昨夜に引き続き、目が醒めた瞬間から義憤の念に苦しめられている。
魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。という昨夜の記事に引き続きまして今日も”中絶問題”について感情を吐き出したいと想います。
まず、冷静に、何分に一人が今、中絶されているのかを計算してみたいと想います。
人工妊娠中絶の世界的現況――MDG 5の達成に向けて
1995年の中絶数4,600万件に対し、2003年は4,200万件に減少していた。
とありますがこれは闇に葬られてはいない数の計算でこれだけあるということです。
2016年にはどれだけあったかはわかりません。
過去1世紀で10億超、世界の中絶件数-米報告書
信頼できるデータが得られる100の国と地域を選び、1921年から2015年までに行われた中絶件数を合計したところ、10億1843万5000件と10億の大台を突破したことが判明した。
世界の国の数は196か国とかでその約半分の国の100年の中絶数の統計は10億1843万5000件ということですか。
2003年で中絶数は4,200万件
42000000÷365=115068
で合ってるでしょうか。一日に11万5千68人が中絶されているという計算になります。
一日は1440分なので、これを一分に何人かを計算してみます。
115068÷1440=79.9083333333 と出たので四捨五入で一分間に80人の中絶数というところでしょうか?
1分間は60秒なので、一秒間に1,3人が中絶されているという計算になります。
一秒間ですよ?一秒のあいだに、一人以上の尊い命が堕胎され続けていて、これも闇中絶合わせたら倍以上の数になっていてもおかしくありません。
1秒間に 牛3頭、豚5頭、 鶏1100羽分が食肉として殺害されています。とありますから、まるで胎児は家畜の如く殺されつづけているじゃないですか。
たとえ強姦や近親相姦などの望まざる妊娠、奇形や障害のある子だとわかっている場合や母体を護るための中絶であっても、中絶というもの自体、生きている人間を殺すということですから立派な殺人行為なのです。
知り合いに「実は俺は人を殺そうと想っている」と言う者があれば、「やめておけ」と言う人は多いはずです。
でも日本では娘が妊娠したらあらゆる理由から「中絶しなさい」と言う親が多いようです。
「おまえは殺人者になって生きていきなさい」ということです。
愛する娘に「おまえは殺人を行ないなさい」と殺人を薦める親が多いというのはほんとうにおかしな時代だと想います。
明日食べるものもあるかどうかわからないという飢餓の起きている国や時代ならまだしも、今の日本にはちゃんと孤児院で育てられて愛ある夫婦のもとに養子になって幸せに生きる子供がたくさんいる時代です。
何のために殺す必要があるというのでしょうか。
何のために、人を殺人者にさせる必要があるのでしょう。
母体を守るために、殺人者になることは仕方ないと言う周りの人間は、いつか必ず自分の行いは自分に返ってくるということは言わないのでしょうか。
なぜ幼稚園や小学校で、「人にされたくないことは自分も相手にしちゃいけない」と教えるのでしょうか。
何故その子供が自分のおもちゃを取られて友達を叩いたら、「そんなことしたらいけないよ」と教えるのでしょうか。
自分が苦しくても相手に危害を与えちゃいけないと教えてきた親や教師は成長した人間には「自分を守るために中絶したほうが良い」と言うのでしょうか。
自分を守るために相手を殺す、これは戦争の”正義”というものです。
でも多くの人は戦争は起きてほしくないと願っています。
自分(自国)を守るために人を殺し、国に帰ってきた帰還兵の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹って鬱病を発したり果ては自殺したりする人が多いのは、耐え切れないほどの罪悪感から自責に苛まれつづけて精神を病んでしまうからです。
中絶をした(させた)ことで苦しんで、自殺してしまった人も多くいるのではないかと想います。
むしろ殺してしまったことに自殺するほど自分を追い込んで苦しみ続けない人に対して、一種の薄ら寒さのようなものを感じるのはわたしだけではないと想います。
飼い猫が自分のせいで死んでしまったのだと自分を責めつづけて重い鬱病になってしまった人もいます。
殺すつもりはなくても殺してしまったのだと苦しんで生きる人は多いのです。
中絶に関わる人が、精神を病むほど苦しみつづけずに生きるというのは幸せなことではなくて、むしろ不幸なことなのではないでしょうか?
