日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

丸子城の巻 武田流の三日月堀と丸馬出しの遺構が残る

2016-01-04 14:49:59 | 静岡
丸子城は静岡駅からバスで20分ほどの国道1号線の近くにある山城です。

静岡駅に到着

バスで吐月峰駿府匠宿のバス停にきました。


中央の木札が丸子城の案内板です。

とろろ汁の店。このあたりはとろろ汁が名物です。



駿府匠宿。道の駅のように地元の名産品を展示、販売する施設です。

丸子城の入口



梅林が続きます。

中腹からの眺望


丸子稲荷神社


外曲輪


三日月堀の土橋



武田流の三日月堀

大手曲輪

北曲輪



二の曲輪


堀切


枡形虎口

本曲輪。丸子城は北曲輪、二の曲輪、本曲輪が南北にほぼ一直線に連なっています。

食違い虎口



本丸跡。丸子城の本丸は標高136mの三角山の山頂にあり、別名三角山城といわれます。北側は今川氏、南側は武田氏によって築かれ、連結されています。今川にとっても武田にとっても駿府防衛の重要な拠点でした。

馬出し曲輪



本丸北側の堀切。このさらに北西側に大竪堀や丸馬出があるのですが、足元が不安なので断念しました。





本丸北側

平虎口




再び北曲輪の三日月堀付近です。

駿府匠宿の産業展示ホール

吊るし雛飾り



韮山城の巻 北条早雲が築き、小田原北条氏の原点となる

2015-12-28 14:46:09 | 静岡
韮山城へは、三島から伊豆箱根鉄道・駿豆線に乗り、韮山で下車して20分ほど歩きます。
韮山城は15世紀末に北条早雲が整備拡張、伊豆支配の拠点としました。早雲は伊豆に続き相模国も支配し小田原城を築城しましたが、その後も韮山城を居城とし、1590年に秀吉の関東攻めで小田原城が落城し北条氏が滅亡するまで北条の城として続きました。

伊豆箱根鉄道駿豆線・韮山駅


韮山駅近くの韮山時代劇場。地図で見て、日光時代村のようなテーマパークと思いましたが、実際は公立の文化施設です。




駅から蛭ヶ島公園、韮山城までの歩道には伊豆の歴史を説明するタイル板が埋め込まれています。

蛭ヶ島公園の頼朝・政子の像。政子は伊豆の豪族・北条時政の娘です。頼朝が開いた鎌倉幕府が三代で途絶えると時政は執権として幕府の実権を掌握しました。時政の死後も北条氏は代々鎌倉幕府の執権家として続きます。
韮山城の早雲は執権北条家とは無縁の武将です。北条の前は伊勢新九郎、伊勢盛時と称していました。そもそも北条と名乗ったのは早雲の嫡男・氏綱のころのようです。
2つの北条氏を区別するために時政の一族を執権北条氏または鎌倉北条氏、早雲の一族を後北条氏または小田原北条氏といいます。

蛭ヶ島公園の茶屋


歴史民俗資料館(旧上野家住宅)

城山下の韮山中学校

韮山城への切り通し

城池親水公園







城山中腹の熊野神社



韮山中学校

本丸跡



本丸からの眺望。富士山が見えます。韮山城は豊臣4万の大軍に包囲されましたが、3000余りの兵で約100日の籠城戦に耐え抜きました。山中城は半日で落城したのに対して、韮山城は100日。韮山城の将兵が奮戦したというより、韮山城は東海道から離れているために主要な進撃路ではなく豊臣側が損害を恐れて本気で攻めなかったのでしょう。


土塁で囲まれた伝塩蔵跡


二の丸跡




城山下の城池

城池の野鳥観察小屋

富士山

三の丸下の崖

江川邸の裏門

郷土史料館

江川太郎左衛門英龍像。韮山代官を務めた江川家の第36代当主。英龍は洋学を学び、西洋式砲術に通じ、韮山に反射炉を建設、反射炉で精錬した鉄を使って銃砲の製造にも努力しました。

江川邸の堀

江川邸の門前の枡形。枡形に農兵を集合させ訓練を行いました。

受付所

江川邸の門

江川邸主屋の玄関



ペリーから幕府に贈られたボートウィッスル砲。砲身と弾丸はレプリカ、砲車は本物だそうです。

ゲベール銃(写真手前)とシャープス銃(写真奥)

