摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

垂水神社(たるみじんじゃ:吹田市垂水町)~謎の古墳時代の空白と八十島祭の関わり

2023年05月05日 | 高槻近郊・東摂津

 

大阪でも屈指の人気を誇るベッドタウン吹田市の一角にもかかわらず、大阪府下では今でも勝尾寺と大鳥大社につぐ広大な社叢を持つという神社です。それでも、迫り来る住宅地開発でのご苦労があったようで、境内には平成23年に起こった、本殿を見下ろす位置のマンション建築計画に対して、氏子・崇敬者の署名運動などを展開して神社を守った事を記念する石碑が設置されていました。千里丘陵の高台にあり、昭和の時代には大阪城の天守閣も望めたと当社は語っています。

 

境内入口

 

【ご祭神・ご由緒】

現在のご祭神は、崇神天皇の皇子である豊城入彦命、大己貴命、少彦名命。ご由緒は、「新撰姓氏録」右京皇別に記事があります。つまり、孝徳天皇の御世、旱魃に見舞われた時、豊城入彦命の子孫である阿利真公が高樋を作り、垂水の岡の水を難波長柄豊崎宮まで通したので、天皇はその功を賞して垂水公の姓を賜り、垂水神社を司らしめたというものです。「日本の神々 摂津」で小林章氏は、もともと素朴な水神を祀っていた所へ、このような経緯から垂水公が関与するようになり、豊城入彦命一座を祀るようになった、と推察されています。

 

右が神社への石段で、左に行くと垂水の瀧や境内社、不動社があります

 

【祭祀氏族、神階・幣帛等】

当社は古来、水神として名高く、「延喜式」臨時祭では、祈雨祭にあずかる八十五座の一座に指定され、住吉大社、丹生川上神社、貴船神社、賀茂神社などそうそうたる神社とともに朝廷からたびたび祈雨祈願の要請を受けていたことが、「続日本後記」「三代実録」に記されています。神階は、「続日本後記」841年では従五位下、「三代実録」859年では従四位下を授くと昇叙されています。そして、「延喜式」神名帳では摂津国豊島郡の名神大社(月次、新嘗)となっており、同じく「延喜式」の臨時祭には、八十島祭にあたって住吉神(住吉大社)、大依羅神(大依羅神社)、海神(大海神社との推定あり)、住道神(中臣須牟地神社との推定あり)とともに座別の幣帛を給する事が規定されていました。

 

広い境内と豊かな社叢。

 

垂水氏には、①公姓、②君姓、③史姓、などがいましたが、当社と直接かかわるのは、上記の通り①の公姓の垂水公です。②は旧氏姓の大津造が701年に大通事の大津造広人が垂水君を賜ったのに始まります。③は、「新撰姓氏録」左京皇別下に見える垂水史ですが、同氏とされる上毛野は渡来系の上毛野氏をさすと、「日本古代氏族事典」で説明されています。

 

拝殿

本殿

 

【中世以降歴史】

古代は上記の通り、たいへん重んじられた神社でしたが、中世には衰退したようです。江戸時代の「摂津名所図会」では、゛垂水。社頭に有り。精冷味甘味。諸病を治す。都て此辺に霊泉多し゛と書かれ、また「摂津志」には、゛垂水神社前にあり、其泉湧くこと沸くが如く灌漑の利太だ溥(おおき)く、又社側に一精泉あり、潺湲(せいかん)として竭(つ)きず゛と説明されていました。

明治5年に郷社となり、同40年には神饌幣帛料供進社に指定されています。

 

皇太社。ご祭神は、伊佐那岐命 伊佐那美命 天照大神

祓戸社。ご祭神は息吹戸主命、瀬織津比売命、速開津比売命、速佐須良比売命

 

【垂水弥生遺跡】

境内にある、昭和63年付の吹田市による説明掲示によると、垂水遺跡は千里丘陵東南端の丘陵上に展開する弥生時代を中心とする集落遺跡で、昭和初期に宅地開発に伴って発見され、宅地開発が進んだために今は垂水神社の裏山の境内地のみに当時の面影が残っているのみです。昭和48年から51年までの関西大学と吹田市による調査では、竪穴式住居址4棟、高床式建物址、焼土抗、多数の弥生土器、鉄鏃などなどが発掘されました。この遺跡は弥生時代中期後半からムラとしての規模が大きくなりますが、古墳時代に至ると衰退し、その頃には南方の垂水南遺跡が新たに出現しました。