当たり前の話ですが、人は、生命は、生まれてこれたから生きていくことができるのです。
生んでくれた存在がいてくれたから、すべてが生きていられているのです。
母親が赤ちゃんを産みだすことは命懸けの行為です。
自分が死んででも赤ちゃんを産もうとすること、それが人間が人間を創造することです。
母親の命を懸けた決断によって、自分の存在というものがこの世に生まれて生きているのです。
感謝しつづけても感謝しきれないほどの感謝を喜びを知る子供なら母親に対してしつづけているはずです。
どんな子供でも、母の自分の命をなげうつ決意のおかげで生まれてくることができます。
命を産みだすこととは、自分の命を犠牲にしてでも経験したいほどの喜びだと母親はどこかでわかっているはずです。
それが本能として備わっている”母性”というものです。
母親に限らず、親のだいたいが自分の命をかけても子を護ろうとします。
なぜそういった本能が生命にもとからあるのでしょう。
それがなくなってしまうなら、種は絶えてしまいます。
誰一人、子を産まず中絶する時代が来るなら、人類は滅びてしまいます。
中絶できる自由というものも、この先、中絶が著しく増えるなら規制されてゆくはずです。
人類を滅ばせるわけにはいかないからです。
たくさんの母親が命をかけてでも赤ちゃんを産んでくれているから中絶することが合法とされているわけです。
合法にはならなくなる時代が来れば、中絶は殺人罪となります。
今では1人~3人殺せば死刑とされる時代です。
たった一人の中絶は、死刑に相当する罪なのです。
なぜ1秒間に少なくとも1人もの胎児が、この世に生まれてほんの少しの喜びを感じることも許されずに殺されつづけていかなくてはならないのでしょう。
飢餓や貧困が原因の途上国の中絶なら、日本でも減らしていくことができるはずです。
途上国の飢餓や水不足は先進国の肉食が関係しています。
1人1人の”殺人”というものが自分とは無関係のところに起きているわけではないということがわかるならもっと深刻に考えつづけていけるはずです。
ひとりひとりの”罪”というものは、自分とは関係のない”罪”ではないということです。
”罪”は呼び方を変えるなら”苦痛”と言えます。
たった一人の”苦痛”はすべての”苦痛”と密接に繋がっているということです。
これも人間だけではありません。生命すべてと言えます。
”生命の苦痛”、それは勿論まだ誕生していない胎児も立派な生命であり、一人の人間という存在です。
仏教では殺生の罪は阿鼻(あび)地獄 / 無間(むげん)地獄という地獄のなかでも最下層に位置する最も苦しい地獄に落ちるとされています。
”殺生”というと”生き物を殺すこと”ですから幅が広いですが、例えば極端な例ですが、相手が一匹の小さな虫であっても、その虫を殺したことでそれをなんとも想っていない人と、そのことを日々苦しみ自分を責めさいなみつづける者がいるのならば、前者は自分に重い罰を科してはおらず、一方後者は地獄とも想える罰を自ら科しつづけているというのが事実としてあるわけです。
殺生が、最も苦しい罰を受けることになるよ。と説くのは要は人間というものは殺生を最も苦しむ存在であるという多くの例によって説いているわけです。
さっきの例で、虫を胎児に変えてみましょう。
一人は中絶したことに平気で生きて安らかに死ぬかもしれません。でも一人は地獄のような道を死ぬまで歩んで、死んでも自分を赦さず無限に続くかのような地獄のなかでまた転生してくるかもしれません。
そしてこの前者も、死んで次に生まれた人生では前世の行いの罪を今度の人生ではうんと苦しもうとするかもしれません。
自分にどのような未来が待ち受けているのか、というあらゆる”可能性”を人は考える必要があるのは、結局は誰のためでしょうか。
それはほかの誰でもなく、自分自身のために”可能性”というものをどこまでも考えつづける必要があるとわたしは想います。
これは殺生に賛成する人にも同じです。
死刑制度に賛成する人、戦争に賛成する人、中絶に賛成する人、自分が殺生に直接関わらなくても殺生を肯定するのは殺生を自ら行なっていることと変わりはないです。
賛成しつづけるということは自分に対して殺人罪を課しつづけていることと同じであるとわたしは危惧するのです。
利己的な殺人者は殺す(死刑に処する)べきだ、死ぬべきだと多くの人は言います。
でもそれは人間の生命の価値を分け隔てている考えです。
人間の命というものが同等であると想うなら人を殺した人の命も殺された人と同じほどに尊い価値であるので、殺すべき、死ぬべきだとは言えません。
命そのものに絶対的な価値を置いているからです。
どのような残酷な行為をしたからといって、”殺されるべき人間”はどこにもいないのです。
殺人者でさえ、生かされつづけています。どのような人間でも”生きる喜び”を感じることも”生きるつらさ”を感じることもできる権利があるのです。
それなのにお腹の中で何も知らずにすやすやと眠る胎児が”殺されるべき人間”であるはずもないのです。
20人以上殺した殺人者でも、一瞬の苦しみで死ねるようにと必死に人は処刑方法を工夫するのです。それなのに胎児は頭と胴体を引きちぎられるというような拷問の処刑方法のようなものを科されつづける必要は、あると想われますか?
