◆ こちらからのづづきです。
▽ 書 斎
▽ 食 堂
▽ 台 所
1878 (M11) 年竣工の新島旧邸は
外観がコロニアル様式と言われる洋風なので
洋館のような印象を受けます。
ところが、内部を見てみると
書斎や食堂の写真から分かるように
柱を壁の内側に囲う西洋風の大壁造りではなく
柱を露出させた真壁造りとなっています。
(写真では床が畳のように見えますがフローリングの保護のため
上敷きが敷かれているためです。)
したがって和洋折衷というより
日本の伝統的な建築様式を基本として
そこに洋風なものを取り入れたという形です。
高温多湿な日本では
どうしても夏を快適にすることを重視して
冬の快適さは犠牲にされがちなのですが
ここでは1階中央に簡易な暖炉を設置し
煙突からの余熱で1階、2階の全体を温めるという
セントラルヒーティング式の暖房が取り入れられて
冬期の快適な居住空間を実現しています。
また、当時は土間が普通だった台所も
現在のキッチンと同じように
床が張られた部屋に流しを置き
角に井戸も設置されていて
冬の足元からの寒さから解放しています。
トイレは当時としては珍しい腰掛式の洋風
2階(2階は見学対象になっていません。)の寝室にはベッドと
基本的には洋風な生活スタイルだったのでしょうが
当初は居間だった日当たりのよい南東の部屋を
夫の新島襄の死後に八重が茶室に改造しています。
このことから
八重の生活スタイルに
会津時代の和風への回帰があったと見られているようです。
(この旧邸には1832年永眠するまで住み続けました。)
なお、八重は夫と死別したのち
日本赤十字社の正会員となり
看護師として輝かしい功績を残したのですが
その活躍については旧邸に隣接した新島会館の展示室で
確認することができます。
(実際の見学時には、まずこの展示室から案内されます。)
八重の暮らした旧邸から
その生活ぶりを垣間みようという趣旨で記事にしたのですが
八重の生涯について興味のある方は
こちらの同志社女子大のHPを御覧になるといいと思います。
(完)
▽ 食 堂
▽ 台 所
1878 (M11) 年竣工の新島旧邸は
外観がコロニアル様式と言われる洋風なので
洋館のような印象を受けます。
ところが、内部を見てみると
書斎や食堂の写真から分かるように
柱を壁の内側に囲う西洋風の大壁造りではなく
柱を露出させた真壁造りとなっています。
(写真では床が畳のように見えますがフローリングの保護のため
上敷きが敷かれているためです。)
したがって和洋折衷というより
日本の伝統的な建築様式を基本として
そこに洋風なものを取り入れたという形です。
高温多湿な日本では
どうしても夏を快適にすることを重視して
冬の快適さは犠牲にされがちなのですが
ここでは1階中央に簡易な暖炉を設置し
煙突からの余熱で1階、2階の全体を温めるという
セントラルヒーティング式の暖房が取り入れられて
冬期の快適な居住空間を実現しています。
また、当時は土間が普通だった台所も
現在のキッチンと同じように
床が張られた部屋に流しを置き
角に井戸も設置されていて
冬の足元からの寒さから解放しています。
トイレは当時としては珍しい腰掛式の洋風
2階(2階は見学対象になっていません。)の寝室にはベッドと
基本的には洋風な生活スタイルだったのでしょうが
当初は居間だった日当たりのよい南東の部屋を
夫の新島襄の死後に八重が茶室に改造しています。
このことから
八重の生活スタイルに
会津時代の和風への回帰があったと見られているようです。
(この旧邸には1832年永眠するまで住み続けました。)
なお、八重は夫と死別したのち
日本赤十字社の正会員となり
看護師として輝かしい功績を残したのですが
その活躍については旧邸に隣接した新島会館の展示室で
確認することができます。
(実際の見学時には、まずこの展示室から案内されます。)
八重の暮らした旧邸から
その生活ぶりを垣間みようという趣旨で記事にしたのですが
八重の生涯について興味のある方は
こちらの同志社女子大のHPを御覧になるといいと思います。
(完)
ありがとう。八重のその後が気になっていたのですが、
同志社女子大のHPよみました。新島襄の「彼女は決して美人ではありません。しかし私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人(ハンサム・ウーマン)だということです。私にはそれで充分です。」という言葉が印象的でした。