オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

信濃国・古城の旅 武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の上原城

2015年03月18日 | 長野
先日訪ねた新府城に続いて中央線沿線の古城、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の山城、上原城を訪ねました。青春18きっぷを利用しての鉄旅です。

乗り継ぎの都合で小淵沢で時間調整。小淵沢は初めての下車です。

駅中の立ち食いそばはなかなかの水準でした。


茅野駅で下車。茅野駅は茅野市民館、茅野市美術館に直結、モダンな建物です。

駅前広場のC12型蒸気機関車

上原城への途中、ヤマタカ味噌の本社工場。聞き覚えのある信州味噌のブランドです。手前にたくさんの石が置かれています。味噌は桶に入れてその上に石を積み上げ熟成します。味噌工場ならではの風景ですね。

ここから上原城までは約2km、上原城は永明寺山の山腹に位置しています。

千鹿頭神社

上原城への道は永明寺山遊歩道として整備されています。

所々に石垣があります。

山の斜面はきのこ山となっていて立入禁止です。


永明寺山遊歩道の1km地点

崖下は墓地です。

国有林払下げ記念碑。明治時代に地元村は国有林の払い下げを受けて砂防工事を行いました。払い下げの資金は地元の財閥・片倉家によって融資されたそうです。片倉家は片倉工業および富岡製糸場のオーナーです。片倉家が作った片倉館が下諏訪温泉にあり、是非一度立ち寄りたいと思っています。伊達藩の支藩・白石藩の片倉家ももとは諏訪出身で、財閥の片倉家とは同じルーツのようです。

陽の当たらない部分は雪道でした。融けた雪が凍結し滑りやすく非常に歩きにくい。ノーマルタイヤの車だと無理ですね。車も歩行者も私以外はゼロでした。

上原城の入口に着きました。上原城は永明寺山の山腹のコブ状の山・金毘羅山にあります。

上原城跡案内図

上原城址碑




主郭下の帯郭の石仏

井戸

金比羅神社の鳥居。上原城の三の郭です。



金比羅神社は四国・讃岐の金比羅権現が分祀されたものです。


神社の下、諏訪盆地側は断崖絶壁です。

上原城址碑



二の郭の物見石。高さ5m以上の巨石

標高978mの主郭跡。主郭は広くはありません。上原城は小規模な山城で、守備兵はせいぜい100人程度かと思います。金毘羅神社のある諏訪盆地側は断崖で鉄壁ですが、永明寺山の中腹にあるため永明寺山側は守りが弱い印象です。





上原城は室町時代後期に諏訪氏によって築城され、天正11年(1542年)諏訪氏五代目の諏訪頼重の時に武田信玄に攻められ落城しました。諏訪頼重の娘は信玄の側室となり、武田勝頼の母・諏訪御料人として知られています。豊臣秀吉・淀君・秀頼の物語と似ていますね。

上原城を下って城山の麓の頼岳寺へ向いました。



頼岳寺山門


頼岳寺本堂


本堂の裏手に諏訪一族の霊廟があります。

諏訪氏は頼重滅亡後、江戸時代に別の系統の諏訪頼水が高島藩初代藩主となり再興しました。この霊廟の中央に頼水の父・頼忠(頼重の従兄弟)、右に頼水夫人、左に頼水自身が祀られています。


頼岳寺の裏山、城山の麓、板垣平に諏訪氏の居館がありました。

茅野駅に戻りました。茅野市で縄文期の2つの土偶が発掘され注目されています。一つは国宝・土偶の「縄文のビーナス」、もう1つは重要文化財「仮面の女神」。土偶を展示する尖石縄文考古館へは茅野駅からバスで30分ほどです。


帰路に穴山駅で途中下車。以前から中央線でここを通るたびに、穴山駅のホームのこの案内板は気になっていました。穴山といえば武田を裏切って徳川家康と内通した穴山梅雪です。穴山氏の発祥の地だそうです。

駅の正面にある能見城。能見城が穴山氏ゆかりの城です。





かなり期待はずれの本丸跡です。

能見城跡の碑の隣には守屋一族発祥の地の碑。守屋一族について説明はありません。穴山氏とはどういう関係なのか不明です。この碑は守屋一族の末裔が建てたものです。

穴山氏の墓や居館跡もあるようですが、城跡がやや残念なものだったし、時間もないのでパスしました。
穴山氏はともかく、諏訪氏の歴史探訪は有意義でした。































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