それも一秒間に少なくとも一人の割合で。
この世に生まれでて、生きていくことというのはだいたいにおいて苦しくつらく、哀しいことのほうがずっと多いものです。
その中でも人は喜びを感じて、生命の尊さというものを感じる喜びを知って行きます。
生きていくのは苦労に満ちてさぞやつらいだろうからとわたしの母親がわたしを産んでいなければ、わたしという存在は今ここにこうして生きてはいません。
いろんなことを考えて、泣いたり笑ったり義憤に燃えて苦しんだり、すべてのわたしの存在というものだけが創りだし、また表現できる生命現象というもののすべてが、母親がわたしを産んでくれてなかったら存在しないのです。
わたしはここに存在しませんでした。
存在できなかった存在の無念さは、すこしでも想像しようとするとその無念の深さに気を失いそうなほどの哀しみを感じます。
その無念さのすべては、生きている存在すべてと繋がっているはずです。
それはひとつの底のない闇です。
無限につづいているような闇です。
そんな場所にたったひとり、胎児は置き去りにされているかもしれません。
わたしは命を懸けてでもそんな胎児が一人でもいるなら救いだしに行きます。
それは自分自身を救うことだからです。
その真っ暗闇の中で泣いているのは他の誰でもなく、自分の胎児だったときだからです。
生命の尊厳とはの記事にあとから追加した写真です。ここでも載せたいと想います。
手を胸の上でひっしと組んで眠るように死んでいる中絶胎児の写真です。
どんなせつなる願いと祈りがそこにあったのでしょう。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/otoneru/20170407/20170407143915_original.png?1491543633
魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。という昨夜の記事に引き続きまして今日も”中絶問題”について感情を吐き出したいと想います。
まず、冷静に、何分に一人が今、中絶されているのかを計算してみたいと想います。
人工妊娠中絶の世界的現況――MDG 5の達成に向けて
1995年の中絶数4,600万件に対し、2003年は4,200万件に減少していた。
とありますがこれは闇に葬られてはいない数の計算でこれだけあるということです。
2016年にはどれだけあったかはわかりません。
過去1世紀で10億超、世界の中絶件数-米報告書
信頼できるデータが得られる100の国と地域を選び、1921年から2015年までに行われた中絶件数を合計したところ、10億1843万5000件と10億の大台を突破したことが判明した。
世界の国の数は196か国とかでその約半分の国の100年の中絶数の統計は10億1843万5000件ということですか。
2003年で中絶数は4,200万件
42000000÷365=115068
で合ってるでしょうか。一日に11万5千68人が中絶されているという計算になります。
一日は1440分なので、これを一分に何人かを計算してみます。
115068÷1440=79.9083333333 と出たので四捨五入で一分間に80人の中絶数というところでしょうか?
