
長崎、天草地方の“隠れキリシタン”関連の遺跡が、世界遺産に登録されたと云ふ。
その子孫たちが喜びを語りつつ、「これからも静かに形態を守っていく」と述べてゐるところに、数百年にわたる「潜伏」から会得したものであらう、信仰の矜持を見る。
さりながら。
隠れキリシタンの集落のほか、“島原の乱”の舞台となった原城の跡、大浦天主堂などが世界遺産に登録されたとなると、それらがたちまち観光資源に利用され、有象無象が押し寄せ、静かなるを願ふ信仰形態が、しばらくはさうも言っていられなくなるであらうことは、容易に想像できる。
実際、
「(隠れキリシタンの里について)調べてみたら、交通の便が悪いやうだ……」
と、さっそく物見遊山するつもりでゐるのがボヤいてゐる。
文化遺産とは、それをこれからもその姿のまま永く守っていくべきもので、当座の金儲けの道具などとは、根本から意義が違ふはずだ。
にもかかはらず、何の考えも無い輩がいとも容易(たやす)く乗せられて、カメラを手に手に押し寄せ押しかけ踏み荒らしていく様は、全く衆愚の極みである。
いまや『世界遺産』と聞くと、
観光客誘致の方便にしか聞こえてこないのは、
困ったことだ。
その子孫たちが喜びを語りつつ、「これからも静かに形態を守っていく」と述べてゐるところに、数百年にわたる「潜伏」から会得したものであらう、信仰の矜持を見る。
さりながら。
隠れキリシタンの集落のほか、“島原の乱”の舞台となった原城の跡、大浦天主堂などが世界遺産に登録されたとなると、それらがたちまち観光資源に利用され、有象無象が押し寄せ、静かなるを願ふ信仰形態が、しばらくはさうも言っていられなくなるであらうことは、容易に想像できる。
実際、
「(隠れキリシタンの里について)調べてみたら、交通の便が悪いやうだ……」
と、さっそく物見遊山するつもりでゐるのがボヤいてゐる。
文化遺産とは、それをこれからもその姿のまま永く守っていくべきもので、当座の金儲けの道具などとは、根本から意義が違ふはずだ。
にもかかはらず、何の考えも無い輩がいとも容易(たやす)く乗せられて、カメラを手に手に押し寄せ押しかけ踏み荒らしていく様は、全く衆愚の極みである。
いまや『世界遺産』と聞くと、
観光客誘致の方便にしか聞こえてこないのは、
困ったことだ。