
ラジオ放送で觀世流の「俊寛」を聴く。
素謠とあって、普段の放送ではワキもシテ方がそのまま謠ふが、今回は下掛寶生流から出演があり、その明瞭な聲質に「ああ、能だなぁ……」としみじみする。
數年前に國立能樂堂公演で観た金春流の名手による「俊寛」は、沖へ去って行く赦免船の艫綱に何度も縋り付こうとする姿に、この僧がなぜ絶海の孤島に独り残されることになったのか、その本當の理由をはっきりと悟らせる名演であった。
また「俊寛」と云へば、いまや跡形もない吉祥寺の前進座劇場で観た、前進座歌舞伎のそれも貴重な思ひ出だ。
前進座の歌舞伎がそれらしさを保ってゐたほとんど最後の時代の舞台であり、あれは観ておいて良かったと思ふ。
残りの放送時間には、「賀茂」のキリが謠はれる。
實際の舞台では、後シテが雷鳴を足拍子で表現するいかにも能らしい型があり、私も過去に仕舞でつとめたことがある。

この時はもともと他の曲を希望してゐたが、諸々の事情で他の希望者に譲らされる形となり、その代はりとしてこの難しい曲をつとめることになった、愉快とは云へない思ひ出がある。
しかし、かうした経験が下地としてあるからこそ、自分がやりたいことを自由に表現するための「現代手猿樂」を立ち上げる閃きに至ったのだから、禍を転じてナントカではある……。