私は…国語の教員である…
だからして…愛媛、松山にきたら興味があるものと言えば
「道後温泉」よりも…「道後温泉」よりも…「道後温泉」よりも…
「道後ビール」よりも…「道後ビール」よりも…「道後ビール」よりも…
「鯛めし」よりも…「鯛めし」よりも…「鯛めし」よりも…
「柿くえば 鐘が鳴るなり法隆寺」
の
俳人、正岡子規でしょう…
…ってことで
道後公園内にある
「松山市立子規記念博物館」
短歌の石碑もありまして…
「足なへの病いゆてふ伊予の湯に飛びても行かな鷺にあらませば」
「足が萎えて歩行が自由にならない病気が治る、と昔からいい伝えられている故郷の道後温泉に飛んで行きたいものだ もしも自分が鷺だったなら…」の意
その「子規」という俳号は鳥のホトトギスのこと。ホトトギスは口の中が赤いため「血を吐いて鳴く」と言われていて、結核に冒され喀血していた自分をホトトギスと重ね合わせたよう
「子規」を「死期」とも重ね合わせたのかも知れないなあ…とは、勝手な私の妄想
入り口にいてる正岡子規
結核に冒され、療養生活の中で多くの句を発表しつつ、1902年、34歳という若さでこの世を去った正岡子規
元気なころは、野球が大好きであったようで
正岡子規は2002年、野球殿堂入りをしてるらしいんだな
…というのは、子規は英語のベースボール用語を日本語に訳していて、「打者」「走者」「直球」「飛球」などは今でも使われている言葉…
これらを、正岡子規が訳したんだって…へー!!…知らんかった!!
さらに「アウトを除外」と訳したようだけど、これは、今となっては「除外」されてますけど…
ちなみに「しきゅうしき」は「子規ゅう子規」とは言いません!!
念のため!!
ベースボールを「野球」と訳したのは鹿児島出身の一高野球部監督の中馬庚さんですが、子規は幼名の升(のぼる)という名前にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたりしてたそうな…
なので、この顔ハメパネルの「のぼさん」とは正岡子規のこと
…けして熱めの道後温泉に浸って「のぼさん!」と言ってる訳ではありません!!
「子規」ならぬ「しっきー」
飛騨春慶塗とか山中塗とか…
それ、「しっき(漆器)」やがな…
そんな「しっきー」と、松尾ドショウとのツーショット
平ぺったい柳原極堂さんが、呆れてますなあ…
あ、柳原極堂さんって誰やねん!!と思われてる方も多いと思われるので、簡単に紹介しとくと、愛媛松山の俳人、正岡子規と親交を深めていた正岡子規の1年後輩にあたる方のようで…
ではでは、早速館内へと
実は、館内の展示品の数々は
この常設展エリアも撮影禁止でして
子規ならぬ「士気(しき)」は、ダダさがりなんですが…
だって、写真を掲載しながら紹介していくと、書きやすいやん!!
なので、まあ、私の記憶を信じて、だらだら書き綴ることにしようと
まずは、愛媛県の歴史から神話の世界から、松山や道後温泉の発展など
全然、正岡子規とは関係のなさそうな展示品の数々
まるで、松山市道後の民俗資料館の様相
展示品の説明は、お堅く…やや難しく。きわめて真面目
オヤジギャグなんぞの遊びの要素は、全く感じられません!!
古事記の国産み神話によると、日本列島において淡路島の次につくられたのが伊予之二名島(四国)
その四国は2組の男女に喩えられていて、伊予国は愛比売(エヒメ)、讃岐国は飯依比古(イイヨリヒコ)、阿波国は大宜都比売(オオゲツヒメ)、土佐国は健依別(タケヨリワケ)と名付けられていたそうな…
正岡子規とは関係なさそうだけど、勉強になったぞ!!
その後は、正岡子規ヒストリー
まさに、正岡子規が生まれてから34歳で亡くなるまでの生涯をさまざまな資料、ジオラマ、映像などとともに…
正岡子規は、1867年に松山藩に仕える武士の家系に生まれたそうな…
16歳にして上京…文学へ興味を深め、文人としての道を進んで行き、同窓生には夏目漱石も…
ロビーには平ぺったい夏目漱石もおりました!!
その後、硬派な新聞社である「日本新聞社」にて新聞記者となり、連載を通して俳句の革新運動を開始するも、日清戦争が勃発すると従軍記者として遼東半島へ…
その従軍記者として戦地に派遣されていたときのカバンも展示されていました!
戦地に赴いた後、子規は現地から日本へ戻る船の中で喀血する…
病気の療養のため、子規は東京に戻らず、生まれ故郷の松山に一度帰ることに…そこで再会したのが、松山で教鞭をとっていた親友の夏目漱石だったそうな…
さてさて、館内で写真OKのエリアが一つありまして…
そこには夏目漱石の住んでいた家屋「愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」の復元展示が…
松山へと帰郷した正岡子規は漱石とは旧知の仲であったことから、漱石の家に居候…療養しながらも52日間、連日句会を開きながら漱石と一緒に過ごし、ともに句を詠んでいたそう…
そのときに詠んだと思われる句碑
愚陀仏庵は中に入ることができて、その2階から夏目漱石の声が聞こえてきたような…
私、夏目漱石の声を聴いたことはないので、座敷童子だったかも???…笑
かつては復元されたものが「萬翠荘」の敷地内に建てられていましたが、そちらは土砂災害によって倒壊してしまったようで
晩年は、結核を患いながら布団から起き上がることすらできなくなっても療養生活の中で多くの句を発表…
寝たきりで執筆した随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」の原稿も展示
「病牀六尺」については彼が亡くなる2日前まで、当時の新聞に掲載されていたとのこと…
正岡子規の生涯が、生きざまがよーくわかった、この記念館
正岡子規をリスペクトしつつ
ここで、私こと、松尾ドショウも一句、詠むことにしよう!!
「松山で 子規を感じて 四季感じ」
しまった!!季語を忘れたー!!
季語を忘れても、士気(しき)を高めて「なんのこれしきー!!」…笑
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