 

【社殿、境内】

昭和49年に、拝殿、幣殿、本殿が全面的に造営され、現在に至っています。

 

戎(稲生)社。ご祭神は、金山比古命、金山比売命、豊宇気比売命、事代主命

 

【志貴皇子の万葉歌】

「石激る 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」

この「垂水」については、地名とする説と普通名詞とする説に解釈が分かれ、地名でも「垂水」は幾つか存在します。先の小林氏は、あえて当地の情景を指すものとしたい、と説明されています。志貴皇子は天智天皇(中大兄皇子)の第七皇子で、光仁天皇の父にあたる御方。つまり、その父上は大化の改新における最重要人物であり、難波長柄豊崎宮つまり難波宮でご活躍した御方です。志貴御子自身も706年に難波を訪れていて、これは父の往時を偲んでの旅であると思われ、その際に名高い水神の聖地で豊崎宮とゆかりの深い当地を訪れた可能性は、大いにあったと考えてもよいのではなかろうか、と小林氏は述べられていました。

 

垂水の瀧の近く鎮座する三輪社。大神神社と配祇神が共通する事から、大物主命を勧請。石の祠です

 

【伝承】

当社のご由緒、歴史を見ると、弥生時代の痕跡と、大化の改新までの間に大きな空白期間があるのが気になります。富士林雅樹氏「仁徳や若タケル大君」には、ごく簡単なのですが、その期間の当社について記載があります。上記した「延喜式」臨時祭の八十島祭が、応神大王を引き継いだいわゆる河内王朝政権によって始められたものであり、「延喜式」に記載の神社がその当初から関与していたと書くのです。

 

・垂水の小瀧の方です

 

垂水神社とはじめとする五社は、応神大王の母君・神功皇后の新羅遠征に従軍したらしい重臣たちの神社であり、その御子である応神帝の政権を引き継ぐ正統性のために五社の参加が求められたと主張されています。ただ、住吉社や大海社がアマ氏系の津守氏、住道社が中臣氏、そして大依羅社の依羅(ヨサミ)氏といえば依網吾彦(ヨサミアビコ)男垂見が神功皇后の新羅遠征に同行してるので、理解しやすいのですが、垂水神社の関係者については説明が抜けていて、読んでて不思議に感じます。一般の説の一つは、依網吾彦男垂見の名が「垂水」に関わるという考えもあるようで、その事の説明を省略したのでしょうか・・・神功皇后が遠征の途中訪れた北九州の宗像にも「垂見峠」を水源とする「樽見川」があり、「神功皇后の謎を解く」で河村哲夫氏が、依網吾彦男垂見と関係があるかもしれない、と書かれていました。

個人的に思いつくのが、神戸市垂水区の海(カイ)神社です。「延喜式」神名帳では、「アマ」と「タルミ」の両方の読みが併記されていて、この海神社は定説的にも海部との関りが想定され、また神功皇后にまつわる創祇由緒も持つことからも、「垂水」に海部氏との関りを感じたくなります。

 

垂水の瀧。瀧音がしっかり響くほど流れていました

 

一方で、配祇神の大己貴命、少彦名命のことが一般に語られないのも、気になります。ただ有名な神様をお招きしただけでしょうか。出雲伝承を元にした私的なあて推量では、垂水弥生遺跡の活気は、時期的に見ても東出雲王国から摂津三島地域に出雲人が移住したらしい時期であり、この辺りにも広がったのではないかと勘繰りたくなります。そうすると共に初期大和勢力を構成したアマ氏系が関わる事もつながりそうです。土器などの遺物の形式などはどうなのでしょうかね・・・ 古墳時代が始まる3世紀に衰退したというのも、ハマる感じがします。そして、神功皇后の新羅遠征に協力したことから「海部」の名を授かり、八十島祭以降も引き続き河内王朝に重要視されていったという事でしょうか。

とにかく、古代に権威のあった名神大社にもかかわらず、そこに至った経緯が十分に説明されてなく、より注目して検討していく必要のある神社である事は間違いないと感じました。

 

不動社までの道中に、垂水の瀧や境内社、万葉歌碑があります

 

(参考文献:垂水神社公式HP・境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、河村哲夫「神功皇后の謎を解く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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