ぼくらのありのまま記

ぼくらは
こんな大人になりました。

さむー

2015-09-30 19:40:24 | 唐桑日記
昼間は暖かかったのに
夜になると急に冷え込みます。
もう秋と言うか冬が来たって感じです。



昼間は「気持ちいいなぁ」と
思っていたけれど、
夜は「嫌だな」と
思ってしまいます。


車が岸壁にあるってことは
やっさんは沖にでてるんだね。

昼間は穏やかなんだけどなー。
暖かかかったので、今日は
ハーフパンツで過ごしてました。
それでそのまま夜になって、
今20時なのですが、すんごい寒いです。

寒い、眠い、お腹空いた。
この3つがそろうと寂しい気持ちになるなー。

お風呂はいって早めにねよー。

海はいい!夕日はきれい!

2015-09-28 21:13:03 | 唐桑日記
だいぶ陽が沈むのが早くなって来ました。


16時すぎでこんなんだもの。


夏は明るかったのにな。


それにしても海はいいねー。
毎日見てても飽きない。
美人は3日で飽きると言うけど、
美しいものは飽きないと思うなー。

「やっぱりさー、男は顔だよ」と
いちよさんが泊まりにきた
20代の女の子にアドバイスをしていました。

美しいって大事だなー。

そうそう。
夜ごはんに使うほたては
毎日海からあげているんですー。
時間が合うとお客さんと
一緒に行ったりしてます。



昨日はいかだに行く途中、夕日にグッと来たー。

「毎日もうやんた(やだって意味)!!って
思うけど、この夕日を見てたら
明日も頑張ろうって思うよね。」と
いちよさんと話していました。

僕は小笠原諸島の父島と
いうところで15歳まで
そだったのですが、
唐桑の様に海とか自然が
きれいな島でした。

(父島のいちばん大きな集落。
ちょっと唐桑っぽい。)

牡蠣やほたての養殖はやっていなくて、
海と言えば、釣り、ダイビング、
スノーケリング、サーフィン、
ヨット、ウィンドサーフィン、
ドルフィンスイム、ホエールウォッチングなど。
つまり、遊ぶ場所でした。

唐桑は、というか今養殖業者で働いているから
感じることかも知れませんが、
仕事をする場所で、生活の一部で、
無くてはならない場所という印象です。

海との関係が全然違うなぁと
思いました。
あと、唐桑の人は
メカジキやマグロを獲りに
小笠原に行ったことがある人が多くて
嬉しいです。東京にいるときより
断然に行ったことある人に
合う確率が高いです。


土曜日はここ鮪立の
大漁唄い込み保存会の40周年でした。
この中にも父島に行ったことある人が
たくさんいます。

星は父島の方がくらいので
きれいに見えます。
夕日は唐桑の方がきれいだなと
思います。なんでだろうか。
父島は沈むとき雲がおおいからかなー?


(2013年12月31日の父島)
海に溶けるオレンジが
違うんだよなー。

「海はいい!」
「夕日はきれい!」
っていう話でした。おしまい。





しあわせいちよごはん 2015

2015-09-26 22:55:47 | 唐桑日記
去年書いたしあわせいちよごはん
結構な反響を頂きました。

この記事から
「ブログ、盛ってるでしょ!」って
よく言われる様になりましたが、
つなかんに来れば真実がわかるでしょう。


(朝ごはん、リキコさんの大福。)



(昼ごはん、花子のシュークリーム。
手がべったべた!)


(夜ごはん、えびせん。
「おっと、いけない!」といって
隠れていました。)
「口だけやん!反省してない!」と
突っ込まれていました。


いちよさんはお菓子を食べて生きています。
ソーメンやスープは飲みますが、
基本的にお米はほとんど食べません。


一緒にごはんを食べに行くと、
例えばトンカツ定食や
ラーメン等、ちゃんと注文はしますが
一人前は食べきれません。


「ねぇ、ちょっと交換しよう!」と言って
人のを一口食べて、いちよさんのメニューを
ほとんど人にあげる作戦をとっています。

小学校の時は自分は全部食べないくせに
「うわー!残してるぅ!ちゃんと食べろよ」と
気の弱い男子をよく泣かしていたそうです。
ちなみによく泣かしていた男子は
地元の議員になって、久慈にいった時に
ポスターが沢山はってありました。

「あいつ、ごはん残してたくせに」と
ポスターを見ながら言っていました。



こういうポスターが
目的地までに10カ所くらい
あったのですが、でるたびに
「あいつごはん残してたくせに」と。

自分だって!!
そして、別にいいじゃん!!
自分のことは棚に置くのが得意です。


(いちおー、反省の顔。)
とりあえず反省の顔やっとけ的な。
結局お菓子は離さず。

食欲の秋でした。

わかった!そうする! きをつけよっ!

