
古河宿より約3㎞、わずか40分程で次の野木宿に到着。
もともと、ここより南西にある野木神社周辺に住んでいた住民が、次第に街道沿いに移り住むようになって誕生した集落で、その結果慶長7年(1602年)に、宿場として成立。
上段写真左手が、かつての本陣。現在も子孫の方が住んでおられます。
またこの界隈は、日光道中が整備されて間もない江戸初期に、時の古河藩主が植えた松並木が続いていたそうですが、それも今は昔。
旧本陣より10分ほど行った交差点にはかつて一里塚がありましたが、やはりそれも今は昔で、跡地の道端に小さな標識が立つのみ。
これより先は、国道4号線の歩道をひたすら歩くことに。
1時間10分後、小山市乙女3丁目、

写真↑右手の二階家の手前には、江戸から十八里目の一里塚があり、日光からも十八里目で、日光道中全行程のちょうど中間地点に当たることから“間(あい)の榎”と呼ばれていましたが、いつしか“逢いの榎”とも呼ばれるようになり、縁結びの榎として人々の信仰を集めていたとか。
ちょうど、中山道板橋宿の“縁切り榎”の真逆。
しかし、榎はその後枯死したのか現存しておらず、跡を伝える標識には、在りし日の写真が掲載されています。

もし現存していたら、今頃はさらに“愛の榎”とも呼ばれて、ちょっとしたデートスポットになっていたことでしょう。
もともと、ここより南西にある野木神社周辺に住んでいた住民が、次第に街道沿いに移り住むようになって誕生した集落で、その結果慶長7年(1602年)に、宿場として成立。
上段写真左手が、かつての本陣。現在も子孫の方が住んでおられます。
またこの界隈は、日光道中が整備されて間もない江戸初期に、時の古河藩主が植えた松並木が続いていたそうですが、それも今は昔。
旧本陣より10分ほど行った交差点にはかつて一里塚がありましたが、やはりそれも今は昔で、跡地の道端に小さな標識が立つのみ。
これより先は、国道4号線の歩道をひたすら歩くことに。
1時間10分後、小山市乙女3丁目、

写真↑右手の二階家の手前には、江戸から十八里目の一里塚があり、日光からも十八里目で、日光道中全行程のちょうど中間地点に当たることから“間(あい)の榎”と呼ばれていましたが、いつしか“逢いの榎”とも呼ばれるようになり、縁結びの榎として人々の信仰を集めていたとか。
ちょうど、中山道板橋宿の“縁切り榎”の真逆。
しかし、榎はその後枯死したのか現存しておらず、跡を伝える標識には、在りし日の写真が掲載されています。

もし現存していたら、今頃はさらに“愛の榎”とも呼ばれて、ちょっとしたデートスポットになっていたことでしょう。