今年の10月13日は日蓮聖人の第737遠忌でした。
ご入滅の地・池上本門寺のお会式はあまりにも有名ですが、この日を中心に各地の日蓮宗寺院でお会式法要が営まれます。
ちなみにウチの菩提寺は今日、お会式がありました。他の壇信徒とともに、日蓮聖人に報恩・感謝のお題目をあげてきましたよ!
日蓮聖人がご入滅された時の様子を描いた「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)。
ご正当の日の朝、改めて拝むようにしています。
しかし・・・前から気になっていたんだよな・・・
日蓮聖人のご兄弟の氏「貫名」を見る度に、訪ねなきゃいけないな~と思っていたお寺があるのですが、つい最近、義母の実家の法事があり、浜松を訪ねる機会があったので、少し足を伸ばして訪問してきました!
袋井市にある妙日寺です。
日蓮聖人のお父様方の菩提寺、と聞いたことがあります。
境内入口に大きい法塔が建っていますね。
よく見ると、右側に「妙日尊儀」、左側に「妙蓮尊儀」と刻まれています。
お父様の法名を寺名にしてあるんですね。
日蓮聖人のご両親をご供養しているお寺、で間違いなさそうです。
小学校に隣接する形で境内があるのですが、なかなか入口がわかりませんでした。
お寺の北側に走る旧東海道に入口があります。
山門です。当日は秋雨前線が台風に刺激され、雨が降り続いていました。
ま、雨のお寺もしっとりした感じで嫌いではないんですけどね!
まずは本堂の前で合掌。
山号は「貫名山」です。
境内は日蓮聖人のご先祖・貫名氏代々の邸宅跡と伝えられています。
日蓮聖人の5代前の先祖は、井伊左衛門盛直という方、いわゆる名門・井伊家の方でした。
盛直は三人いたお子さんに一人は井伊家、もう一人は赤佐家を継がせ、さらにもう一人・正直に山名郡(現在の袋井、磐田あたり)を任せたそうです。
正直は山名郡の貫名に館を築き、「貫名」を氏としました。
つまり正直が貫名氏の始祖であり、貫名家は井伊家の分家に当たります。
本堂横、渡り廊下の下に、貫名家廟の入口がありました。
宝塔を中心とした貫名家廟です。
実際の墓石はすっかり丸く小さくなってしまっていますが、よく清められており、手篤く供養されているのがわかります。
始祖である貫名四郎正直公
2代・貫名次郎行直公
そして3代・貫名五郎重實公の名前が刻まれていました。重實公は日蓮聖人のお祖父様にあたる方ですね!
そしてその横には、日蓮聖人のご両親を供養する五輪塔があります。
雨が避けられるよう、屋根で護られています!
江戸初期に大和柳生藩主・柳生但馬守宗矩が寄進したものだそうです。
白っぽい石で造られた五輪塔です。
薄いけどわかるかな~?
右側には「慈父貫名重忠」「法號妙日尊儀」、左側には「悲母清原氏」「法名妙蓮大姉」、そしてご両親に囲まれるように中央に「南無日蓮大菩薩」。
3代・重實公の子である貫名二郎重忠公は、源平の合戦において平氏に味方したことが原因で鎌倉幕府から睨まれ、安房の国小湊に流されてしまったそうです。
そうか・・・だから日蓮聖人は安房の国でお生まれになったんだ。うんうん、わかってきた!
1258年、日蓮聖人が35才の時に、重忠公は病に倒れ、激動の生涯を終えられたそうです。
もう自らの死が近いとわかったのでしょう、重忠公は日蓮聖人の弟君・重友公に、「自分の魂は今も貫名にある、遺骨は貫名の先祖の墓地に埋葬して欲しい」そして「日蓮が宗門弘通の本懐を達したあかつきには、一寺を建立して先祖代々の菩提を弔ってくれるだろう」と遺し、臨終されたそうです。
重友公はお父様の遺言どおり、ご遺骨を貫名に埋葬したといいます。
歴代お上人の御廟を参拝。
妙日寺は1332年、身延山久遠寺四世の日善上人が開山した古刹です。
日蓮聖人であっても、やはりご両親がいなければ存在しえなかったであろうし、ましてや先祖代々の一人でも欠けていたら、我々はお題目に出会えなかったでしょう。貫名家祖先の霊を、長きにわたって供養し続けて下さった歴代に、心より感謝です。
もともと貫名家代々の廟は、妙日寺からみて南、石野という場所の正覚寺にあったそうです。しかし正覚寺が廃寺になり、明治時代に妙日寺に移されたといいます。
現在の静謐な廟に落ち着いたのは、実は明治期だったんですね・・・。
本堂隣にあるお堂は、思親殿です。
このお堂の裏側に日蓮聖人のご両親の供養塔が配置されているので、拝殿的な役割なのかな?
こちらには日像上人ご親刻の、日蓮聖人とご両親のご尊像が安置されているそうですよ。
ところで山門に掛けられていたこの木札
右側の一列は意味がわかりますが、左側が・・・特に「女へんに考(IMEパッドになかった!)、妣」って何だ???
調べてみると、一般的には考妣(こうひ)といって、「亡き両親」を意味するそうです。
てことは、お祖師様の亡きご両親の魂の宿るご遺骨・・・が安置されている霊場、って感じかな?
するとこの石塔に刻まれた言葉も、ご両親の威徳を讃えたものなのでしょうね。
日蓮聖人のような、時代の異端ともいうべき方を子供に持ったわけですから、安房の国での風当たりはどんなに激しいものだったでしょう。それでも、いつもご両親は日蓮聖人を信じ、味方になり、そして心の拠り所になっていたそうです。
親思う心に勝る親心ですね・・・。
妙日寺、感謝を気持ちを伝えにまた来たいと思います!
