オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

信州・古城の旅 小彼岸桜と絵島囲み屋敷の高遠城

2017年08月04日 | 長野

JR中央線・茅野駅のホーム看板。小彼岸桜と絵島生島で有名な高遠城跡への最寄り駅の一つです。
茅野の駅舎駅前の商業ビル姥塚古墳の碑
寒天の里の記念碑。背後の3本の柱は寒天を模しています。
茅野から高遠へは春の桜、秋の紅葉、夏の登山の期間限定でバスが運行されています。1日1便、終点は南アルプス登山基地の仙流荘です。このバスがない時期は高遠へは伊那市または伊那北駅からバスで行くことになり、東京からだとかなりの遠回りになります。
茅野から杖突峠を越えて高遠へと行きます。諏訪氏の居城、上原城がある城山の山並みが見えます。高遠駅。バスターミナルですが駅となっています。現代では駅は鉄道駅を指しますが、鉄道以前の時代では馬を替える場所であり、近年では「道の駅」もあるのでとくに違和感はないのでは。ユニークな二宮金次郎像御城下通りの商店街
藤沢川
太鼓櫓
阪本天山屋敷跡


大手門跡高遠の町並み
三の丸跡の高遠高校の碑
高遠高校の正門として使用されていた伝高遠城大手門藩校進徳館進徳館百年碑空堀さくら名所100選高遠城北ゲート


高遠閣。1936年に建築された木造建築、登録有形文化財。今風にいえば町のコミュニティセンターです。
天下第一の桜の碑
桜雲橋問屋門。城下にあった門を城内へ移設しました。

天正10年の織田信忠率いる織田軍の甲斐進攻の際に武田方の高遠城主・仁科盛信(信玄の五男)は籠城して徹底抗戦、最大の抵抗をし、ついには落城しました。武田氏最後の戦いです。高遠落城後、武田勝頼は新府城から天目山へと逃れ最期を遂げます。
コヒガンザクラの碑新城藤原神社
本丸跡
本丸からの眺望
本丸太鼓櫓中村元恒・元起の碑
招魂碑
白兎橋空堀法幢院曲輪
広瀬奇璧・河東碧梧桐の句碑裏面伊澤多喜男の無字の碑
南ゲート
保科正之と正之の生母・静の石像。静は2代将軍秀忠の子を懐妊し、生まれた子は保科家の養子となりました。正之は異母兄の3代将軍家光を補佐し幕政に貢献し、のちに会津藩主となり、保科正之の会津藩は幕末まで続きました。最後の会津藩主は松平容保です。
高遠町歴史資料館
「保科正之を大河ドラマに」のキャンペーン実施中です。絵島囲み屋敷
絵島の間新宿区と伊那市は友好提携の関係にあります。新宿御苑は高遠藩内藤家の屋敷の跡です。新宿は内藤新宿ともいわれました。昨年、新宿歴史博物館で友好提携10年を記念し「信州高遠藩」のイベントが開催されました。高遠湖。三峰川をせき止めた人造湖です。
三峰川に架かる白山橋
高遠ダム
国道152号の高遠大橋
高遠城の南壁
藤沢川
そば店
酒蔵の泉
ある商店のショーウインドーのポスター。高遠・伊那間は鉄道の計画はありましたが実現しませんでした。このポスターは幻の鉄道想像図かと推測します。建福寺
高遠石工の石仏群
本堂
保科正直(中央)、保科正光(左)、諏訪御料人(右)の墓。正直は戦国期に武田、豊臣、徳川の武将として活躍しました。正直の嫡男が正光。正光は秀忠の庶子を養子とし、正之に家督を継がせました。
諏訪頼重の娘、武田信玄の側室、勝頼の生母・諏訪御料人の墓です。
高遠駅に戻りました。待合室の石油ストーブです。北海道育ちの私としては懐かしいですね。中央構造線・フォッサマグナのポスター伊那市駅伊那市駅前

高遠城訪問は今回が3度目です。約25年前の過去2回はいずれも桜見物でした。小彼岸桜が見事だったことと絵島屋敷は記憶に残っていますが、当時は高遠が城跡だったことはあまり意識をしていませんでした。今回は城跡見物を目的に3回目の訪問をしました。
高遠城の歴史を簡単に振り返ると、築城は諏訪氏一門の高遠氏で、高遠氏は武田信玄と組み諏訪氏を滅亡させました。その後高遠氏は信玄によって攻略され高遠城は武田の城となります。信玄の家臣・山本勘助が城の改築を担当し、勘助曲輪として名前が残っています。
信玄は諏訪頼重の娘を側室とし、勝頼が誕生。勝頼は一時高遠城主ともなっています。信玄嫡男の義信が廃嫡され自決したのち勝頼は武田本家を継承、高遠城は信玄の弟・信廉、信玄の五男・仁科信盛が継ぎ、信盛のときに織田軍に攻められて落城します。
徳川期には旧武田家臣の保科正直が藩主となり、正光、正之(家光の異母弟)と続き、正之は会津へと栄転。1691年に内藤氏が入封し幕末まで続きます。その内藤家の江戸屋敷が甲州街道の新宿にありました。現在の新宿御苑一帯です。







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