西蔵

米蔵

武器庫

パン祖江川英龍記念碑。江川英龍は日本で初めて西洋流のパン焼きに成功し、「パン祖」と言われています。

きささぎの木

江川邸の塀



江川家の菩提寺・本立(ほんりゅう)寺

江川英龍の石像

本堂

本堂裏の江川家の墓所。第36代英龍の墓。このあと江川英龍が建造した反射炉へ歩きました。

世界文化遺産に指定された反射炉。反射炉とは炉の中でコークスを燃焼させ、炉の天井部で熱が反射することにより高熱で鉄鉱石を溶鉱する炉です。反射炉で生産された鉄を使用して鉄製の大砲を製造しました。

またまた江川英龍の像

伊豆長岡駅


山中城の巻 箱根を守る北条の支城、豊臣の大軍に攻められ敢えなく落城

2015-12-22 21:33:39 | 静岡
北条氏の支城、箱根十城の一つ、山中城を訪ねました。北条氏康が築城し、豊臣秀吉との手切れに備え拡張されましたが1590年に豊臣7万の大軍に攻められ、対する北条側は4000、わずか半日の攻防戦であえなく落城しました。いくら多勢に無勢とはいえ、半日で降参とはなんと情けない。
私は山中城というので山中湖の近くにあるのかと思っていました。実際は芦ノ湖と三島の間の芦ノ湖寄り、国道1号線の両側にあります。東海道を西から来ると、箱根山の手前、まさに交通の要衝に立地します。

三島駅に到着。何度も三島へは来ていますが、駅舎が富士山の形だということは初めて気付きました。山中城へいくバスの中から撮影しました。

12月にオープンした三島大吊橋スカイウォーク。日本最長の吊橋で、富士山を眺望する公園です。

山中城跡に到着。

山中城跡は国道1号線で東西に分断されています。東側に岱崎出丸があり、100名城スタンプのある食堂もあります。

左が岱崎出丸への石段、石畳の道は旧東海道。


国道の西側には本丸、二の丸、三の丸、西の丸の主要部分があります。




三の丸堀

田尻の池


元西櫓下の堀。西方からの攻撃に備えて二の丸の先に西の丸と西櫓を増設したために古い西櫓は元西櫓となりました。






増設された西の丸の跡

富士山の頂上部分が見えます。

二の丸方向

箱根の大観山



北条流築城の特徴の畝堀

同じく障子堀。障子の桟のような形状です。

掘立柱建物跡

障子堀

山中城址の碑

西櫓。山中城の西端です。西櫓は西の丸の馬出となっていて、山中城の馬出は北条流の角馬出です。角馬出に対して武田流では三日月堀を配した丸馬出が特徴です。

三島市眺望地点

愛鷹山

富士山

休憩所

三島駅で購入してきた駅弁「港あじ鮨」。駅弁を買ってきて正解でした。あじ鮨はけっこう酢がつよいが美味でした。

西の丸・二の丸外周の帯曲輪

溜池






北の丸

北の丸堀



天守櫓跡

天守櫓跡から見る本丸跡

天守櫓と北の丸の間の堀切

矢立ての杉

本丸の藤棚


兵糧庫跡

樹齢650年のアカガシ

駒形諏訪神社

天然記念物の大ガシ

畝堀


鳥居と山中城址の碑

芝切地蔵

箱井戸


本丸・二の丸間は工事中のため三の丸に戻って二の丸へ行きました。

二の丸堀


二の丸橋と元西櫓・西の丸

二の丸虎口

二の丸物見台




西の丸

堀切


公園入口に戻り、国道と旧街道を横断、岱崎出丸へ向かいます。



出丸馬場跡

山中城址碑




出丸馬場堀

岱崎出丸





すり鉢曲輪



山中城は三島市によって本丸、二の丸、三ノ丸、出丸、曲輪、堀切などの遺構が発掘され非常によく整備されています。
豊臣秀吉との戦いに備えて山中城は拡張・強化されましたが、秀吉の大軍に攻められてわずか半日で落城。どうしたことでしょう。山中城の守将・松田康長は討死、墓は三の丸の宗閑寺にあります。山中城落城は1590年3月末、北条の支城は韮山城、鉢形城、八王子城と次々に落とされ、小田原城は孤立無援となり7月5日に北条氏政・氏直は豊臣軍に降伏し開城しました。
北条の城をまわると各所で北条五代を大河ドラマにという誘致運動を見ます。私はどうも後北条氏の歴史は不勉強なので、少し勉強します。



