深草にある日像上人のお寺、寳塔寺を参拝してきました!
深草丘陵の西麓に広がる地域、その昔は一面に草が生い茂り、そのため「深草」と呼ばれたようです。
深草は京都盆地の中でも、いち早く稲作が始まった場所でした。
そして穀物、農耕の神様として「伊奈利社」が鎮座されたのです。
今の伏見稲荷大社のルーツですね!
今やパワースポットとして、世界中から参詣者が絶えません。
寳塔寺は伏見稲荷のすぐ南側にあります。
(JR奈良線)
JR奈良線の稲荷駅からも、京阪電車の龍谷大前深草駅からも近く、アクセスは抜群です!
山門が見えてきました。
寳塔寺の入口ですね。
大きな石柱に、日像上人の御廟所である旨が刻まれています。
裏側に回ると、
お?大阪の川端半兵衛さん・・・見覚えのある名前だぞ。
ん~と・・・誰だったっけ?
室町中期と伝わる山門をくぐり、参道を進みます。
寳塔寺境内は背後にそびえる七面山(標高101m)の西側斜面に広がっています。
画像からも、緩やかな傾斜を感じてもらえると思います。
白壁の合間に、たくさんの塔頭寺院があります。
数えたら6ヶ寺もありました。
本堂域の直前にあるのは、朱塗りの仁王門です。
宗紋の大提灯といい、華やかですね!
仁王門の天井には牡丹の花がたくさん!
日像上人の後継者・大覚大僧正の出自は近衛家説が有力ですが、牡丹の天井画は近衛家の家紋(近衛牡丹)に関係あるの・・・かもしれません。
山号は深草山です。
本堂です。
間口が広いので、大法要も開けそうです。
寳塔寺の伽藍群は、室町時代の戦乱(応仁、天文法華)でほぼ燃え尽き、その後に再建されていったようです。
この本堂は慶長13(1608)年再建といいます。
ただそれ以降、火災に遭わずに現在に至っているって、素晴らしいですよね!
こちらの多宝塔は更に古く、永享10(1438)年の墨書きが残っていることから、戦乱でも焼けずに今に至る、京都でも最古級の多宝塔だそうです。
方丈で優しそうな奥様にご挨拶。
ご住職は法務でご不在でしたが、書き置きの御首題を戴くことができました。
歴代お上人の御廟に参拝。
墓誌には第48世までのお上人が刻まれていました。
日像上人の御廟を擁する大寺、今日まで護持するには、歴代大変なご苦労があったことでしょう。心から感謝致します。
縁起によると、もともとこちらには平安時代の公卿・藤原基経公(初代関白)の発願で創建された極楽寺(天台宗→真言律宗)があったようです。
(開山二世良桂律師、中興八世日銀上人の頌徳碑)
徳治2(1307)年、1回目の洛外追放に遭った日像上人が、極楽寺の住職・良桂律師と三日三晩問答し、破折しました。
これを機に、良桂律師は日像上人に帰依し、極楽寺も法華経に改宗したといいます。
なので、寳塔寺開山は日像上人、良桂律師が二祖となります。
いろんな資料を読んでゆくと、この問答、日像上人が鶏冠井の向日神社前で布教している時に、法論に及んだという説が有力なようです。
(鶏冠井にて、深草良桂上人、実眼上人が帰依する様子:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
時あたかも二度の元寇を経て鎌倉幕府が衰退し、不安渦巻く世の中。
境内からは伏見の街、その向こうに西山の山並みが見えます。
あの麓あたりに、鶏冠井があるんですね!
客殿前には貴人がくぐりそうな高麗門。
で、手前の石灯籠には、また川端半兵衛さんだ!
・・・そうだ、思い出した!
