鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

Takehiro Honda Dark and Mellow

2021年10月19日 | Jazz

 最高に好きな日本のピアニスト。そのアルバムから一曲。

Takehiro Honda Dark and Mellow

 

  

 左は最後のアルバム My Piano My Life 05、最高です。右のアルバム米木康志のBassいいですねえ。

 

 晩年のこの二枚のアルバムも外せません。

 50年前の思い出が瓶の蓋から溢れるほど詰まったアルバム。You Don't Know What Love Is 之最初のフレーズを聴くだけで時間が半世紀遡ります。

 要するにすべてのリーダーアルバムがいいのです。CDですべて揃えてしまいました。

 


蕨岡からの登拝 宿坊から鳳来山まで

2021年10月19日 | 鳥海山

 さて、登拝者は宿坊を午前一時か二時頃に出立します。まずは下居堂に寄った後熊野神社に向かいそこから褄坂の集落へ向かいいよいよ山道にかかります。下に掲げた文を見るとわかるのですが当時の蕨岡口、本来の蕨岡道は近年の登山地図に書かれているものとは違います。以前紹介したように登山案内図に蕨岡阿口として記載されているものは戦前ソブ鉱石採掘搬出のために作られた嶽ノ腰林道を進み鳳来山へ直登する道です。これは蕨岡の人がつけた道だそうです。今やほぼ廃道。本来の登拝道は以前紹介させていただいた道です。鳥海山登山案内記でも触れられていますが蕨岡道は水場がいたるところにあります。


黎明あけがた取扱やど所を發足いづるすれば夜氣森々やきしんゝ鐵蹄かなぐつひゞきを聞くのみ忽にして〇境外末社けいぐわいまつしや磯前いそさき)神社の前に到るおくまりたる社頭やしろ模糊もやゝとして僅に其俤おもかげる此社は往時むかし下居堂おりゐだうとなへ藥師瑠璃光如來やくしるりくわうによらい安置あんち傳云つたへいふ鳥海山神每年山納まいねんやまをさめより山開迄やまひらきまで此處こゝ居賜ゐたまへるに依つてくはとなえ奉れるものなりと


 

 下居堂は小さなお社です。明治の神仏分離により名前は磯前神社に改められ中に納まるべき藥師瑠璃光如來は龍頭寺に祭られることとなりました。右端の写真が神仏分離以前下居堂に収められていた薬師如来です。以前も書きましたがこの薬師如来様、分解して担ぐことが出来るようにしてあります。


祓川橋はらひかはばしわたれば左に末社熊野くまの神社の巨林おおはやし朦朧おぼろげの中にのぞむ夫よりすこしく褄揚つまあがりとなり渺茫ひろきたる廣野のはらを行くこと十五六町にしてこま王子わうじに達す〇こま王子わうじ久那戶くなとかみを祭る掛茶屋かけちややあり休憩やすむに便す馬は此處より引返ひきかへ恰下降てうどげかう刻限とき期しみはからひふたゝ迎馬むかひうまとして待受まちうくるをつねとすつゑ用意よういなき人は宜しく掛茶屋にもとめられるべし千斤せんぎんさゝふるの金剛杖こんがうづゑ僅に二三銅を過ぎず此處よりは何人も徒步とほ


 この後も笹小屋など休憩所が出てきますがどうやら何やら購入しなければいけないようです。そのための小屋ですからね。宿坊を発つときにも下の文章にあるように握り飯を持つように強く勧められていましたから。山先達、丸飯、馬、金剛杖と既に四つ勧められています。


凡そ夏季日中ひなか登山のぼり酷熱あつさの爲め一段ひときは疲勞つかれ困難こんなんとを感ずるを以て多くは夜中よなかの十二時頃の夜陰よるに乘じて出發でだす此際このとき山先達は山中必須たいせつ丸飯にぎりめし携帶たづさへすゝむるに依り左程重さほどおもからざれば必各自かならずてんヾし決して他人ひとたのむすべからず


 やっと熊野神社まで来ましたが深夜の宿坊出立です、まだ真っ暗なうちなので街灯があるわけでもなし、何も見えなかったのではないでしょうか。それとも社前に篝火を焚いていた?


