あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

屠殺場で足を止め涙を流した老僧

2019-02-06 18:48:44 | 人類の苦痛の根源

屠殺場で足を止め涙を流した老僧 そのわけは?

以下、転載です。

 追記:どうやら「とさつ」という漢字の言葉のすべてが勝手に抜かれてしまっています。(ブログのプレビュー時では反映されているのですが…)
このお話は以下のサイトにも転載されています。

 

ある老僧が屠殺場を通りかかった際、涙が流れるのを禁じえず、深い哀しみを覚えた。

人々はとても不思議に思い、なぜ哀しんでいるのか、老僧に尋ねた。

 すると、老僧は次のような話を始めた。

 「話せば長くなるのですが、私は、自分の二つ前の前世まで記憶しています。

私が初めて人に転生した際は屠殺人で、三十過ぎで死にました。

死後、その魂は、数人に縛り上げられ、閻魔大王の前に連れて行かれました。

閻魔大王は、私の殺生が過ぎたのを責めたて、悪の報いをもって判じました。

 そのときの私は、恍惚朦朧としており、醒めているような夢の中にいるような、頭部が熱くてたまらなかったのですが、突然一陣の涼しさを覚え、気がついてみると、豚小屋の中の子豚に生まれ変わっていました。

 私は乳離れしてわかったのですが、人は豚たちに見るからに汚い餌を与えているのです。

ただ、とてもお腹が減っていたので、私はやむなくその餌を食べました。

その後、私は次第に豚語を解するようになり、仲間とおしゃべりができるようになりました。

前世のことを憶えている仲間もたくさんいましたが、人に説明する術がありませんでした。

私たちは皆、いつかは屠殺されることを知っていました。

それゆえ、いつも呻き声を挙げ、将来を憂えていたのです。

私たちの目と睫毛は、常に涙で濡れていましたが、それは、自分たちの運命を知っていたからです。

 私たちはまるまると肥えていたので、夏の暑さには耐えがたく、泥水の中に身体を浸けては、いくばくの涼しさを覚えていました。

わたしたちの毛は、まばらで硬く、冬になると寒さに耐え切れませんでした。

そして、十分な大きさまで肥えると屠殺されるのです。

人に捕まえられると逃げられない、と内心分かっていても、命が惜しくて逃げようとするのです。

捕まえられると、私たちの四肢は紐で縛り上げられますが、紐がきつくて骨身に滲みるようで、鋸で切られているようでした。

それから、私たちは、車か船に折り重なるように載せられます。

肋骨は折れそうになり、百脈は塞がり、腹は裂けそうです。

 時には、竹ざおに吊るして運ばれるのですが、犯人が挟み上げの刑に処せられるよりも辛いものでした。

屠殺場に着くと、屠殺人によって地面に放り投げられます。

あるものはすぐに屠殺されるのですが、あるものは数日間待たされます。

そのときの心理的苦しみは、もっと耐えがたいものがあります。

 自分が屠殺される番になると、屠殺人が曳いていきます。

私は怖くて頭がくらくらし、全身から力が抜け、目を閉じて死を待つほか仕方ありませんでした。

屠殺人はまず、私の喉を切り裂き、体を揺すって血をバケツの中に入れました。

そのときの苦しみは、ことばで言い表すことのできるようなものではなく、死ぬにも死に切れず、ただ咆えるばかりでした。

血が全部出されると、今度は心臓を一突きされます。

この痛みは耐え難く、この段になって咆哮が止まります。

この時、魂が解放され、再び覚醒したかと思うと、すでに人として転生していました。

閻魔大王は、私がその前世でわずかながら善行をしたことを知っていたので、人に転生させてくれたのです。

 今しがた私は、この豚が殺される苦しみを受けているのを目にして、思わず自らが前世で受けた苦しみを思い出しました。

それに、こちらの屠殺人も同じような苦しみを味わうことになるのだと考えると、涙が流れるのを禁じえなかったのです」。

 老僧のこの話を聞いた屠殺人は、すぐに屠殺包丁を捨てて、野菜売りに身を転じたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

【出典:清朝『閲微草堂筆記』巻十八、人民報より転載】

(2007年8月23日の記事を再掲載いたしました)

                                                                                                                                                                                                                                                                             (翻訳・甘樫)

 


わたしはこの話をとても愛しています。

それで、さっき想ったことなのですが、わたしはこんなことを想いました。

わたしたち魂はみんな、同時に違う生命の魂であるかもしれない。

今、わたしは人間の魂だが、同時に家畜の牛や馬や豚や鶏や魚の魂であるかもしれない。

つまり、同時点に、同じ世界、同じ時間、同じこの星の中にわたしの魂は幾つも存在している。

そしてそれらのすべてが、それぞれ違う体験をして生きている。

それは今、わたしが体験しているすべてであるので、過去と未来が存在しない。

その豚は、もしかしたらわたしにこう言うかもしれない。

「わたしはあなたの過去であり、そして未来なのです。」

わたしはその言葉を、「今、あなたはわたしであり、わたしはあなたなのです。」と捉えるだろう。

わたしは今、すべてを体験している。

そうでなければ、何故こんなにいつも、悲しく苦しいのだろう。

わたしはわたしだけのことについて憂える術を喪った。

それは、第一の目覚めである。

生まれたばかりの赤ん坊が、目を開ける、あの瞬間である。

そして目に映るすべて、それはわたしの経験しているすべてであり、目に映らないすべて、それはわたしの別のわたしの魂が経験しているすべてだ。

わたしは彼を知らないが、彼を知っている。

わたしは自分を知らないが、わたしはわたしを知っている。

わたしはとにかく、自分を救うことに必死で、わたしは自分以外の者を知らない。

自分以外のもの、それはどこにも存在しないのである。

 

 

 

 

 

 

 追記:どうやら「とさつ」という漢字の言葉のすべてが勝手に抜かれてしまっています。(ブログのプレビュー時では反映されているのですが…)

このお話は以下のサイトにも転載されています。

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