・これから、過去の話がでてくる。それは、ここに住んで慰霊碑を管理している方が参拝に来た当事者やその家族から、
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そして、彼の亡くなったお兄さんが聞いた話をまとめて教えてくれたもの。
箇条書きで書きました。
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・モンゴル語だったけれど、通訳の仕事をしている友だちにその場で通訳してもらった。
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・数字などは、北大HP内の論文と照らし合わせました。当時の情景や描写は、口頭伝承で伝わって来たことだと思って読んでください。
・ここは2001年にできた。
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・戦後亡くなった方の慰霊碑にしては、最近だなと思った。聞くと、1993年までは社会主義だったので、来たくてもこれなかった。
・民主化ののち、94年から遺骨、遺品収集が開始、99年に完了。
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(掘り起こした遺骨を、改めて火葬する様子)
・それから、慰霊碑の計画、建設をモンゴル政府と話し合いを進め、ようやく2001年に完成した。
・ここに慰霊されているのは1945〜47年の2年間で亡くなった方々の魂。
・戦時中に亡くなった方のものではない。
・戦後、60万人いたと言われるシベリアにいた捕虜のうち、12000人がモンゴルに来た。
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(わかりずらいですが、当時ここにいた方の遺品から出てきたスケッチ。)
・派遣された理由は、社会主義国家のなかで、インフラ整備が著しく進んでいなかったので、整備のための労働力として来たと考えられている。
・10月にロシアを出発し、モンゴルに着いたのが2月。真冬は-40度にもなる世界を歩いて来た。
・それは、当時16歳だったタムラさんは着いた時に、モンゴル人が迎え入れてくれて、つくってくれた、羊肉のスープが、あたたかくてあたたかくて、しあわせだったそうだ。
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・はじめは洞窟みたいなところで暮らしていたが、モンゴル人がゲルを作ってくれた。
・僕は着いてすぐに「あ、この丸い建物の感じと屋根が空いている感じは、ゲルだ」と思った。
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・そうしたら、本当にゲルのオマージュだった。ゲルでの生活が快適だったから、つくってくれたモンゴル人への敬意を表してこの形にしたそうだ。
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・5〜6月は太陽の位置が丁度この上を通り、その光が地面に差し込むと「日の丸」のようになる。
・ゆえ、政治家など、オフィシャルな参拝はその時期が多い。
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・遺族会の方など、季節ごとにいらっしゃっている。
・12000人の日本人は名簿で把握できる能力により、全国に移動した。そのため、モンゴル国内に16箇所の日本人墓地があった。
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(現在は、このダンバダルジャーに16箇所の土を一緒に置いてある)
・12000人の名簿をしっかりつくってくれていた。そして、慰霊碑ができてからは、その名簿を遺族が読めるようにと、日本語に翻訳したものも作成してくれている。
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・参拝に帰ってくる日本人たちはモンゴルに対しては「負」の感情はない。それよりも、あたたかいスープを出してくれたり、政府にばれないように。
キャンプ地にこっそりとヨーグルトを固めたようなお菓子の袋を放り投げてくれたりしてくれたことの方が記憶に残っている。
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・強制労働ではあったが「同じ人間」として、扱ってくれたという感謝の気持ちが強い。
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・ここでの強制労働を強いたのはモンゴルが決めたことではないし、モンゴル人が捕虜とし捕まえたわけではない。他の国では、墓も名簿の無いまま、捕虜の生存確認もままならなかったことを考えると、モンゴルの対応は、よいものだった。
・参拝に来られた方も、国や人に対しては負の気持ちできているわけではない。仲間たちや、家族にあうように、ここに来ているそうだ。
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・これは47年、日本に帰国する際に、日本人が建てたもの。日本語は禁止だったため、文字も文法も見よう見まねのまま、この記念碑を建てて帰った。モンゴル語のようだけど今は通じないそうだ。
・47年に帰国する時、生存確認が取れない行方不明者が6人いた。そのうち4人は日本人ということを、隠して。モンゴル人のコミュニティで暮らし、結婚もしていたことが、後から判明した。
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・彼らは、日本人だと悟られないように、はじめはことばを話せない人を装って、遊牧民の生活に溶け込み、働き、そして、結婚もした。
・信頼関係ができるなかで、徐々に遊牧民に、出生を明かす。
・それでも、彼らは、受け入れてくれた。
・いよいよ、パスポート、戸籍作りをしなくてはいけない時になっても、遊牧民の家族がモンゴルの名前をくれて、書類を作ってくれた。
・その4人は、民主化された時、日本の家族に連絡をとり、日本にも帰国したが、死ぬまで「モンゴル人」として一生を過ごした。そのお孫さんたちと、日本人家族とは今でも交流がかるそうです。
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・1966年、民主化しない時期にはじめて日本人が戻ってこれた。その記念碑がこれ。
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・モンゴルに安らかに眠ってください。諸士よ、日本は見事に復興しました。
なぜその時期にこれたかは、不明。負けてから20年が経ち、日本は復興したことを伝えに来た
・戦時中、この場所で過ごしていた方も訪れてはいたが、徐々に他界していった。去年は93年から毎年来ていたひとが、唯一ひとりだけ来ていた。
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「それでも、来年は来られないかもしれないなぁ、、、」と話していたのが、現実となり今年はいらっしゃらなかった。
以上が、ダンバダルジャーで暮らし、慰霊碑の管理をされている方から聞いたお話です。
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何枚か当時のスケッチを見ました。とても上手なスケッチでした。絵が上手い人も料理が好きな人も、色んな人がいたんだなと、その体温を少しだけ感じられた気がします。
ありがとうございました。
安らかにお眠りください。