『社会が貪り、動物を貪らせ、それ自体が不従順な子供たちを貪る(喰い尽す)のです。』
Pier Paolo Pasolini
荒野の男を演じたピエール・クレメンティとパゾリーニ監督
前回の記事の続きを書く。
パゾリーニ監督が『豚小屋』でぼくたちに伝えたかったこと。
ぼくたちは"貪り尽くす動物(不従順な子供たち)"だということ。
そして"貪り尽くされる動物(不従順な子供たち)"だということ。
そして"動物を貪り尽くす動物(不従順な子供たち)"だということ。
そしてそのすべては"隠されている"。
権力者たち、実業家、巨大産業で利益を上げる人たち、弱者を支配し、快楽に耽る人間たちによって。
資本主義(弱者を支配することを善とする主義)の悪と、それによって地獄に落ちて殺される犠牲者たちを監督は描きたかったのかも知れない。
犠牲者たちの清らかさ、みずからの罪を認める者の強さ、この美しさはみずからの罪を認めず、犠牲を拒む者の中にはない。
ぼくたちはほとんど大罪を犯し続けて生きてきたと言っていい。
でも同じ罪を犯していても、その罪に苦しみ続け、神の食べ物(生贄、犠牲)としてみずからを捧げようとする者は美しい。
ユリアンを演じたジャン=ピエール・レオ
パゾリーニ監督はそんな人間を描きたかったのかも知れない。
イエス・キリストに対する罪というものを、彼は考えてきた人なのかも知れない。
もしそうなら、それはぼくと同じだ。
ぼくはすべての人は同罪(同じ重さの罪)であるべきだと考えている。
いじめをする人間とそれを傍観して何もしない人間が同罪であるのと同じに。
すべての人が、必ず誰かの罪を傍観している。
すべての人が、必ず誰かの堪え難い苦しみを傍観している。
畜産業の大量生産は需要がある限り廃止されない。
売上が続くからこそ続いている最も酷い生産だ。
ぼくたちがそれを支えてきた。
家畜がどうやって日々殺され続けているのか、それを知る人は少ない。
それに関心を持つ人も少ない。
できれば見たくないとほとんどの人は想っている。
そして赤肉(牛や豚などの四肢動物)や加工肉には発ガン性物質があると国連が発表しようが、それに真剣に耳を傾ける人も驚くほど少ない。
ガンになってでも食べ続ける。
そしてガンになって苦しんで後悔して死んでゆく。
なかにはそれでもみずからの罪を認めようとしない人たちもたくさんいる。
消費者たちは、食肉や畜産物がどのように作られているかを知りたくない。
生産者たちは、食肉や畜産物がどのように作られているかを知らせたくない。
パゾリーニ監督の『豚小屋』という映画の最後の人物の姿が何故、豚の顔になっているのか?
彼は実業家であり、搾取し続ける立場にある人間だと言える。
搾取し続ける者、つまりぼくたちだ。
ぼくたちは動物(家畜)たちから肉も骨も内臓も乳も卵も毛も皮も搾取し続けてきた者たちだ。
人間の肉を貪り尽くす豚たちを見たなら、ぼくたちは何を想うのだろう?
おぞましい、不快なもの、気持ち悪い、吐き気を催す、"見たくないもの"。
豚のすべてを搾取し続けてきたぼくたちが、豚を貪り尽くしてきたぼくたちが、そう感じるのは、それは自分自身に対して感じていることじゃないのか。
リアルに想像するなら、本当におぞましいものだ。
ぼくだってそれを見たくはない。
でもまったく同じことをぼくはぼくが搾取してきた動物たちにしてきたんだ。
大量生産はスピードを上げるほど儲かる。
言うことを聞かない逃げ惑う動物たちを殴る、蹴る、電気ショックを与える、しっかりと気絶していない内から解体してゆく、気絶から目を覚ましても解体作業を続けることなんて日常茶飯事だ。
『それは秘密にしておくように』
誰もがそう自分自身に向かって言い続けて来た。
あまりにおぞましいことだから。
『隠され続ける』べきだと。
口に人差し指を当てて、『しーっ』と言った瞬間、自分の顔は豚になっているんだ。
豚とは何を表しているか?