延命坂えんめいざか水呑みづのみ狩籠鉾立新山かりこめほこたてしんざん等の諸社ををがみして登れば道路漸くせま傾斜稍急けいしややゝきふに〇鳳來山ほうらいさん頭にちかづくころてん一角微あなたかすか曙光あけぼのゝひかりもら淡紅うすくれなゐ發揮はつきする光景ありさま筆舌ふでもくちもおよところに在らず漸くのぼれば箸王子はしわうじに達す


 昔の蕨岡口登山案内には必ず出てくる水呑、狩籠鉾立新山は此処ではないかと言われているようですが今となっては確かなことはわかりません。

     かつて水葉大神の祀られていた水呑                   狩籠鉾立新山か?

 鳳来山も無雪期には訪れる人も少ないようです。

 WEB上でルビを振るのも大変なのですがこのルビを読むのも楽しいものです。しかし大正期以降になるとルビも姿を消してしまいす。

 次回は箸王子に行ってみましょう。

 


鳥海登山案内を製本してみた

2021年10月14日 | 鳥海山

 現在歯の大治療中なので遠くへ出かける元気もなし。家で出来ることを少しずつ。歯が丈夫ってうらやましい。小さい頃は梅干しの種さえバリバリ噛み砕いたのに。

 ということはさておいて、小冊子、やり始めるとやめられない、止まらない。前にデジタル化してあった「鳥海登山案内」をA4縦書きサイズの原稿に直し、PDFにして製本できるようにしました。Wordは縦書きの場合、表が自動で次ページに送られず半端なものになるので一つ一つ手作業で修正しなければなりません。

 図版は文章の途中に挿入すると文字領域にしか入れられません。そこで奥の手、図形の挿入で四角形を挿入し、枠線無しとします。その四角形の塗りつぶしで図を選択し、必要な図を挿入すればOKです。

 表紙の次に空白ページを挿入したのち全体が偶数ページになるようにします。ページ番号ももちろん挿入しますがページ区切りを使い最初の図版が終了して本文が1ページ目になるように設定します。

 ちなみにこの小冊子、全体で表紙、図版、奥付も再現して総ページ80ページ。小冊子機能で印刷して40ページ×10円/ページなので一部印刷するのに400円かかりました。自宅のプリンターでは出来ないのでこんなものでしょうか。でも面白いですね。


明治、大正期の蕨岡宿坊

2021年10月14日 | 鳥海山

 さて、明治、大正、そして昭和もいつごろまでの事でしょうか、蕨岡迄やってきた参拝者は宿坊に泊まります。


而して夏季なつに至れば參拜者四方より羣來むらがりきたり絡譯としてるが如しと雖ども各一定おの〱さだまれる宿坊やどとまるするのほかみだりに宿泊混亂とまりてゆきちがふすることをゆるさゞりき然るに王政維新神佛分離しんぶつぶんりせらるゝや修驗しゆげんみなかざりあらた世襲せしふ官位くわんゐかれ神社は一定べつだん神官しんくわんを設けらるゝことゝなれり此を以ておの〱しよくを替へげふあらたむるに至れり然りと雖どもほ神社に奉仕つかへするを以ていま參拜者さんぱいしや便宜を計らんがため一定の鳥海山參拜者取扱所とりあつかひしよを設け以て諸事誠實懇切ばんじていねいしんせつむねとして周旋奔走せはをする