ご入滅の地・池上本門寺のお会式はあまりにも有名ですが、この日を中心に各地の日蓮宗寺院でお会式法要が営まれます。
ちなみにウチの菩提寺は今日、お会式がありました。他の壇信徒とともに、日蓮聖人に報恩・感謝のお題目をあげてきましたよ!
日蓮聖人がご入滅された時の様子を描いた「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)。
ご正当の日の朝、改めて拝むようにしています。
しかし・・・前から気になっていたんだよな・・・
日蓮聖人のご兄弟の氏「貫名」を見る度に、訪ねなきゃいけないな~と思っていたお寺があるのですが、つい最近、義母の実家の法事があり、浜松を訪ねる機会があったので、少し足を伸ばして訪問してきました!
袋井市にある妙日寺です。
日蓮聖人のお父様方の菩提寺、と聞いたことがあります。
境内入口に大きい法塔が建っていますね。
よく見ると、右側に「妙日尊儀」、左側に「妙蓮尊儀」と刻まれています。
お父様の法名を寺名にしてあるんですね。
日蓮聖人のご両親をご供養しているお寺、で間違いなさそうです。
小学校に隣接する形で境内があるのですが、なかなか入口がわかりませんでした。
お寺の北側に走る旧東海道に入口があります。
山門です。当日は秋雨前線が台風に刺激され、雨が降り続いていました。
ま、雨のお寺もしっとりした感じで嫌いではないんですけどね!
まずは本堂の前で合掌。
山号は「貫名山」です。
境内は日蓮聖人のご先祖・貫名氏代々の邸宅跡と伝えられています。
日蓮聖人の5代前の先祖は、井伊左衛門盛直という方、いわゆる名門・井伊家の方でした。
盛直は三人いたお子さんに一人は井伊家、もう一人は赤佐家を継がせ、さらにもう一人・正直に山名郡(現在の袋井、磐田あたり)を任せたそうです。
正直は山名郡の貫名に館を築き、「貫名」を氏としました。
つまり正直が貫名氏の始祖であり、貫名家は井伊家の分家に当たります。
本堂横、渡り廊下の下に、貫名家廟の入口がありました。
宝塔を中心とした貫名家廟です。
実際の墓石はすっかり丸く小さくなってしまっていますが、よく清められており、手篤く供養されているのがわかります。
始祖である貫名四郎正直公
2代・貫名次郎行直公
そして3代・貫名五郎重實公の名前が刻まれていました。重實公は日蓮聖人のお祖父様にあたる方ですね!
そしてその横には、日蓮聖人のご両親を供養する五輪塔があります。
雨が避けられるよう、屋根で護られています!
江戸初期に大和柳生藩主・柳生但馬守宗矩が寄進したものだそうです。
白っぽい石で造られた五輪塔です。
薄いけどわかるかな~?
右側には「慈父貫名重忠」「法號妙日尊儀」、左側には「悲母清原氏」「法名妙蓮大姉」、そしてご両親に囲まれるように中央に「南無日蓮大菩薩」。
3代・重實公の子である貫名二郎重忠公は、源平の合戦において平氏に味方したことが原因で鎌倉幕府から睨まれ、安房の国小湊に流されてしまったそうです。
そうか・・・だから日蓮聖人は安房の国でお生まれになったんだ。うんうん、わかってきた!
1258年、日蓮聖人が35才の時に、重忠公は病に倒れ、激動の生涯を終えられたそうです。
もう自らの死が近いとわかったのでしょう、重忠公は日蓮聖人の弟君・重友公に、「自分の魂は今も貫名にある、遺骨は貫名の先祖の墓地に埋葬して欲しい」そして「日蓮が宗門弘通の本懐を達したあかつきには、一寺を建立して先祖代々の菩提を弔ってくれるだろう」と遺し、臨終されたそうです。
重友公はお父様の遺言どおり、ご遺骨を貫名に埋葬したといいます。
歴代お上人の御廟を参拝。
妙日寺は1332年、身延山久遠寺四世の日善上人が開山した古刹です。
日蓮聖人であっても、やはりご両親がいなければ存在しえなかったであろうし、ましてや先祖代々の一人でも欠けていたら、我々はお題目に出会えなかったでしょう。貫名家祖先の霊を、長きにわたって供養し続けて下さった歴代に、心より感謝です。
もともと貫名家代々の廟は、妙日寺からみて南、石野という場所の正覚寺にあったそうです。しかし正覚寺が廃寺になり、明治時代に妙日寺に移されたといいます。
現在の静謐な廟に落ち着いたのは、実は明治期だったんですね・・・。
本堂隣にあるお堂は、思親殿です。
このお堂の裏側に日蓮聖人のご両親の供養塔が配置されているので、拝殿的な役割なのかな?
こちらには日像上人ご親刻の、日蓮聖人とご両親のご尊像が安置されているそうですよ。
ところで山門に掛けられていたこの木札
右側の一列は意味がわかりますが、左側が・・・特に「女へんに考(IMEパッドになかった!)、妣」って何だ???
調べてみると、一般的には考妣(こうひ)といって、「亡き両親」を意味するそうです。
てことは、お祖師様の亡きご両親の魂の宿るご遺骨・・・が安置されている霊場、って感じかな?
するとこの石塔に刻まれた言葉も、ご両親の威徳を讃えたものなのでしょうね。
日蓮聖人のような、時代の異端ともいうべき方を子供に持ったわけですから、安房の国での風当たりはどんなに激しいものだったでしょう。それでも、いつもご両親は日蓮聖人を信じ、味方になり、そして心の拠り所になっていたそうです。
親思う心に勝る親心ですね・・・。
妙日寺、感謝を気持ちを伝えにまた来たいと思います!