そうだ、『喰われる(貪られる)者』、同時に『喰い尽す(貪り尽す)者』だ。
いつの日か不従順な子供たち(豚、家畜、動物)に喰われる者、そしていつの日か人間(不従順な子供たち)を喰い尽してしまう者、それが搾取し続ける者たちの運命、ぼくたちの辿る道。
豚が豚を喰ってきただって?
それじゃ共喰いじゃないか!
人が人を食べる行為に等しい。
その通り、人肉食をぼくらは何年と、何十年と、続けて来たんだ。
御覧、豚が殺されて首を落とされ、逆さに吊り上げられている姿を。
人間の姿とそっくりだ。
家畜たちは、危機を感じるととにかく逃げようとする。
生き延びようと彼らも必死なんだ。
苦しみたい、拷問を受けて殺されたいなんて想っている家畜はひとりもいないはずだ。
ではホロコーストで強制収容所へ送られた人たちはどうだっただろう?
苦しみたい、みずから拷問を受けて殺されたいなんて想って殺された人はいただろうか?
ぼくはみずから拷問を受けてその後に首を切られ、生きたまま解体されてゆく中に死んでゆく地獄を味わいたい人間だけが肉や畜産物を食べるべきだと想っている。
そこにある人間の狂気、それがパゾリーニ監督の撮った『豚小屋』という映画なんだ。
そこにある本物の狂気をパゾリーニ監督は悲しくも美しく撮った。
そしてこの狂気に及ばない者たちは、豚(家畜)たちだと言っているように想えてならない。
パゾリーニ監督は豚たちに埋め尽くされたこの悲しい世界をずっと見詰めてきたんだ。
そして自分はそうはなりたくないと想っていたはずだ。
だからあんな地獄の末に殺されて死んで行ったんじゃないか。
パゾリーニ監督は人間だったんだ。
自分の罪を認め、そのすべてに責任を持つ者、それが人間の本当の姿だ。
人間の在るべき姿。
その姿は、例え罪に穢れていても清らかで美しい。
でもほとんどの人間たちは、自分は豚(家畜)に拷問を与え殺し続けながら、自分はそんな目には合いたくはないなんて言ってる豚たちなんだ。
そして豚は豚に生まれ変わるはずだ。
豚(家畜)に生まれ変わりたくないのなら、自分の罪に向き合って欲しい。
毎日、彼らは、本当に堪え難い地獄の拷問の末に殺されている。
これは拷問処刑に等しい。
何の罪もないのに?
いや、それはわからないんだ。
身勝手な人間が家畜に生まれ変わる世界なのだとしたら、そこには罪があるからだ。
そして人間が人間を食べ続ける世界が出来上がっている。
人間が豚を食べる世界も、豚が人間を食べる世界も、豚が豚を食べる世界も、人が人を食べる世界も、実は同じなんだ。
同じことをしている。
家畜はとにかく肥らされる。
肉を多く取れるし脂肪の多い肉ほど人間に好まれるからだ。
その為、不自然な脂質の高い餌を大量に食べさせられている。
つまり全員、家畜はメタボで病気なんだ。
そして病気で死んだ豚や鶏は豚や鶏の餌になる。
病気で死ぬ前の病気の家畜は人間の餌になる。
病気の家畜の死体を必要以上に食べて、人間は病気の豚になる。
豚の完成だ。
豚は人間ではないので豚小屋に監禁され、地獄の末に死んでゆく。
そしてそれを嫌ほど繰り返し、漸く目が覚めるんだ。
豚はやめて、人間として生きようと。
豚は豚を食べなくちゃダメだし、食べさせられる。
人は人を食べなくても生きて行ける。
ぼくは人(家畜)を食べるのはやめた。
ぼくは散々人を食べてきた。
わたしは父を殺した。
わたしは人を喰らった。
そして、絶望の内に、わたしは死ぬだろう。
わたしを食べる者は、わたしが食べて来た者。
荒野の男の生まれ変わりが、ユリアンなんだ。
彼はどこまでも自分を赦すことができない。
それほど、最初に殺した父親のことを、愛していたからかもしれない。