オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

東京芸大美術館「武器をアートに」展を見て、谷田川跡を歩き田端文士村へ

2015年11月21日 | 東京
東京芸術大学美術館の「武器をアートに」展を見に行きました。

上野駅公園口

前川國男設計の東京文化会館

前川の師、ル・コルビジュエ設計の近代西洋美術館

東京国立博物館。帝冠様式、設計は渡辺仁

「始皇帝と大兵馬俑」展を開催中




国立博物館敷地内の旧因州池田家屋敷表門(黒門)。丸の内の池田家屋敷にありましたが、明治中期に高輪の旧東宮御所に移され、1956年(昭和29年)に上野に移設されました。門の両側に唐破風屋根の番所があるという豪華な門です。これほど大きな門、私はあちこちの城門や御殿を見てきましたが、あまり見ないですね。


京成電鉄の旧博物館動物園駅。京成線は上野公園の地下を通っていますが、駅は閉鎖されています。

京成電鉄の通風口

上島珈琲店

「武器をアートに」展のポスター

東京芸術大学入口

キャンパス

美術館の2階テラス

「武器をアートに」展会場入口
先日のパリ・テロ事件でテロリストが使用した自動小銃はカラシニコフAK47です。カラシニコフは旧ソ連の武器技術者の名前で、1949年にAK47を開発しました。旧ソ連や中国、北朝鮮、旧東欧諸国などで制式銃として採用されたほか、ベトナム戦争、アフガン戦争、中東・パレスチナ紛争、中南米の紛争などでは反政府軍、武装勢力、ゲリラ部隊の使用する銃として勇名を馳せました。構造はシンプルで、メンテナンスは簡単、万能銃として大量に生産、大量供給され、模造品も大量に出まわりました。累計1億丁も生産されたといわれています。
アフリカ、中東、中南米諸国に大量にばらまかれ、今も現役として使用されています。
モザンビークではばらまかれた武器を回収する「銃を鍬に」プロジェクトが始まり、回収した武器を解体・切断をしてアートの部材として活用した作品を展示したのが東京芸大美術館の「武器をアートに」展です。
豊臣秀吉が行った刀狩りのようなものですが、強制的に没収するのではなく、武器回収に協力したら鍬や自転車などと引き換えるというベルマーク運動のような活動です。なかにはトラクターを得た集団もあったとか。
これら集められた武器の大部分がAK47でした。いかに大量のAK47がアフリカ、中東などの紛争地帯で使用されたか。AK47はアメリカでも銃愛好者の間でけっこう保有されています。日本では自衛隊が研究用として保有している可能性はありますが、さすがに日本の暴力団も持ってはいないし、国内で出回っていたことは確認されていません。
映画では007シリーズ、ランボー・シリーズ、最近では「アメリカンスナイパー」に登場しています。弾倉の形がバナナ型なので素人でもすぐ判別できます。興味のある方には「カラシニコフ自伝」(朝日新書)、「カラシニコフI」「カラシニコフII」(朝日文庫)をお薦めします。



この椅子はAK47だけで制作されたそうです。クリストヴァオ・カニャヴァート(ケスター)作

椅子の背の部分はAK47のバナナ型の弾倉が使われています。

これらはAK47だけでなくさまざまな武器を混合して制作されています。
モザンビークは旧ポルトガル領で、マダガスカル島の対岸に位置するアフリカ南東岸の国です。1975年に独立しましたが、1992年まで内戦が続きました。




美術館内部階段


美術館外観

芸大キャンパスの案内図

陳列館。設計は岡田信一郎

皇居二重橋の飾燈



陳列館内部

陳列館外観


陳列館の隣の正木記念館。これも帝冠様式では?

和菓子の桃林堂。芸大をあとに上野桜木、谷中を経て田端方面へと歩きました。

有名なカヤバ珈琲店

下町風俗資料館

高橋泥舟の墓がある大雄寺

スカイ・ザ・バスハウス。昔の銭湯をギャラリーに改造しました。

台湾スイーツの愛玉子(オーギョーチー)の店


カスタム自転車のトーキョーバイク・ギャラリー

三遊亭圓朝、山岡鉄舟の墓がある全生庵

山岡鉄舟の碑。

中国革命戦争で戦死した山田良政の碑。孫文の書です。

三遊亭圓朝の碑。こちらは井上馨の書です。圓朝、鉄舟の墓は本堂の裏手にあります。前回当ブログで紹介したので今回はパス。

よみせ通りを歩き、田端へと向かっています。最近できた今風のホテルです。

よみせ通りのアーチ。よみせ通りは昔の谷田川、別名藍染川です。谷田川は豊島区の染井霊園から駒込を経て上野不忍池へと流れる川でしたが今はすべて暗渠となっています。


谷中銀座とのT字路。東へいくと夕焼けだんだん、日暮里駅です。

よみせ通りの北側アーチ

田端へきました。田端文士村記念館です。
田端文士村の主な住人は転入年順に1903年に板谷波山、青木繁、1904年二葉亭四迷、1908年片山潜、1910年直木三十五、1913年岡倉天心、1914年芥川龍之介、1916年室生犀星、1917年平塚らいてう、1920年野口雨情、サトウハチロー、1921年竹久夢二、1923年菊池寛、久保田万太郎、1924年堀辰雄、林芙美子、1925年萩原朔太郎、1926年岩田専太郎、佐多稲子、1927年川口松太郎、1929年田河水泡、小林秀雄、1930年中野重治、1938年村上元三。
芥川も直木も菊池寛もいて、まさに日本の文学史です。



文士村の住人地図。大部分の人は不忍通りと山手線の間に住んでいます。田端一帯は空襲で焼け跡となりました。

田端駅前通り。台地を削って1935年(昭和10年)に切通しが開通しました。奥には台地の上の道路の東台橋。高層ビルは田端アスカタワー。

田端駅。2008年に駅ビルが完成しました。それ以前は木造の駅舎でした。














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