日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

自昌山國前寺(広島市東区)

2019-05-09 23:19:57 | 旅行
広島に日像上人開山のお寺があると聞き、訪問してきました!


広島は大都会!人口は120万人、文句なく中四国最大の大都市です。


広島駅から歩いて10分の山裾に、そのお寺はありました。


國前寺です。
江戸時代建築、三間入母屋造りの山門が偉容を誇ります。



仁王門になっており、阿行と


吽形によって護られています。
ちょっとユニークな表情ですね~!



山号は「自昌山」です。



本堂です。
二重屋根と白い漆喰が特徴的で、お城の櫓を彷彿とさせますね!
棟札から江戸初期の建築だということが判明しているそうですよ。



妻入造りの庫裏も立派!
庫裏も本堂と同時期に建築されたと推測されています。



國前寺は原爆の爆心地からわずか2.6kmしか離れていませんでした。当然、激烈な爆風を受け、伽藍群は爆心地と反対側に傾いてしまいましたが、辛うじて倒壊は免れたそうです。相当に堅牢な造りだということが窺えます。
傾いているがそれでも建物はあるということで、夥しい被爆者の救護がまさにここで、なされたそうです。



戦後、部分的な修復のみであった本堂他の建造物は、平成になってから本格的な修理がなされ、今日に至るそうです。



「龍華樹院」という扁額が掛かっています。日像上人の院号ですね。
わずか13才、まだ経一丸だった頃にご入滅直前の日蓮聖人から帝都弘通のご遺命を受けた日像上人は、大変な苦労をされて京都に妙顕寺を建立しました。のちに後醍醐天皇から法華宗号の綸旨を賜り、妙顕寺は勅願寺となったのです。このとき日像上人はすでに65才になっていました。



上洛する直前、若き日像上人は真冬の鎌倉・由比ヶ浜で波をかぶりながら毎夜、自我偈を百回読誦するという荒行を百日間続け、今後予想される迫害に耐えうる精神を養いました。



百日目の満願の日に、日像上人が海にお題目を書くと、その字が実際に水面に浮かび上がり、波にゆられたということです。
昨年参拝した妙顕寺のご首題↑には、特徴的な波ゆり題目が記されていました。



1340年、日像上人は71才、当時としては相当高齢のお体で当地を訪れ、厳島に渡ろうとされていたそうです。
厳島は海の神様であり、若き日の由比ヶ浜で波ゆり題目を感得された日像上人にとっては特別な場所だったのかもしれません。



当時、お寺のすぐ目前まで海だったそうです。
厳島に渡ろうとしたが強風に遭い、船を繋いだと伝わる松が、國前寺の山門前にあります。



國前寺歴代お上人の御廟を参拝。



松に船を繋ぎ、日像上人が避難したのは真言宗のお寺でした。
日像上人はお寺の暁忍上人を教化・改宗させたそうです。



開山を日像上人、二祖に暁忍上人として自昌山暁忍寺を開いたのがルーツだそうです。

この石塔には三祖として大覚大僧正の名も刻まれています。大覚大僧正は日像上人が上洛して辻説法をしている時代に帰依した日像上人のお弟子さんで、岡山県や広島県に開山したお寺が沢山あります。備前地方で法華信仰が篤いのは大覚大僧正のお陰だといわれています。



境内には信仰を守護して下さる護法大明神や



裏山に至る道の先には


七面山のお社が整備されています。
これからも広島の宗門、信徒さん達をお護り下さい、と参拝しました。



これは江戸後期・文政年間の境内想像図だそうです。
広島二代藩主・浅野光晟公と夫人である満姫が帰依したことにより1656年より伽藍群が整備され、寺名も改められました。
お寺の縁起によると、浅野家菩提寺・國泰寺の「國」と、満姫生家・前田家の「前」を取って「國前寺」と名付けられたということです。
また満姫の院号は自昌院であり、山号の「自昌山」はそこからきていると思われます。



今、思い出したのですが、昨年、石川県の妙成寺を参拝した際、熱心な法華信者であった寿福院の御廟にも手を合わせました。
寿福院は加賀前田家三代藩主・利常公の生母であり、満姫にとっては祖母に当たる方です。
妙成寺が日像上人開山のお寺だというのは、時代を超えた不思議な縁なのかもしれませんね。



それにしても原爆の被害からよくここまで境内を整備したものだと感服します。
お上人方やお檀家さん達の尽力に深く感謝します。


そういえば本堂にこんな樽がありました。

昨夏の豪雨で、相当な被害を受けた広島県内の宗門寺院があるようです。
一日も早い復興を心より祈念します。