1分間は60秒なので、一秒間に1,3人が中絶されているという計算になります。
一秒間ですよ?一秒のあいだに、一人以上の尊い命が堕胎され続けていて、これも闇中絶合わせたら倍以上の数になっていてもおかしくありません。
1秒間に 牛3頭、豚5頭、 鶏1100羽分が食肉として殺害されています。とありますから、まるで胎児は家畜の如く殺されつづけているじゃないですか。
たとえ強姦や近親相姦などの望まざる妊娠、奇形や障害のある子だとわかっている場合や母体を護るための中絶であっても、中絶というもの自体、生きている人間を殺すということですから立派な殺人行為なのです。
知り合いに「実は俺は人を殺そうと想っている」と言う者があれば、「やめておけ」と言う人は多いはずです。
でも日本では娘が妊娠したらあらゆる理由から「中絶しなさい」と言う親が多いようです。
「おまえは殺人者になって生きていきなさい」ということです。
愛する娘に「おまえは殺人を行ないなさい」と殺人を薦める親が多いというのはほんとうにおかしな時代だと想います。
明日食べるものもあるかどうかわからないという飢餓の起きている国や時代ならまだしも、今の日本にはちゃんと孤児院で育てられて愛ある夫婦のもとに養子になって幸せに生きる子供がたくさんいる時代です。
何のために殺す必要があるというのでしょうか。
何のために、人を殺人者にさせる必要があるのでしょう。
母体を守るために、殺人者になることは仕方ないと言う周りの人間は、いつか必ず自分の行いは自分に返ってくるということは言わないのでしょうか。
なぜ幼稚園や小学校で、「人にされたくないことは自分も相手にしちゃいけない」と教えるのでしょうか。
何故その子供が自分のおもちゃを取られて友達を叩いたら、「そんなことしたらいけないよ」と教えるのでしょうか。
自分が苦しくても相手に危害を与えちゃいけないと教えてきた親や教師は成長した人間には「自分を守るために中絶したほうが良い」と言うのでしょうか。
自分を守るために相手を殺す、これは戦争の”正義”というものです。
でも多くの人は戦争は起きてほしくないと願っています。
自分(自国)を守るために人を殺し、国に帰ってきた帰還兵の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹って鬱病を発したり果ては自殺したりする人が多いのは、耐え切れないほどの罪悪感から自責に苛まれつづけて精神を病んでしまうからです。
中絶をした(させた)ことで苦しんで、自殺してしまった人も多くいるのではないかと想います。
むしろ殺してしまったことに自殺するほど自分を追い込んで苦しみ続けない人に対して、一種の薄ら寒さのようなものを感じるのはわたしだけではないと想います。
飼い猫が自分のせいで死んでしまったのだと自分を責めつづけて重い鬱病になってしまった人もいます。
殺すつもりはなくても殺してしまったのだと苦しんで生きる人は多いのです。
中絶に関わる人が、精神を病むほど苦しみつづけずに生きるというのは幸せなことではなくて、むしろ不幸なことなのではないでしょうか?
当たり前の話ですが、人は、生命は、生まれてこれたから生きていくことができるのです。
生んでくれた存在がいてくれたから、すべてが生きていられているのです。
母親が赤ちゃんを産みだすことは命懸けの行為です。
自分が死んででも赤ちゃんを産もうとすること、それが人間が人間を創造することです。
母親の命を懸けた決断によって、自分の存在というものがこの世に生まれて生きているのです。
感謝しつづけても感謝しきれないほどの感謝を喜びを知る子供なら母親に対してしつづけているはずです。
どんな子供でも、母の自分の命をなげうつ決意のおかげで生まれてくることができます。
命を産みだすこととは、自分の命を犠牲にしてでも経験したいほどの喜びだと母親はどこかでわかっているはずです。
それが本能として備わっている”母性”というものです。
母親に限らず、親のだいたいが自分の命をかけても子を護ろうとします。
なぜそういった本能が生命にもとからあるのでしょう。
それがなくなってしまうなら、種は絶えてしまいます。
誰一人、子を産まず中絶する時代が来るなら、人類は滅びてしまいます。
中絶できる自由というものも、この先、中絶が著しく増えるなら規制されてゆくはずです。
人類を滅ばせるわけにはいかないからです。
たくさんの母親が命をかけてでも赤ちゃんを産んでくれているから中絶することが合法とされているわけです。
合法にはならなくなる時代が来れば、中絶は殺人罪となります。
今では1人~3人殺せば死刑とされる時代です。
たった一人の中絶は、死刑に相当する罪なのです。
なぜ1秒間に少なくとも1人もの胎児が、この世に生まれてほんの少しの喜びを感じることも許されずに殺されつづけていかなくてはならないのでしょう。
飢餓や貧困が原因の途上国の中絶なら、日本でも減らしていくことができるはずです。
途上国の飢餓や水不足は先進国の肉食が関係しています。
1人1人の”殺人”というものが自分とは無関係のところに起きているわけではないということがわかるならもっと深刻に考えつづけていけるはずです。