僕は身延山久遠寺に参拝する際、まず御真骨堂と開基堂にお参りするのがルーチンなんですが、その開基堂前の石灯籠↓
裏側に、川端半兵衛さんと刻まれていました。
昭和60(1985)年、身延山久遠寺に大本堂ができる前、あの場所には本師堂という、釈尊立像(※)を奉安するお堂があったそうです。
(久遠寺本師堂:身延山久遠寺刊 身延山古寫眞帖より引用)
身延山史には、昭和初期、本師堂の修繕にあたって、「兵庫県の本願人 川端半兵衛夫妻は、仏壇仏具の荘厳や石灯籠にいたるまで、独力をもって寄進した」と記載がありました。
(※)四條金吾頼基公造立、現在は釈迦殿に奉安されている
後日、川端半兵衛さんについて寳塔寺のご住職に問い合わせると、丁寧に教えてくださいました。
代々の大坂商人であり、法華篤信の家系であった川端半兵衛さんは、寳塔寺に深いご縁、信仰があった、いわゆる大檀那的な存在のようです。
寳塔寺本堂にお祀りされているお釈迦様のお像は、川端半兵衛さんが久遠寺本師堂のお像と同寸同形に作らせたもので、昭和4年に寳塔寺に寄進されたといいます。
また、川端半兵衛さんご自身は昭和33年に逝去されますが、ご遺骨は一族とともに寳塔寺墓所に納められているそうです。
こういった方々の丹精のおかげで、現在の宗門があるのでしょう。感謝に堪えません。
本堂左側から日像上人御廟、そして七面宮に至る参道があります。
この辺りから、空気がシュッとしてきます。
日蓮聖人のご尊像や三十番神堂をお参りしたあと、鳥居をくぐり、森に囲まれた階段をさらに登ってゆきます。
急に視界が開け、妙見様、お稲荷さんなど、数棟のお堂が現れます。
このうち一番大きなお堂が七面宮です。
こちらに奉安されている七面様のお像は、寛文6(1666)年のものといいます。
身延山・高座石での七面大明神伝説を初めて記した深草元政上人(1623~1668)ご在世と一致しますから、こちらの七面様には元政上人が大きく関係しているのかもしれません。
ちなみに、妙顕寺で出家し研鑽を積まれた元政上人が、子弟を教育するために設けた深草山瑞光寺↑は、寳塔寺のすぐお隣にあります。
それでは日像上人の御廟に向かいましょう。
七面宮が山頂付近だとしたら、山の中腹に御廟域があります。
奥のお堂が像尊本廟、つまり日像上人の御廟です。
遥拝所まであります!
石の上に正座して、上人の遺徳に感謝しました。
御廟域には、日像上人が13才、経一丸時代の坐像があります。
弘安5(1282)年10月11日、ご入滅が近い日蓮聖人に頭を撫でられ、帝都開教のご遺命を受けているお姿だそうです。
(宗祖の御棺前で日朗上人に剃髪される経一丸:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
10月13日朝、日蓮聖人は入寂されますが、翌14日、御棺の前で(!)経一丸は師匠の日朗上人に剃髪され得度、肥後阿闍梨日像と改名します。
日像上人は宗祖13回忌を機に上洛、40年間もの艱難辛苦の末、「妙顕寺を勅願寺とする」という後醍醐天皇の綸旨を賜ります。
(具足山妙顕寺の表門)
ここに日蓮聖人との約束、帝都開教を果たし、ついに日蓮宗が天下公認となったわけです。
このとき日像上人は既に66才になっていました。
康永元(1342)年、74才となった日像上人は、後事を大覚妙実上人に託します。
(妙顕精舎にて遷化される日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
「没後、妙実を視ること、吾を視るごとくせよ」という言葉を、妙顕寺衆徒に伝えた2日後、11月13日に日像上人は化を遷されました。
生前、日像上人は常々、自分が死んだら、深草で遺体を荼毘に付し、山腹に葬ってほしいと話していたそうで、弟子信者たちがその通り、丁重に弔ったといいます。
寳塔寺参道、塔頭寺院に囲まれた場所に、日像上人御荼毘処が残っています。
日像上人の御廟が定まると、寺号をそれまでの「極楽寺」から「鶴林院」としたそうです。
(高麗門に掲げられた鶴紋)
お釈迦様がご入滅された時、沙羅双樹(さらそうじゅ)というお釈迦様とご縁の深かった木が、悲しみのあまり鶴のように白くなった、という伝説が転じて、鶴林院は日像上人の墓所、恩に報いる場所を意味するのでしょう。
御廟の墓標には、日像上人ご染筆の題目宝塔が用いられており、これにちなみ、のちに寺号が「寳塔寺」となりました。
(七口題目石の前で、草刈籠に座って説法する日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
この宝塔は日像上人が若い頃、都の七つの出入り口(※)にわざわざ建てたもので、いわば「南無妙法蓮華経」を、可能な限り大衆の目にさらす戦略、布教塔だったと考えられます。すごい熱意ですよね!
