ラジオ放送で、関西方の喜多流による「龍田」を聴く。
川面に散り敷かれた紅葉のごとく古歌を散りばめた清廉な女神の舞曲にて、かうした物語性より風情に重きをおいた曲は、謠ひ手の人選にも重きをおかないと、せっかくの紅葉も全て川流れになってしまふ。

洋樂は門外漢ゆゑ知らぬが、“純邦樂”について云へば、ラジオ放送だからと云って演者も卓越した技藝者たちを揃へたかと云ふと、明らかにさうでもない場合がある。
ヒドイのになると、放送事故相當なのもあったりする!
その善し惡しを見極めるには、他人(ひと)の評価(はなし)以上に、自らの耳目、足による“武者修行”が肝要であり、それが最高の“免疫”となることを、かういふ時に實感して「アブナイ、アブナイ……」と、安堵させられる。