2015-09-25 21:06:53 | 唐桑日記
いちよさんのご友人と
最近、唐桑に移住してきたともちゃんと
廿一(にじゅういち)という場所にある
こちらのツリーハウスに遊びに行きました。



みんなでドライブ。

(この写真だけ見ると旅行中っぽい!
いいなぁ。)


廿一はお米の産地です。
日本酒になるための
お米
をつくっている場所でもあります。

つなかんとのそばにある
海の見えるツリーハウスとは違い、
山のほうにありました。




ちかくに川も流れていて
とても気持ちよかったです。


山のほうのツリーハウスですが、
天井には船が作ってありました。


名前はMERRY号。



いちよさんの友人は
関東から来ていて、
震災後から、合わせて
20回くらいは
来てくれているのですが、
来る時は雨の日が多くて。
(帰りの電車が大雨で
動かなくなった時もあった)
なんだかもうしわけないなと
思っていましたが、この日は
晴れたしあつからずさむからず、
ツリーハウス日和になりました。



楽しかったなー。
出かける時にもいろんな用事の
電話がかかってくることが多くて、
この日もかかってきたのですが、
手帳を持ち歩いていなかったので、
その辺の紙に適当にメモしたいちよさん。

「手帳を持ち歩きなさい。」
「そんな紙にかいたらすぐ無くします。」
「あせらないで、ひとつひとつ終らせなさい」
「ゆっくりしゃべったほうがいいよ。」

ご友人に指摘されていました。

いちよさんは深ーくうなずいて
「そうだよねぇ。わかった!そうする!
きをつけよっ!」と気を引き締めていました。

どこかで聞いたことあるな。と
思ったら、そういえば
前回来た時も全く同じことを
言われていたのを思い出しました。

あの時も車の中で電話来たんだった。


その時も「そうだよねぇ。わかった!そうする!
きをつけよっ!」と言っていました。

そして、今日は
つなかんに電話を置いて
でかけていきました。。。




「馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、
水を飲ませることはできない。」
ってことばを思い出しました。


次回は同じクダリを繰り返えさずにいられるでしょうか。
また、いらっしゃるのを楽しみにしています!



いろんな人がいるなぁ。

2015-09-23 23:58:51 | 唐桑日記
震災があった2011年。
その時から東北へ定期的に
来ている方が沢山います。

企業だったり、個人だったり。
何かをしに来ている人も入れば
のんびりしに来る人もいるし、
「お金使いに来たんだから
美味しいもの沢山だしてね」って
人もいる。

いろんな人がいるなぁ。
いろんな場所を巡っている人もいるし、
仲良くなった人がいて
同じ場所に通っている人もいる。

同じ場所に通っている人でも
「ちょっと気仙沼に行ってみよう」と
つなかんに泊まって、次の日は岩手に北上。
そういう人もいる。

初めてつなかんに来た、
夫婦のお客さん。
九州から車で来てくれた。
2011年の3月12日に
震災のニュースを見て。
陸前高田の中継で写っていた人が
「助けが必要です」と
訴えていたのを聞いて、
「じゃあ、ちょっと行って来る」と
1人で支援物資を抱え
50ccのバイクにまたがった
定年を迎えたお父さん。

「どこに行くの?」

「陸前高田」

「そのカブで?」

「そう」
って出発しようとしたら
支援物資が多すぎて転んだんだって。
「あんたそんなんじゃたどりつかないわよ」
そう言われて結局、自動車で陸前高田に向かった
お父さん。それから結局
40日間帰ってこなかったんだって。

「まだ帰って来ないの?」
帰ってこない夫に電話をすると

「まだ帰れない。」と
切られて。

40日たってるのに「まだ帰れない」って
そんなことあるの!?
「絶対、女ができたんだ!!」って
心配になったお母さん。
箱入り娘のお母さんは
いてもたってもいられなくなり。
産まれてはじめて自分で
飛行機と新幹線チケットをとって
はじめてのひとり旅(旅というのか?)が
お父さんに女の影がある被災地。

ドキドキしながら東北に向かった。
お父さんに新幹線の駅まで迎えに来てもらい
滞在していた陸前高田に到着。

その時に女の影を疑ったことを
お父さんと東北の人に
申し訳ないなぁと思ったそうだ。
「こんな状況でそんなことを
思うんじゃなかった。」と。

九州のテレビで得る情報とは
全くちがった景色がそこにあった。


お母さんもお父さんと一緒に
同じ場所で同じ景色をみて、
仮設に住んでる現地の方と関わりを持つ。


仮設に住む老人が自殺したニュースが
流れるような時期で、
お母さんは思ったことがあって。

「今さぁ、みんな仮設に住んでて
広い居間もないし。お茶したり
なんとなく集まれる場所が
ないのが寂しいね。」とお父さんに
話したら
「俺も全く同じことを思ってた。」と
お父さんが同じ気持ちでいたことが
お母さんは嬉しかったんだって。

「生き延びたのに自ら命を断つのは
あまりに寂しいから。」

その後、その夫婦は
現地でコミュニティスペースの
運営に関わって、今でも
(今はその場所の役目は終えて
現地のカルチャースクールなどを
行う場所になっている。)
年に2〜3会は東北に通って、
仮設にボランティアをしに来ているそうだ。



「こんな状況でじぶんにできることなんてない。」
お父さんを追いかけて東北に着いた時、
まずお母さんが感じたことはそんなことだった。
あれから4年。今でも楽しそうに通ってくれている。