僕はこれまで数多くの、全国の、日蓮聖人とそのお弟子、信者さん達のご霊跡を巡ってきました。
それは日蓮聖人の時代のみならず、戦の時代、太平の時代、はたまた最近の、先人達が信仰を守り抜いた証でありました。
今回、このブログは200回を迎えます。記念というとおこがましいですが、全ての法華経信仰の起点となったお祖師様の立教開宗の聖地・清澄山について、2回に分けて紹介させていただきます。
前半は「道善房墓所」として、日蓮聖人と清澄寺との関わりを、後半は「千光山清澄寺」として、清澄寺の縁起を紐解いてみたいと思います。
(道善房のお墓は清澄寺境内にあります)
本来なら、清澄山の遠景を捉えた画像をアップできれば良いのでしょうが、鴨川や勝浦は山が迫っている場所が多く、これというのがありません・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c3/4eddbb4dc24e37343ae13344c9132bad.jpg)
唯一、↑は、西条華房にある日蓮聖人が額の刀傷を洗ったといわれている井戸(左下)から北東方面を写した画像なんですが、奥に清澄山系と思われる山々がありました。
清澄山は、清澄八峰といわれる山々の総称だそうですよ。
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安房天津からキレイに舗装された山道を上ります。
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勾配が急すぎる場所には、現在ループ橋を建造中です。
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お猿さんも普通にいます!
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麓から15分ほど走ると巨大な黒門が迎えてくれます。
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清澄寺は大本山なんですね!
日蓮宗ポータルサイトによると、小湊誕生寺、中山法華経寺、北山本門寺、池上本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺、そして清澄寺の7ケ寺に、大本山の称号が付いているそうです。
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清澄寺の山門は仁王門です。
朱塗りの門ですね。
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日蓮聖人が立教開宗した場所としてはよく知られていますが、得度した場所でもあったんですね。
ところで、日蓮宗のお坊さんになるには、得度、度牒、僧道林、検定試験、読経試験、信行道場などのステップを踏む必要があるそうです。
ここで言う「得度」とは、師僧のもとで弟子となることで、修行して師僧に信頼され、日蓮宗が認めれば「度牒(どちょう)」という証明を戴けるようです。
そこで初めてお坊さんのタマゴになれるのですが、この度牒の交付式は清澄寺で行われているそうですよ!
ここで言う「得度」とは、師僧のもとで弟子となることで、修行して師僧に信頼され、日蓮宗が認めれば「度牒(どちょう)」という証明を戴けるようです。
そこで初めてお坊さんのタマゴになれるのですが、この度牒の交付式は清澄寺で行われているそうですよ!
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日蓮聖人にも「道善房」という、清澄寺に仕える師僧がいました。道善房のもとで得度・修行し、のちに立教開宗してゆきます。
その過程を、清澄寺境内の事物を巡りながら見てゆきましょう。
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日蓮聖人(幼名・善日麿)は貞永2(1233)年、12才で清澄山に入りました。
名前を薬王麿と改め、道善房を師匠として、預けられました。
当時はもちろん学校はなく、初等教育はお寺に委ねるのが一般的でした。
鎌倉時代、最盛期には清澄寺に12もの僧坊があったといいますが、薬王麿はこのうち道善房の坊舎である諸仏坊を拠点に、兄弟子の浄顕房、義浄房にも教わりながら4年間、夢中で学問や修業に打ち込みました。
(↑画像は小湊誕生寺境内の日蓮聖人ご幼像)
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当時、清澄山は女人禁制だったため、たとえ母親でも女人堂という遙拝所までしか登って来ることはできませんでした。
幼い薬王麿を心配して、母・梅菊はここまでやって来たそうです。
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薬王麿は面会に来た梅菊に「生まれ故郷が恋しくなり、勉学に励めなくなるので、会いに来ないでほしい」と伝えました。
息子の強い意志を感じた梅菊は、涙を流しながら山を下り、以後、清澄山には登らなかったそうです。
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女人禁制時代の遺構である女人堂跡、そして梅菊が涙をこぼした涕涙石跡は、清澄寺入口から500m位手前の側道にあります。目立たない場所ですが、参拝の折には訪れてもらいたいです。
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嘉禎3(1237)年10月8日、16才で剃髪して出家得度し、名を是聖房蓮長と改めました。
ここから僧侶としての本格的な修行が始まりました。
(↑は蓮長が修行された練行場井戸)
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師匠の道善房は蓮長の非凡な資質を見抜いていたのでしょう、懸命に教育をし、修行を見守ったようです。
一方、蓮長の知識欲は旺盛で、更に自分の能力を高めるため、ついには清澄寺のご本尊・虚空蔵菩薩像の前で三七日(21日間かな?)不眠不休の行をしました。
「日本第一の知者となしたまえ」と願をかけて。
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満行の日、本物の虚空蔵菩薩が蓮長の前に現れ、智慧の宝珠を授けられました。
その瞬間、蓮長は吐血して倒れ、周囲の笹を血で染めたといわれています。
境内には↑凡血の笹として霊跡をとどめています。
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ここの笹は葉に赤い斑点が出るのが特徴だそうです。