二俣城の巻 徳川家康の嫡男・信康が武田と内通の嫌疑で切腹

2015-09-10 17:47:08 | 静岡
遠州鉄道の終点、西鹿島駅に到着。西鹿島で天浜線に接続しています。私は西鹿島で下車し、徒歩で天竜川を渡り二俣城へ向かいます。

遠鉄・西鹿島駅。現在は浜松市天竜区ですが、かつては二俣町でした。二俣町は1958年に天竜市となり、2005年に浜松市と合併、2007年浜松市が政令指定都市となったのに伴い浜松市天竜区となりました。天竜区は旧佐久間町、旧水窪町などを含み、天竜川の中流部から上流部まで、長野県と県境を接する広大な区で、日本有数の林業地帯です。

途中で見かけた映画会のポスター。私は中学の時にこの「反逆児」の映画を見たのを覚えています。主演は中村錦之助。織田信長の映画だと思ってましたが、松平信康の映画だったんですね。原作は大佛次郎。

天竜川に架かる鹿島橋を渡ります。前日東海地方を台風が通過しているので水量は多いです。

天竜浜名湖線の鉄橋

橋をわたるとすぐにトンネル。このトンネルの上は鳥羽山(標高108m)。鳥羽山城という二俣城の出城があったようです。

二俣城へいく坂道



城跡の旭ヶ丘神社へ上がる石段



二の丸跡

城山稲荷神社


本丸虎口

本丸跡








天守台

天守台の木々の隙間から天竜川が見えます。

二俣城は戦国時代に今川氏が砦を築きました。その後、今川滅亡後は武田と徳川が争奪し、徳川が勝ち取り大久保忠世を城主としました。織田と同盟していた徳川に家康の正室・築山御前と嫡男・信康が武田と内通をしたとの嫌疑がかけられ築山は殺害、信康はこの二俣城で幽閉後に切腹をさせられました。徳川にとって大きな悲劇の舞台となった城です。城の近くに信康を葬った清瀧寺があります。

本丸北の虎口

北郭跡の旭ヶ丘神社

本殿


本丸と北郭を結ぶ石橋


市街地側の二俣城址入口


信康山清瀧寺。信康を祀った寺です。

山門

本堂


信康廟

本田宗一郎は旧二俣町の出身。宗一郎は小学生時代、この鐘を正午の30分前に突いて早めし(早い時間に弁当を食べること)をしたそうです。

井戸櫓

清瀧の滝
信康は家康の長男・嫡男でしたが切腹。次男の秀康は豊臣との和睦に際して豊臣の養子となりましたが、秀吉に実子が誕生すると結城家の養子とさせられました。秀吉の死後、結城秀康は関ヶ原の戦いでは上杉の備えとして関東に留まり大事な役割を果たします。三男秀忠は関ヶ原の戦いに遅参、家康は激怒し面会を拒絶。秀忠は廃嫡となって秀康が嫡子に復帰してもおかしくなかった。関ヶ原の勲功で秀康は越前65万石の大大名となるも若くして病死。
信康は信長の「信」の字をもらい、秀康は秀吉の「秀」の字をもらいました。家康の長男・次男は2人とも苦労しましたね。

本田宗一郎ものづくり伝承館

旧二俣町役場



ホンダの歴史的オートバイを展示中です。原付自転車、C型、スポーツカブ、スーパーカブ、モンキー、ドリーム50のホンダ車。トーハツ、ヤマグチの今はなき国産メーカーのオートバイ、海外メーカーのBSAを展示しています。

天竜浜名湖鉄道の天竜二俣駅から帰路へつきました。

駿府城の巻 家康が大御所として晩年を過ごした最後の城

2015-03-31 19:07:41 | 静岡
浜松城の帰路、静岡で下車、駿府城へ立ち寄りました。


二の丸橋



二の丸東御門巽櫓


徳川家康像


坤(ひつじさる)櫓


駿府城の石垣を修復工事した際の石垣

本丸濠


再建された東御門



東御門の外側





料亭浮月楼。徳川慶喜の屋敷跡です。十五代将軍徳川慶喜は大政奉還後、江戸城を出たあと上野から一時水戸に滞在し、晩年は駿府で過ごしました。

静岡駅