 と太田宜賢の鳥海山登山案内記にありますが橋本賢介の鳥海登山案内には次のようにあります。こちらは大正七年の発行なのでそれほど違いはないでしょう。


宿屋ではしみづ(鳥海源靜氏宅)、ぎょくせん(鳥海英覺氏宅)、はんにや(鳥海美規氏宅)の三軒ある、何処に宿つてよいか等は社務所又は共榮社事務所に行つて世話してもらふが一番良い、學生なら一晩五六十錢くらい、一般人でも酒を用ゐない人なら七八十錢でやつてくれる、こう宿がきまれば登山の用意に懸からねばならぬ。


 ところが、諸事誠實懇切ばんじていねいしんせつむねとして周旋奔走せはをするす、とありますが以前紹介した明治四十一年の鳥海山参拝者の記録(八月十九日から二十日にかけて)には次のようにあります。


鳥海山ノ登口蕨岡ニ着イタノハ午後二時近クデアッタ

 阿部源靜トカ云フ家ニ宿ヲトリマシタ

 ソノ御馳走ト申シタラタマゲタモノデ仲チャンヤババ様ナンゾハタベタコトハアルマイシ又タベルコトモデキナイデシヨー、

 又オ膳ヤオ椀ナンゾモ三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ

 ネドコモソノトホリ実ニ閉口シタ


 平仮名でわかりやすく直しますと、

 鳥海山の登口蕨岡に着いたのは午後二次近くであった。阿部源靜とか云う家に宿をとりました。その御馳走と申したらたまげたもので仲ちゃんや婆様なんぞは食べたことはあるまいし食べることも出来ないでしょう、又お膳やお椀なんぞもありました三四五百年もこのかた伝わってきたような古椀古お膳欠けだらけであった。寝床もその通り、実に閉口した

 清水坊に宿をとった時のことをこの方は友人に葉書に書いて送っています。何とも言えない様子ですが泊った当人はあきれ返っていた様子がわかります。

 さらに鳥海山登山案内記では山先達を頼むように強く言います。又橋本賢介の鳥海登山案内でも「山先達 是非頼む必要がある」と強調します。太田宜賢の鳥海山登山案内記では、


參拜者が一旦投宿いつたんとまるしたるときは遲滯すぐになく登山の準備よういすべし卽ち服裝みなりより簑笠杖提燈みのかさつゑあかしに到る迄手落無ておちなき樣心掛こゝろがけらるべしそれ同時どうじ山先達やまあんない依囑たのむすべし然るにやゝもすれば偶々たまゝ一二囘いちにど登山のぼりしたることのあるを唯一無二なによりのたてとして山先達やまあんないやとはざるものあり是等は可否相半よきものとあしきものするものにしてむしよろしからぬに近きものたり何んとなれば座談はなしとして高山竣嶺容易たかやまもたやすのぼるべしと雖ども素高山竣嶺深谷急阪もとゝやまたかくたにふかくさかきふ加之晴雨定しかのみならずてんきかはりやすくまりなく或時は雲霧晦瞑うんむかいめい咫尺しせきべんぜず暴風土石ぼうふうどせきばし又或時は雷霆俄らいていにわかに鳴り强雨川おほあめかはみなぎらすなど變幻極へんげんきはまりなきを以て山先達やまあんないやとふを肝要たいせつとす


 かなり強く山先達を頼むことを勧めています。大正末期蕨岡の宿坊で学生アルバイトとして夏休み「先達」=「山案内人」として働いた松本良一氏は宿坊の長男でないため道者一人につき三十銭の先達料をいただく資格がなかったそうです。それは宿坊の長男で三歳から修行された「先達」にしか許されなかったのだそうです。アルバイトの先達の収入は頂上までの三十三拝所に「おがみ」をあげて各拝所一銭宛三十三銭が収入だったとのことです。先達は一人から三十銭ですから結構な稼ぎになったのではないかと思います。今のジオパークのガイドさんは下見のガソリン代、時間も込みになるので良くてトントンらしいです。今のジオパーク以外のガイドの方は案内料どのくらいいただいているのでしょうか。高山植物や地形だけでなく、こういった歴史にも詳しければいいですね。でもほとんどの人は興味すら持たないかもしれないですね、そんなものには。