あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

安楽死

2017-04-22 17:45:34 | 
俺はとにかく、安楽死を望んでいる。
あなたたちに。あなたたちの死に、安楽死を望んでいる。
なんでこれについて、あなたたちにNOと言われなくてはならぬのか。
わかっていないのか。あなたたちは、あなたたちはわかっていないのか。
この世に拷問の死があるということの意味を。
この世に拷問の死があるということはすなわちどういうことであるかということを。
あなたたちはわからないのか。
あなたたちは想像しないのか。
あなたたちは目を背けるのか。
あなたたちは他者の拷問の死について、無関心であらせられるのか。
あなたたちは「公平」と「平等」を訴えながら他者に拷問の死を与える。
あなたたちは「愛」と「平和」を説きながら他者に拷問の苦痛を与える。
優しく発狂した堕胎医は、今日も胎児の首を引き千切る。
優しく発狂した肉食者は、今日もビーフステーキを喰う。
優しく発狂した自殺者は、今日も誰かの為に死んでゆく。
どこにでもある、風景である。
どこにでも転がっている、牛の首。

俺は何の為に生まれてきたか。俺は生きる為に生まれてきた。
しかし死ぬ為に生まれてくる奴がいるという。
俺はそいつに言う。さっさと死にさらせ、どあほんだら。
言うと想うか?
おまえはふざけているのか。
胎児よ。
おまえはふざけているのか。
さっさと死にさらせ。
俺が言うと想うか?
まだこの世を見もしないで去る者たちよ。
おまえの味わう拷問の死は、俺の拷問の死なんだよ。

殺さないで欲しい。
殺さないで欲しい。
殺さないで欲しい。
この俺を。








悲しき夢

2017-04-22 14:31:58 | 日記
昨日のこと。昨日、二回悪夢を見た。
一回目は、朝方に、母親でも父親でもあるような存在、それは誰か分からなかった。
その存在に向かって泣きながら怒り叫んでいる自分がいた。
こういう夢は俺はよく見る。
怒っている理由がいつも決まって同じで、自分のことを相手が愛していないという理由からで、それに悲しみが爆発して怒りに変わり、すべてを破壊せしめんとするかのような阿修羅が乗り移ったごとくのあの苦しい怒りは起きても少しのあいだ胸がずっと苦しいほどだった。

二回目は昨晩も酒飲んで早々に寝たら、また辛い夢を見て夜中に目が醒めた。
自分は自分の部屋によく知らん男と居て、そいつは気違いで俺を拷問にかけたあとに殺そうと俺に向かって拷問器具を手に持ちながら気持ちの悪いことを言っていた。
俺はそこで一人で逃げてしまった。でも部屋にはみちた(飼いうさぎ)がいた。
思い出して後悔し、あとから警察みたいな組織の人たちと部屋に戻ったが、そこにみちたがいなかった。
俺が一人で逃げてきてしまったがためにみちたはあの異常者に拷問を受けて殺されたかもしれない。
絶望のなかに俺は探し回った。それでもなかなか見つからない。みちたの亡骸さえ見つからない。
組織の人間たちは解決したかのようになんかみんなわいわいしていた。
そのときそこに、みちたのことを悲しむ者は俺ただ一人だった。
俺だけが助けてやれた存在、俺だけが救い出せた存在。そのみちたが、俺が俺の事だけ考えていたため拷問にあって殺された。
俺が一人で逃げたあと、どんな想いで怯えていたのか。
どんな想いで俺の逃げる後姿を見ていたのか。
その後、みちたは見つかった。
みちたは生きていた。しかしその腹は、どうなってるのかわからないほど血塗れており、内臓が出ているようにも思えた。瀕死の状態のはずが、なぜかみちたはすこし元気に逃げ回った。
俺は組織の人間たちのいる部屋に必死に助けを呼んだがやってきてくれたのは男一人だった。
みちたのお腹に重ねた布を当て、病院へ運びに行こうとしているところで目が醒めた。

