ぼくらのありのまま記

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こんな大人になりました。

「僕の祖父は、満州で肩を撃ち抜かれた。 」モンゴル慰霊碑訪問記、その1。

2017-08-31 10:44:18 | 東京日記

僕の祖父は、満州で肩を撃ち抜かれた。

それが戦争について、僕が知っている唯一の物語だ。

悲しかったのか、怖かったのか。寒かったのか、暑かったのか。「肩を銃で撃ち抜かれた」それ以外の気持ちや、風景は何も知らないし、もう聞く事はできない。



第二次世界大戦について他には何も知らないし、参拝も黙祷もした事がない。
そんな僕が、モンゴルで死んだ日本人の慰霊碑に行ってきた。




「たらさん モンゴル行くなら 日本人墓地 行った方がいいね」



7月に木更津のカフェで出会った、トゥブシンさんが教えてくれた。

「戦争の後 モンゴルで死んだ日本人の お墓があるんだよ。小泉さんが遺骨を日本に持ち帰ったんだ。日本は歴史で習わないか?」

「多分習ってない。聞いてないだけかも。」

「私 歴史好きだよ。日本人なら日本人墓地は行った方がいいね。」


3週間モンゴルで過ごす事が決まった僕は、情報収集と、語学の勉強のために、モンゴル人や関係者を紹介してもらった。

トゥブシンさんもそのひとり。
大学卒業後、日本の日本語学校に行き、今は日本で、建築関係の会社に勤めている。
日本で働きたいモンゴル人と、人手が欲しい建設業界へのマッチングみたいな仕事らしい。

「気仙沼、先週も行ってきましたよー!シャークミュージアムでお寿司食べたね」

3年過ごした気仙沼にも、復興の仕事で沢山のモンゴル人が来ていることを知った。



「この番号に電話してね!前橋ののりこといえばわかるから!」


トゥブシンさんの名刺の写メ(モンゴル語で名前も読めず)をくれたのも、気仙沼で知り合った人だった。

「すみません、のりこさんの友だちなんですけど、、、」

「なに?あの群馬の?」

「僕モンゴル行くんだけど、と言ったらこの番号を教えてもらいました」

と名前もわからない人に電話して、お茶して、次はモンゴル料理を食べる約束した。



勉強したかった語学は全く教えてくれなかったけれど、逆に日本の歴史を教えてくれた。そして、日本人墓地にはどうにかして行こうと思った。





僕が第二次世界大戦に対して、いちばん近い接点は4人の祖父母だった。


高校生の時まで、4人とも生きていたけれど(今は祖母がひとりだけ)、ほとんど戦争の話は聞いた事がない。

父方の祖父母は下丸子で個人経営の不動産屋を営み、成功して、小さな4階建の家を建てた。

「今井の孫は成功するから大丈夫だ。」祖父はタバコを喫みながら、食後には大量の薬を飲みながら、いつもその話をしていた。
祖母は穏やかに笑ってお茶を入れてくれていた。


戦争についての話は聞いた事もないし、特別参拝に行っているわけでもなかった。



母方の祖父母は、西日暮里にいた。祖父は浅草の鞄職人で、気弱で無口だが、酒飲みで、酔うと気が大きくなり、帰り道にホームレスを家に連れて来て飲み食いさせては、家族に迷惑がられていたらしい。

僕が知っている頃の祖父は、仕事は引退して、毎朝4時に起き浅草寺まで散歩をし、朝食にグレープフルーツを食べ、夜はキリンの大瓶を1本飲む、規則正しい生活をしていた。タバコは確かハイライトを吸っていた。


普段は無口で、酒を飲むと饒舌になる祖父は山形出身だった。それって東北気質だったのかな。と気仙沼で思い出したりもした。




戦時中、祖父は満州にいた。

「肩を銃で撃ち抜かれたんだ。」

祖父が戦争の話をしたのは、それだけだった。

怖がらせないようにか、思い出したくないのか、もともと無口だからか。
わからないけれど。悲しいとか、恨むとか、そういう感情は感じなかった。
子どもを面白がらせるというわけでもなく、それでも明るく話してくれた。




「今、モンゴルにいるんだよねー。」と話すくらいの軽さで「ただ、そういう事があったんだよね」と話していた。

ただそれは、僕が祖父の揺れる感情に気がつけなかっただけかもしれない。(大人はいつでも何があっても動じないし、強いものだと思っていたから)。


祖母は戦時中、日赤の看護師だった。結構仕事はできたらしいが、詳しい事はなにも知らない。
僕が知っている祖母は毎日毎日テレビで流れる株価のチェックをして、株主優待券を楽しみにして。ラジオドラマを聴きながら、セーターを編んでいる生活をしていた。

4人とも戦争を経験して来たけれど、「それ、終わったことだから」と、それぞれの人生を生きていたように思う。




ウランバートル郊外スフバートル地区ダンバダルジャーにて。

慰霊碑の横で暮らし管理をしているモンゴル人の家族に出会った。



日本人かと思った顔だちの彼が、彼のお兄さんや、戦後ここで過ごした日本人参拝者から聞いた話を僕に教えてくれた。







ダンバダルジャーで聞いた、モンゴルで過ごした日本人の話は、僕の祖父母が多くを語らず「過去」に置いてきた、物語の一編につながっている。

それは「同じ時代に同じ国で産まれた」というだけのつながりかもしれないし。

「僕の祖父は、満州で肩を撃ち抜かれた。」まさにその日、同じ場所にいた友人、ということかもしれないし。

その前に日本で出会っていた、ということかもしれない。




そんな「祖父の友人だったかもしれない人たちの物語」を僕は、モンゴルで聞いたのだった。




つづく。
























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