(※)京の七口:鞍馬口、粟田口、伏見口、東寺口、丹波口、大原口、長坂口・・・諸説あり
また、日像上人御廟が寳塔寺にあることに倣い、妙顕寺の歴代御廟もこちらにあります。
妙顕寺のお上人が毎月お掃除にいらしているそうです。よく清められていました。
深草山寳塔寺は、妙顕寺からみて南東、つまり巽(辰巳)の方角にあたることから、「巽之霊山」と呼ばれるそうです。
(像尊本廟 屋根の頂部)
古くから巽(辰巳)は、縁起が良い方角とされました。
僕は巽(辰巳)と聞いて、二つ、連想することがありました。
一つは日像上人の師・日朗上人の御廟です。
(鎌倉・妙法華経山安国論寺境内の日朗上人御荼毘所)
日朗上人は元応2(1320)年1月21日に遷化されますが、上人の遺骸は遺言通り、鎌倉松葉ヶ谷で焼かれ、その裏山に葬られました。
(鎌倉・長興山妙本寺の祖師堂)
日朗上人が終生大切にされた住坊は、鎌倉比企ヶ谷にある長興山妙本寺ですが、ここは日像上人にとっても、自身が出家したお寺であり、数多の修行を重ねてきた、いわば聖地でした。
そして日朗上人御廟(現在の逗子・猿畠山法性寺境内)は長興山妙本寺から見て、まぎれもなく巽(辰巳)の方角に位置するのです。
(逗子・猿畠山法性寺境内の日朗菩薩墳墓霊場)
日朗上人が遷化された年、日像上人は翌年に3度目の洛外追放、そして妙顕寺開創という、帝都開教の今後を左右するほどの岐路にあり、どうしても京都を離れることができなかったと考えられます。葬儀には代理で妙実上人を遣わせました。
後日、妙実上人から葬儀の報告を、涙ながらに聞いたことでしょう。
師がいかに今生を終ったのか、日像上人はそれを自らの最期に投影した、そんな気がしてなりません。
もう一つは、お祖師様のご遺文「種種御振舞御書 」に記された、龍ノ口法難の部分です。
「江ノ島の方より月のごとく、光りたる物まりのやうにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る」
(9/12深夜、片瀬・寂光山龍口寺の七面堂に至る階段上より、巽の方角を撮影)
暗闇の中、ひとり死の淵に置かれた日蓮聖人を救った光り物は、巽(辰巳)の方角から現れたのです。
孫弟子の日像上人も、「巽(辰巳)から現れる吉兆」というものに、何か深い信仰があった、というのは邪推でしょうか。
(寳塔寺本堂)
諸宗の讒訴によって京を追われ、洛外で一心不乱に説法していた若い頃。
誰も知る人がいない、石や瓦まで投げつけられる四面楚歌のなか、深草のお坊さんは、そんな自分に共鳴してくれた。
暗闇の中に見つけた一条の光。あれが起点だった・・・。
激動の生涯を過ごした日像上人が、自らの墓所を敢えて深草、妙顕寺の巽(辰巳)にした理由、僕はなんとなく、理解できました。
このブログを書いている只中、日像上人の第682遠忌、祥月命日 を迎えました。
11月とは思えない暖かい日和、南東の風がゆる~く吹いていました。
南無妙法蓮華経。
※川端半兵衛さんと寳塔寺さんとのご関係について、丁寧にご教示くださったご住職に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。