そのときも、しばらくのあいだ前回の夢のときと同じような胸を圧迫されるような苦しさが続いた。
現実では、みちたの穏かな寝息が聞こえていたのでほっとした。
それでも自分はずっと後悔した。なんでみちたを連れて逃げなかったのか。
このわたしだけを頼りとするちいさなみちたを、なんで置いて逃げたのか。
そこに、俺の正常さは見当たらなかった。
みちたを置いて逃げる自分は、狂気以外の何者でもない。
たとえ夢でも、そんな自分を俺は赦さない。








著書「ママ、さよなら。ありがとう」に対する我が魂の底からの訴え

2017-04-22 12:35:36 | 
ママ、さよなら。ありがとう
池川 明


追記文2018年2月28日(何故か、Amazonレビューに載せたのですが違反報告されたのか、削除されています)


わたしはスピリチュアルな考え方にはほとんど肯定的で、人が親や人生を選んで生まれてくる話や
胎内での意識や記憶、胎児との会話なんてものもいい話だと想っている人間です。

しかしスピリチュアルな意識を持ちながら、人を殺すことに従事している人は今まで見たことがありません。
著者は胎児を一人前の「人」として理解しながらも、その胎児を殺すという「中絶手術」を行ない続けているという事実に
わたしは違和感がどうしても拭えません。

胎児が一人前の人間であるということは、生きている子供や成人や老人と同じ存在であるということです。
著者の池川さんは、一人の子供が目のまえで「これこれこういう理由で自分も家族も全員納得していることだし、自分とみんなの成長のためにも今死んだほうがいいから殺してください」と言われ、それが法律には反してはいない場合、殺人を行なうのでしょうか。

全世界で、1秒間に1人以上もの一人前の人間である「胎児」が中絶(堕胎)され続けております。
闇中絶合わせれば倍以上の数になるやも知れません。

日本のどこを探しても中絶を行なう場所が無いのなら、産むことを選択する母親は増えるのではないでしょうか。
中絶手術(殺人)を行ない続けながら、人の命の尊さを説き続けることを、わたしはやめてもらいたいと想うのです。

わたしはやめてもらいたいのです。そこにどのような理由が在ろうとも、人が人を殺すことを。
池川さんに対してそこまで義憤は覚えませんが、その代わりどこか気持ち悪さは残ります。
中絶の残酷さは池川さんが一番良く解っていることじゃないですか。
生きている胎児の身体を引きちぎらないといけないわけじゃないですか。
なんでそんなことができるんですか?
さっきまで会話していた一人の人間を、なんでそのような方法で殺すことはできるんですか?
これが本当の話だというのなら、池川さんはどこか狂っていらっしゃるのだと想います。人として。
わたしならさっきまで話していた可愛い可愛い胎児の頭と胴体を引きちぎって殺すなんてできませんよ。
これは初期中絶の方法ですが中期中絶は母親の体内の外に赤ちゃんを出してから窒息死という形ですよね。
一方で愛を説きながら、一方では人を窒息死させつづけているわけですか?
わたしは池川さんにお聴きしたい。
なぜ、愛を説きながら人を殺し続けることができるのか。

わたしはどんな理由で頼まれても、人に拷問のような苦しみを与えて殺すことなどしたくはない。
他者に自分の子を殺させる母親も精神状態が正常ではありません。
そのようなことを人は人にさせるべきではないのです。
自分の手で殺めることもできないのに、他者に我が子を殺させるべきではないのです。

中絶は日本では合法だから赦されるのでしょうか?
合法だから、日本の母親の胎内に宿る胎児は他者(中絶を行なう者)に
「自分と周りの成長のため(愛を知るため)に拷問の苦しみを与え殺してください」と胎児は望むのでしょうか。
だとしたらその胎児の魂もどこか狂っているのだと想います。
中絶手術(殺人)を何故嫌々やっているのですか?
本当に嫌なら胎児と母親に事情を説明して断ればよいのです。
本当に産んでもらいたいと想っているのなら、殺すことはできないのではないですか?

