戸田の妙顕寺は、日蓮聖人が佐渡に配流される際にお泊まりになったといわれる、新倉のほど近くにある古刹です。
和光の妙典寺と、ほぼ同じ縁起を持ちます。
正面右の大きな題目法塔の側面には・・・
「子安佛安置」と刻まれています。
正面左の古い題目法塔には・・・
開山が日向上人であることが刻まれています。
山門の奥に、もうひとつ門があるぞ。
仁王門だと思われます。結構歴史のある門なのではないでしょうか。
とても個性的な扁額ですね!
仁王門の前にある灯籠には「身延山」の文字
戸田の妙顕寺は以前は久遠寺末だったそうで、その名残りなのかな?
本堂に向かう道の両側にはパンジーが植えられています。
よく手が入れられている境内です。
まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。
台座には開目抄の一節。
お祖師様が佐渡に到着してすぐに執筆を始めたと言われています。ということは、この界隈をお通りになった数週間後には筆を執ったのかもしれませんね。
本堂です。初夏の日差しが屋根を明るく照らしています。
本堂には「子安堂」の扁額。
境内の供養塔に、日蓮聖人とこのお寺との関係を示す、彫刻?塑像?があったので紹介します。
文永8(1271)年10月11日、久米川を出発した日蓮聖人は新倉の地を通りかかりました。
そこで日蓮聖人は新倉の地頭をしていた隅田五郎時光(妙典寺では墨田五郎時光と表記されていた)公に再会しました。
数年前に房総の笠森観音で帰依した、日蓮聖人にとっては旧知の信者さんだったわけです。
しかしその頃、隅田五郎時光公の奥様は難産に苦しんでおり、日蓮聖人に安産の祈祷を乞いました。
日蓮聖人は早速祈祷を行い、安産祈願の護符をしたためます。
この護符を苦しむ奥様に飲ませたところ、間もなく仏様の功徳により・・・
元気な男の子が生まれました。
隅田五郎時光公は、男の子に德丸と名付けました。
時は流れ德丸が9才になった頃、隅田五郎時光公は父子で身延山に日蓮聖人を訪ねました。
「あの時の祈祷により無事生まれたのが、この德丸です」とでもお話しになったのでしょうね。
隅田五郎時光父子は恐らく相当な覚悟をもって身延山を訪れたのでしょうか、そこで出家をしました。
時光は日德、德丸は日堅の法名を日蓮聖人から頂き、のちに新倉に日向上人をお招きして妙顕寺を開きました。
・・・とこんな感じでしょうか。絵で示されているとイメージが湧きますね!
最後に埼玉・戸田の宗門を支えてきた歴代お上人の御廟を参拝しました。
宗祖日蓮聖人の供養塔を中心に、数多くの石塔が並んでいます。
こちらは開山として招かれた日向上人
こちらは開基の日德、日堅の法名が刻まれている御廟です。
季節は初夏!
ツツジがそろそろ終わり、
アジサイが似合う季節になってきました!
そう、日蓮宗ゆかりの橘の木もありましたよ!
橘はみかんの仲間だから、そろそろ白い可憐な花が咲く頃かな?