goo blog サービス終了のお知らせ 

日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

長光山妙典寺(和光市下新倉)

2018-05-22 22:50:25 | 旅行
昨年の春に訪問した久米川の立川家

文永8(1271)年10月10日、佐渡配流が決まっていた日蓮聖人が、厚木の依知を出発して最初に宿泊したご霊跡です。
↑はグーグルストリートビューに残っていた画像です。
しかし実際に訪れてみると、新しい宅地に開発されており、名残りも何もなくなっていました・・・。

日蓮聖人が立川家にお泊まりになった翌日に、新倉という場所にご一泊されたようです。

新倉にあるご霊跡が、長光山妙典寺です。


「子安御霊池」と刻まれています。
池があるのかな?


通りに面した門の内側にもう一つ門があります。
外側が総門で、内側が山門でよろしいでしょうか?


山門の天井には、格子の中に家紋が描かれています。
ご縁の深い家の家紋なのかもしれません。


山号は長光山です。


本堂です。重厚な雰囲気がありますね~


一つ疑問が生じました。
日蓮聖人が佐渡に向かう時に通ったと考えられるのは鎌倉古街道の「上ツ道」だと思われます。
上ツ道を依知→久米川と来たら、常識的には越生とか毛呂山とかにお泊まりになって、そして翌日児玉に至るのではないでしょうか?
でも、久米川から向かった新倉は現在の和光市ですよ!

どうして急に「上ツ道」を外れて、経路を東に取ったのかな?


そのヒントになるのが「墨田五郎時光」という人です。
文永4(1267)年、つまり小松原法難から3年後、日蓮聖人が房総地方を教化に巡られていた頃に、日蓮聖人に帰依した方なのだそうです。
日蓮聖人が佐渡に向かう当時、ここ新倉界隈の地頭をしていたみたい。



もしかしたら墨田五郎時光公から案内があったのかもしれませんね。
実はこの界隈には日蓮聖人にゆかりがある、といわれる場所が点在しています。
後日レポをあげます!!


その日、墨田五郎時光公の表情が暗かったそうで、それに気付いた日蓮聖人は理由を聞いたそうです。

実は墨田五郎時光公の奥様が、ここ数日難産で苦しんでいたのです。


早速、日蓮上人は墨田五郎時光公の館に行き、若い柳の枝を折ってつぶして筆代わりにし、法華堂で護符をしたためました。
そして安産祈願のご祈祷をしたそうです。

本堂の裏手に法華堂がありますが、この逸話をルーツとするお堂なのでしょう。


ご祈禱ののち、庭に湧き出ている清水を汲み、難産に苦しむ奥様の口に注いでやりました。
するとほどなく男の子が生まれたそうです!
墨田五郎時光公、嬉しかっただろうな~

この湧水は現在でも「子安の池」として清められています。
出産を控えた方々は、池のほとりで手を合わせることで、安産の功徳をいただくことができるのでしょうね。


本堂脇に、新本堂落慶を記念した石碑がありました。

寄進者名が刻まれているのですが、「須田」さんの多さに驚かされます。
墨田五郎時光公の子孫なのかもしれないですね!


歴代お上人の御廟を参拝。
最近、妙典寺の先代ご住職・四十九世が遷化されたらしく、現在のご住職が五十世ということになります。
本当に多くの先師たちが、このお寺の歴史を支えてきたのですね。


開山は日蓮聖人、二世が六老僧日向上人、そして三世が日德上人、四世が日堅上人となっています。
弘安2(1279)年、墨田五郎時光は身延山に日蓮聖人を訪ね、出家して日德上人になったそうです。
また、その時同行した息子(難産の末、生まれた子)は日堅の法名を頂いたといいます。

出家した翌年に自分の館をお堂にしたのが、長光山妙典寺のルーツです。


日德上人は、このブログの参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。
お祖師様ととてもご縁が深かった方と思われます。


立派な鐘楼がありました。


鐘には由緒が書かれていました。
太平洋戦争末期、国の命令で鐘を供出せざるを得ず、しばらくは鐘がないお寺だったようです。
しかし四十六世のご住職と壇信徒の努力で、立派な梵鐘を吊り下げることができたのだそうですよ。


みんなでお題目をあげることができる場所を、みんなで支える。
大事なことだと思います。



新倉をあとにした日蓮聖人は進路を西にとり、再び「上ツ道」に戻って児玉に至ったそうです。