もし世界が、この御本の中の話を信じて中絶をポジティブに受け留めだしたなら、どのようになると想われますか。
国内2014年度の人工人中絶件数は18万1,905人、一日に約498人。これでもすごく減ってきている数なのです。
一時間に約21人の胎児が中絶されています。
今でもこれだけ多いのにポジティブに捉えだしたら増えてしまうのではないでしょうか?

胎児の殺害(中絶)は「殺人」ではないと言うのなら、なんのために池川さんは胎児の命(たましい)の尊さについてこんなに熱心に説かれているのでしょうか。
「たましい」があるということは、胎児も新生児も子供も大人も老人も、まったく同じ価値の尊い存在だということです。
つまり中絶とは、新生児や子供や大人や老人を殺害することとまったく同じ行為であるということです。
しかもだいたいにおいて安楽死ではなく、想像も絶するほどの肉体的苦痛を伴うのが人工妊娠中絶です。

母親と胎児に頼まれたからって正常な意識でできるものなんですか。
例えば何遍も中絶を行ない続けた医師が、罪の呵責に苦しんだ末に自殺しても胎児は、「ありがとう」と感謝して天使のように笑ってるわけですか。
どこかおかしくないですか。気持ち悪くないですか。
中絶された胎児は母親に「ありがとう」と言って、母親も胎児に「ありがとう」と言って幸せに暮らしても中絶を行なった人間はのちに自分が遣ってきたことの恐ろしさにやっと気づいて絶望して死ぬかもしれない。
胎児と母親はそこまで考えられているのですか。その上での「ありがとう」なのですか。

ただただ苦しんで、誰一人にも「ありがとう」と言えずにひとりぽっちでずっと泣いている胎児のたましいが一人でもいるのなら、
その一人のたましいのためにわたしは中絶問題を訴え続けてもらいたい。
綺麗ごとで済ませられないことがあることを多くの人に知らせてもらいたい。
関わってきた人間だからこそ訴えられるものがあるのではないですか。

追記:4月22日
いきなり”いいえ”の評価が二人も付いてますけれども、これだけ「殺さないでくれ」と必死に訴えているコメントに対して無言でいいえを押していかれる方々ってのは、人殺しを賛美する方々でしょうか?それとも関係者の方々でしょうか。
何か一言くらい、コメントを残していかれたらどうでしょうか?人として。
こちらは魂の底から「どうか殺さないでください」と訴えているわけです。
なぜ中絶という殺人行為を、肯定するのか。
無言でいいえを押していかれる方々に義憤を抑えることができません。
返す言葉も無いのにいいえだけを押していかれるというのは、そこまでのいい加減な反対ですか。
人間の生命の尊厳についての訴えにいい加減な反対をしていてどうするんですか?
反論を是非述べてください。

たとえ赤ちゃんの魂と母親の魂が納得した上での中絶という拷問処刑みたいな死に方であったとしても、それを行なわなければならない”他者”という存在がいるわけです。
池川さんだって何も好きで中絶手術なんてしてないと想いますよ。
好きでもないことを他者にやらせるということは”利己主義”なんです、結局は。
中絶という方法で魂の成長をはかろうとする魂は利己主義なんです。
魂だからって全員が天使のように罪のない存在というわけではないでしょう。
利己主義の魂の言う事を聴いて殺人を行ない続けなくてはならない必要性があるのでしょうか。
私なら断ります。魂からどんな理由を言われたところで、なぜ殺人行為を他者にさせるのかが理解できないからです。
我が子を我が手で殺せる母親など一握りでしょう。
中絶手術を行い続ける者がいなくなるなら、中絶という惨劇は減るはずです。
魂が納得しているから殺してもよい(中絶してもよい)という考え方をどうか世に広めないで戴きたいのです。



