榴弾の取り扱いに関する各々の取り巻く状況が全く異なるからです。

 二・二六事件自体について特に説明することはいたしません。では何が異なるかというと、まず、戦時と平時の違いがあります。
 二・二六事件は反乱・あるいはクーデターとはいっても、当時の東京は戦争・戦闘状態でないことは説明するまでもありません。つまり彼らが手榴弾を含む武器を所持することは、たとえ軍人であっても不法・違法であり、それゆえに武器類を「強奪」したのです。
 では集団自決時の渡嘉敷島はというと、これは紛れもなく交戦状態、すなわち「戦時」であって、軍人・防衛隊・住民の証言によって、少なくとも防衛隊には手榴弾が「支給」されていることが確認されております。

 「平時」と「戦時」や「強奪」と「支給」の意味は全く違います。言い方を変えれば「正当性があるかないか」の問題であり、反乱部隊の「強奪」には全く正当性がなく、防衛隊員への「支給」には提供する側も受領する側も、それぞれ正当性があるということになります。さらには「支給」されている以上、管理の厳重さは問題にならなくなるともいえるのです。

 太田氏は「武器管理の厳重さ」を強調したいがためと、「鉄の暴風」で描写された「追加された手榴弾」の意味、すなわち自らの仮説を証明するために、あえて二・二六事件を引き合いに出したのかもしれません。誰がどのように手榴弾を追加したのかは2020年現在でも不明ですので、仮説の一つとして、それはそれで間違っていない解釈だとは思います。
 しかし入手経緯が違うといった、全く異なる様相を同じ現象だとして同一視し、それを具体例として挙げるのは、読者の考え方にミスリードを引き起こしかねないと危惧しております。


次回以降に続きます。

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