
現道の国道122号線に入ると芝川を渡り、川口宿に吸収合併されるまではこちらが本家の宿場町だったと云う元郷を過ぎ、その先の「十二月田」を“しわすだ”と読むことを知って(十二月=師走ということなのかな…?)、「へぇ~」と一つお勉強。
新芝川を渡り、鳩ヶ谷市三ッ和1丁目の変電所前信号先のY字路を右に入って歩くこと10分、第二産業道路との交差点を渡った先が、鳩ヶ谷宿の“下宿”入口(上段写真)。
現在は遺構のみの「とんぼ橋」の東側を起点に、日光道中の千住宿までを結ぶ「千住道」、同じく西側を起点に中山道の蕨宿までを結ぶ「蕨道」を見ながら過ぎ、毛長川に架かる昭和橋を渡ってその両袂にあったと云う一里塚(跡)から坂を上ると、本陣があった中宿に(↓右手の白い建物が本陣跡)。

宿場の中心部だった中宿は現在“本町商店街”となり、今も町の中心としての役割を果たしています。
下段写真は、まだ江戸時代の宿場町の風景がそのまま残っていた明治中頃に撮影された、中宿の様子。

旧鳩ヶ谷宿には、このような明治期に撮影された貴重な写真を掲載した標識が要所要所に立てられていて―全部紹介できないのが残念!―、そんな鳩ヶ谷市の配慮に、心から感謝です。
新芝川を渡り、鳩ヶ谷市三ッ和1丁目の変電所前信号先のY字路を右に入って歩くこと10分、第二産業道路との交差点を渡った先が、鳩ヶ谷宿の“下宿”入口(上段写真)。
現在は遺構のみの「とんぼ橋」の東側を起点に、日光道中の千住宿までを結ぶ「千住道」、同じく西側を起点に中山道の蕨宿までを結ぶ「蕨道」を見ながら過ぎ、毛長川に架かる昭和橋を渡ってその両袂にあったと云う一里塚(跡)から坂を上ると、本陣があった中宿に(↓右手の白い建物が本陣跡)。

宿場の中心部だった中宿は現在“本町商店街”となり、今も町の中心としての役割を果たしています。
下段写真は、まだ江戸時代の宿場町の風景がそのまま残っていた明治中頃に撮影された、中宿の様子。

旧鳩ヶ谷宿には、このような明治期に撮影された貴重な写真を掲載した標識が要所要所に立てられていて―全部紹介できないのが残念!―、そんな鳩ヶ谷市の配慮に、心から感謝です。