追記:5月2日

今で無言でいいえを押されていった方が4人です。
いいえを押されていく方は、自分に関係のある中絶を正当化したい人間たちでしょうか?
殺人を正当化して良い理由がこの世にあって良いと想われますか?
わたしは我が子にどれほど頼まれようとも、わたしの命が危ないと言われようとも産みます。
それを悲しむ胎児ならば、とことん悲しめば良いのです。
どっちに転ぼうとも、喜びだけがもたらされるはずなどないのです。
わたしは自分の命を懸けて、自分の子どもを産みたいです。
その親の愛が不満な胎児など、勝手に不満になっていればよろしい。

わたしはやっぱり、この本の中絶に関するところだけは認められません。
胎児のわがままなど聴く必要はありません。
そんな我儘な魂ならば、言ってやりたいです。
「ではおまえは産まれてきて、わたしの首を引きちぎって殺せといえば、おまえは母親の首を引きちぎって殺せるのか」と。


追記:5月4日

今でいいえが5人。面白いほど無言でみんないいえを押していかれますね。
いい加減な人間ばっかりか。反論の一言も言えないのに、なにがいいえなんだろう。
わたしは言いたい。
たった一度でいいから、生きたまま、自分の首を引きちぎられて殺されるところを生々しく想像してみてほしい。
生まれてから引きちぎるのは大変ですよね?
だから首に切り込みをナイフで入れられて、思い切り引っ張られて首を引きちぎられるところを本当に生々しく想像してみて下さい。

一秒間に一人以上の胎児が中絶され続けていますが、一分間に首を引きちぎられて死んでゆく胎児はいったい何人いるのでしょうね。
いったいどれほどの痛みと、苦しみと、恐怖があるのでしょうか。

胸の上で手をしっかと組んで、まるで神にお祈りするように死んでいる中絶された胎児の写真を見ました。
彼はどんな想いで、母親に堕ろされてしまったのか。
わたしはすべての中絶に関わる人間たちに、苦しみ悲しみ続けてもらいたい。
わたしは自分のせいで父が死んだと思って生きていますが、自責の思いから生きている心地がもう13年間ずっとありません。
苦しみ続けてください。悲しみ続けてください。人を殺したのです。それでこそ、人は成長できるというものです。
我が子を殺しても、殺人に関わっても、ポジティブに生きていける人は、どこか人としての箍(たが)が外れてしまっています。


追記:5月11日

中絶という問題は、考えれば考えるほど、肉食の問題と通じてくるように感じます。
自分はスピリチュアルな啓示のようなものによって2012年に畜肉を一切食すことを断ちました。
今は完全菜食を続けています。
自分は何十年と、自分では到底殺すことのできない家畜を、他者の手によって殺させ、その死肉を食べ続けてきました。
目の前に、生きた牛や豚や鶏がいて、そして簡単に殺すことのできる武器を手にしていたとしましょう。
それでもわたしはその家畜を自らの手で殺すことはできなかったと想います。
自分が嫌なことを他者にさせ続けて生きてきました。
これが間違いだったのです。

わたしはわたしの自分の手によって殺害せしめ、その死肉を喰らわねばならなかったのです。
でも自分は、そこまでして肉を食べたいとは想っていませんでした。
他者が自分の嫌なことを代わってしてくれていたから、食べていたのです。
本当に、罪深いことです。たとえ肉食をやめてもこの罪は生涯、いや何度生まれ変わろうとも消えることはありません。

中絶という問題も同じく、母親が自らの手で堕ろす(殺す)ことは稀なのではないでしょうか?
とくに日本では、主に中絶の方法は中絶手術によってです。
自分の手で、我が子を引きずり出すこと、またはその首を器具によって引きちぎることが耐えられる母親が果たしてどれほどいましょうか。
医者が代わりに殺害行為を行なってくれるので、安易に中絶をする人間が増えてきていると言えると想います。

殺すなら、自分の手で、殺すべきなのです。
胎児もまた、本当の苦しみによって母親共に魂の成長を望むというのならば、「貴方の手によって殺してください」と願うべきなのです。
それができないなら、どのような殺害にも人は関与するべきではありません。