ラジオ放送で、能樂の樂器と、謠ひとの“一騎打ち”を聴く。
鼓、または太鼓(締太鼓)と謠のみで一曲のサワリを奏する形態を「一調」と云ひ、シテ方の謠と囃子方の樂器とが、日頃鍛練の技量をその一曲のなかでぶつけ合ふもので、“合奏”と云った仲良しこよしでないところが、ほかの音樂とは違ふ點か。
聴衆は舞薹上における能樂師の、さうした真剣の妙を味はふ──
のが、一調の樂しみのやうだが、見物人のはうにも謠ひや鼓の真剣な素養がなければおよそ難解な神技だらうと、このテの演奏がどうもピンと来ない立場からは思ふ。
能樂のそれではないが、大昔に小鼓と太鼓(締太鼓)を實際に鳴らしたことがある。
太鼓のはうはついに関心を持てなかったが、小鼓のはうはそれなりに音を出せたこともあってか、それなりに覺えて、現在も少し記憶してゐる。
その感覺が現在の創作で“目安”などになって、私を助けてくれてゐる。
せっかく覺えたのにそのまま記憶の底に眠らせて終はるより、立場と環境が變はってもそれを生かしてゐるはうが、よほ
ど自身の生きる幅になると云ふものではないか。