蓮長が吐いたのは凡人の血と言われ、これ以降、蓮長の記憶力や理解力はズバ抜けて良くなったといいます。
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その頃、蓮長は究極の疑問にぶち当たっていました。
「お釈迦様の教えの本質はどこにあるのか?」
数ある経典、居並ぶ既存教団の中で、人々を幸せに導くのは何なのかを知るために、蓮長は当時の仏教の中心地・関西への留学を決意しました。師匠の道善房も、もはや自分の手に負える器でないと思ったのでしょう、蓮長の背中を押してくれたようです。
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当時、仏教の総合大学的な場所だった比叡山を拠点にして、蓮長は京都、奈良、大阪にも出かけ、仏教を広く深く、学び尽くしました。留学は足掛け12年にも及びました。
(↑は比叡山・横川の定光院)
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お釈迦様の教えの本質は法華経にあると確信した蓮長は、留学の最後に伊勢大廟(神宮)を訪れ、天照大神の前で法華経を広める誓いをしました。
(↑は蓮長が伊勢大廟参拝前に水垢離をした、通称誓いの井戸)
留学を終え、久しぶりに清澄寺に戻った蓮長は、大勢の前で留学の成果を報告することになっていました。
蓮長自身、それは天地をひっくり返すような事になるだろうと予想していたはずです。
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建長5(1253)年4月28日早朝、清澄山上の旭ケ森において、太平洋上から昇る太陽に向かって、初めてお題目を唱えられました。
そして、末法の世から人々を救済しようという決意の現れなのでしょう、世を照らす「日」と、泥に咲く「蓮」から、自らの名を日蓮と改めたといわれています。
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この日の正午、馴染みの坊舎である諸仏坊にある持仏堂で、留学の報告会が催されました。(現在、↑道善房のお墓がある場所が、かつての諸仏坊の跡だそうです)
日蓮聖人は聴衆に対して南面していたといいます。これは天子が臣下に対面する時の位置関係であり、ある意味、お釈迦様になり変わって、お話をされる決心だったのでしょう。
聴衆は日蓮聖人が天台宗総本山である比叡山で、天台の教えをどんなに深めたのかを期待していたことでしょう。
ところが日蓮聖人は、世の中を救う唯一・最高の教えは法華経である、念仏など無間地獄だ、と堂々とお説法したことにより、地頭・東条景信はじめ聴衆の怒りを買ってしまいました。
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怒り狂う聴衆に命の危険を感じた日蓮聖人は、兄弟子の浄顕房、義浄房の助けもあり、西条華房の蓮華寺に逃れました。
実はこれは師匠・道善房の機転だと言われています。お説法に驚愕しながらも、大切な弟子の命だけは護ろうとしたのではないでしょうか。
(これを機に、道善房は日蓮聖人を表向き「勘当」したそうです)
以後、日蓮聖人は二度と清澄山に登ることはありませんでした。
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文永元(1264)年、母・梅菊の病気の知らせを受けた日蓮聖人は、急いで安房に帰郷し、祈祷により母を蘇生させました。孝養を尽くし、母の容体も落ち着いてきた11月、日蓮聖人は蓮華寺で道善房に再会しています。
9年前、憤った聴衆から自分を護ってくれたことへの感謝を伝え、改めて法華経への帰依を道善房に勧めましたが、師匠の信仰を変えることはできなかったといいます。
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このすぐあとに起きたのが、小松原の法難です。
東条景信は密かに道善房の動きを探り、日蓮聖人襲撃の機会を狙っていたのかもしれません。
事件の報せを聞いて、道善房はどんなに悲しんだことでしょう。
(↑は小松原の鏡忍寺)
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のちに日蓮聖人は身延山に入りますが、両親への思慕と同様に、師匠への感謝の思いも、変わらず強く持ち続けたようです。
(↑は身延山御草庵跡)
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身延山久遠寺の奥之院思親閣には、日蓮聖人がお手植えされたという杉の老木が現役で残っています。樹齢700年以上!!
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うち1本は、道善房の恩に報いたいという気持ちで植えられた「道善房杉」です。
信仰は違えど、自分の根っこの部分を作り上げてくれた道善房は、やはり紛れもない「師匠」だったのでしょう。
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建治2(1276)年3月16日、道善房は化を遷されました。
念仏中心の天台宗寺院に給仕する僧侶でありながら、日蓮聖人という規格外の異端を弟子に持ち、肩身の狭い思いをすることもあったでしょう。信仰についても立場上、一線は越えられなかったのだと思います。
しかし、幼い頃から大切に育て、見事に成長し、羽ばたいていった弟子を、道善房はいつも遠くから心配し、応援していた、というのは邪推でしょうか。
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道善房ご遷化の報せを受け、日蓮聖人は感謝の想いを文章に著しました。報恩抄です。
自分の代理として、日向上人を遣わせ、浄顕房・義浄房立会いのもと、墓前で報恩抄を読ませることで、師匠の霊を供養したそうです。
日蓮聖人自身、駆けつけたい気持ちはあったでしょうが、隠棲の身でもあり、これ以上波風を立てたくないという配慮だったと思います。
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僕は毎日のお勤めの際、妙行日課を少しずつ読むのですが、報恩抄の一節も載っています。
印象的なのは次の部分です。
「されば花は根にかへり 眞味は土にとどまる この功徳は故道善房の精霊の御身に聚(あつま)るべし」
今の自分がいるのは、あなたに育ててもらえたからです。いつも影で支えてくれていた。自分がこれまで積み重ねてきた功徳を、道善房、あなたに振り向けて、霊を慰めたいと思います・・・。
そんな意味だと勝手に解釈して、清澄寺の前半「道善房墓所」を締めたいと思います。
南無妙法蓮華経。