ひとりひとりの”罪”というものは、自分とは関係のない”罪”ではないということです。
”罪”は呼び方を変えるなら”苦痛”と言えます。
たった一人の”苦痛”はすべての”苦痛”と密接に繋がっているということです。
これも人間だけではありません。生命すべてと言えます。
”生命の苦痛”、それは勿論まだ誕生していない胎児も立派な生命であり、一人の人間という存在です。
仏教では殺生の罪は阿鼻(あび)地獄 / 無間(むげん)地獄という地獄のなかでも最下層に位置する最も苦しい地獄に落ちるとされています。
”殺生”というと”生き物を殺すこと”ですから幅が広いですが、例えば極端な例ですが、相手が一匹の小さな虫であっても、その虫を殺したことでそれをなんとも想っていない人と、そのことを日々苦しみ自分を責めさいなみつづける者がいるのならば、前者は自分に重い罰を科してはおらず、一方後者は地獄とも想える罰を自ら科しつづけているというのが事実としてあるわけです。
殺生が、最も苦しい罰を受けることになるよ。と説くのは要は人間というものは殺生を最も苦しむ存在であるという多くの例によって説いているわけです。
さっきの例で、虫を胎児に変えてみましょう。
一人は中絶したことに平気で生きて安らかに死ぬかもしれません。でも一人は地獄のような道を死ぬまで歩んで、死んでも自分を赦さず無限に続くかのような地獄のなかでまた転生してくるかもしれません。
そしてこの前者も、死んで次に生まれた人生では前世の行いの罪を今度の人生ではうんと苦しもうとするかもしれません。
自分にどのような未来が待ち受けているのか、というあらゆる”可能性”を人は考える必要があるのは、結局は誰のためでしょうか。
それはほかの誰でもなく、自分自身のために”可能性”というものをどこまでも考えつづける必要があるとわたしは想います。
これは殺生に賛成する人にも同じです。
死刑制度に賛成する人、戦争に賛成する人、中絶に賛成する人、自分が殺生に直接関わらなくても殺生を肯定するのは殺生を自ら行なっていることと変わりはないです。
賛成しつづけるということは自分に対して殺人罪を課しつづけていることと同じであるとわたしは危惧するのです。
利己的な殺人者は殺す(死刑に処する)べきだ、死ぬべきだと多くの人は言います。
でもそれは人間の生命の価値を分け隔てている考えです。
人間の命というものが同等であると想うなら人を殺した人の命も殺された人と同じほどに尊い価値であるので、殺すべき、死ぬべきだとは言えません。
命そのものに絶対的な価値を置いているからです。
どのような残酷な行為をしたからといって、”殺されるべき人間”はどこにもいないのです。
殺人者でさえ、生かされつづけています。どのような人間でも”生きる喜び”を感じることも”生きるつらさ”を感じることもできる権利があるのです。
それなのにお腹の中で何も知らずにすやすやと眠る胎児が”殺されるべき人間”であるはずもないのです。
20人以上殺した殺人者でも、一瞬の苦しみで死ねるようにと必死に人は処刑方法を工夫するのです。それなのに胎児は頭と胴体を引きちぎられるというような拷問の処刑方法のようなものを科されつづける必要は、あると想われますか?
それも一秒間に少なくとも一人の割合で。
この世に生まれでて、生きていくことというのはだいたいにおいて苦しくつらく、哀しいことのほうがずっと多いものです。
その中でも人は喜びを感じて、生命の尊さというものを感じる喜びを知って行きます。
生きていくのは苦労に満ちてさぞやつらいだろうからとわたしの母親がわたしを産んでいなければ、わたしという存在は今ここにこうして生きてはいません。
いろんなことを考えて、泣いたり笑ったり義憤に燃えて苦しんだり、すべてのわたしの存在というものだけが創りだし、また表現できる生命現象というもののすべてが、母親がわたしを産んでくれてなかったら存在しないのです。
わたしはここに存在しませんでした。
存在できなかった存在の無念さは、すこしでも想像しようとするとその無念の深さに気を失いそうなほどの哀しみを感じます。
その無念さのすべては、生きている存在すべてと繋がっているはずです。
それはひとつの底のない闇です。
無限につづいているような闇です。
そんな場所にたったひとり、胎児は置き去りにされているかもしれません。
わたしは命を懸けてでもそんな胎児が一人でもいるなら救いだしに行きます。
それは自分自身を救うことだからです。
その真っ暗闇の中で泣いているのは他の誰でもなく、自分の胎児だったときだからです。
生命の尊厳とはの記事にあとから追加した写真です。ここでも載せたいと想います。
手を胸の上でひっしと組んで眠るように死んでいる中絶胎児の写真です。
どんなせつなる願いと祈りがそこにあったのでしょう。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/otoneru/20170407/20170407143915_original.png?1491543633