摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

奈具神社(京丹後市弥栄町船木)~丹後の奥地に静かに鎮まるトヨ ウカノミタマと大弥生遺跡群

2024年01月27日 | 丹後・丹波

[ なぐじんじゃ ]

 

この日、小雨のぱらつく天候の中、気を揉みながらなんとか籠神社から比沼麻奈為神社とめぐって来て、最後この奈具神社に着くころには天気も落ち着いてきました。こうして、私の心もこの地でようやくナグしくなりました。小さな神社ですが、木々に取り囲まれたこんもりした空間に、苔むした敷地が良い感じに馴染み、しばしその境内を堪能させていただきました。神社の前は田圃が左右に広がり、そのすぐ向こうには奈具・奈具岡遺跡群のある丘陵が続くという、舟木地区へはいる谷間の地に鎮座しています。

 

谷間の山麓に鎮座します

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、豊宇賀能売命。ご祭神と当社の由緒に関わるとされる話が、「丹後国風土記」逸文に載るという天羽衣伝説です。

あらすじは、゛昔、丹後国丹波郡比治山(現峰山町樽留の菱山)の山頂に泉があり、八人の天女が舞い降りて水浴をしていました。そこへ和奈佐と名のる老夫婦があらわれて一人の天女の羽衣を隠し、天に帰れなくなったその天女を養女にして十余年の間一緒に暮らしました。その天女は酒をつくって老夫婦を富ませましたが、10年以上経った頃に突如その家を追われてしまいます。荒塩の村などを流浪した末に船木の里奈具の村にたどり着き、「ナグしく成りぬ(心が安らかになりました)」と語ってその地にとどまりました。これが奈具の社の豊宇賀能売(トヨウカノメ)命である゛という、その「奈具の社」が当社だと一般に理解されています。

 

一の鳥居。見出し写真は奥の二の鳥居です

 

「日本の神々 山陰」で青盛透氏は、豊宇賀能売命は穀霊神であり、天女はおそらく白鳥のイメージに由来するものだろう、との考えを述べられています。白鳥と穀霊神が結び付けられる例は多く、穀霊や福貴の神が遠い世界から訪れるという古代の信仰を示しているということです。この羽衣伝説は、竹野川流域に分布していて、近隣には豊宇賀能売命が醸造した御手洗池があったらしく、そこはこの女神が逝去した地でもあったとされています。

一方で、天女が舞い降りた方の地にあたり、この神を豊受大神として祀っているのが比沼麻奈為神社で、伊勢神宮外宮の元宮の論社と見られています。

 

 

【神階・幣帛等】

「延喜式」神名帳の丹波国竹野郡に載る「奈具神社」に比定されています。なお、丹後には加佐郡(宮津市由良)に同名の式内社がもう一社あり、同じご祭神が祀られています。

 

拝殿。建具の枯れた風合いが独特

 

【中世以降歴史】

「弥栄町史」に載る歴史として、1443年にこの地は大洪水に見舞われて船木村は一時廃村となり、村民が外村・溝谷村に移った事に伴い奈具社も溝谷神社に合祀されたことがありました。しかし、近世後半に式内社復活の動きが高まる中で、1832年に溝谷神社氏子と奈具神社氏子に間に紛争が起こりました。この争いは明治時代に入ってもしばしば繰り返され、船木村から神祇省への提訴によって、明治6年に溝谷神社の相殿に収められていた奈具神社の霊石と式内号の返還が実現して、現在に至っています。ただ、奈具神社には1719年と1793年の再建棟札が残っている事から、それ以前にも現在地に社殿が建立されていたようです。一方、溝谷神社の相殿には、今も奈具神社のご祭神が祀られていると云います。

 

本殿は覆屋と思われます

 

【境内】

「日本の神々」で青盛氏は、境内社として秋葉神社、若宮神社、新羅社、姫宮社が祀られると書かれていますが、社殿の左右の二社しかありませんでした。特に姫宮社は、毎年新しい檜の葉で屋根をふき替えることになっていたと青盛氏は書かれていますが、そのような屋根の祠は有りませんでした。「弥栄町史」では、秋葉神社(祭神、加具津智命)と若宮神社(祭神、素戔嗚命)だと書かれるようですが、それぞれどちらの祠かはわかりません。ちょっとネット情報を見たら、右が秋葉神社で左が新羅社だとの説もありましたが明確でないです。

 

境内の隅のほうにある石柱

 

さらに青盛氏は、社日と呼ばれる石柱が有って農神として崇敬されているとも書かれていますが、それと思しき石柱がありました。五角形の石柱で、各面には、天照皇太神、大己貴命、少彦名命、埴安姫命、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)の名前が刻まれています。埴安姫命は、記紀ともに伊邪那美命が加具津智命を生んで病み臥せた時に生んだ土の神で、倉稲魂命は「古事記」では須佐之男命の子、「日本書紀」では伊弉諾命と伊弉冉命の間に生まれた神で、いわゆるお稲荷さんです。

 

社殿向かって右の境内社の祠

 

【祭祀・神事】

当社の例祭は、「踊子」(「しかか踊」とも)と称する古風な神事芸能で、京都府指定無形文化財になっています。朝鮮半島から奈具の神に調貢を捧げた姿を今に伝えるものといいますが、青盛氏は実際の芸能様式は中世後期に流行した風流囃子物(拍子物)だとされています。人の編成は、少年の締太鼓打ち二人、太鼓持ち二人、かんこ打ち四人、スリササラ四人で、先導役に成人の鬼役が一人加わります。曲は器楽曲で歌謡ばなく、一番・二番・三番とよぶ曲がありますが、基本はみな同じなようです。それぞれ楽器を演奏しながら「ホーイホイ」と囃し、それぞれに簡単な所作が伴います。

 

社殿向かって左側の祠

 

また当日は、「お旅」と称して船木の庚申堂前から風流傘(傘鉾)を先頭に踊子も加わり、氏子総出で行列を組んで出発し神社に向かいます。この行列には「オヒマ」と称する御供二膳(一膳は鏡餅と赤飯、もう一膳は大根と枝豆)が捧げられ、この役は氏子中最年少の女児をもつ家が務めます。青盛氏は、これは各地の「田遊び」や御田植祭に残る「ヒルマモチ」(昼飯持)にあたり、古い風習をつたえるものだと考えておられます。踊子は途中にある小祠に芸能を奉納したあと、当社に到着すると本殿や境内社にも奉納したり、参詣人の希望に応じて願の踊を演じたりします。

 

 

 

【鎮座地と奈具岡遺跡】

鎮座地の「船木」の名は、平城宮跡出土木簡にすでにみえていて、古代の舟木郷に属していたと見られます。上記の溝谷神社のご祭神・新羅大明神が航海安全の神とされる事と結びつけて、朝鮮や大陸との関係を想定する説が有ります。

当社の南西方向、田圃を隔ててすぐの処で、竹野川中流域の丘陵斜面と谷部にかけて発掘されたのが、弥生時代中期中葉から後葉を中心とする集落と、弥生時代中期から後期の墓域から構成された奈具岡遺跡です。奈具遺跡、奈具谷遺跡、奈具墳墓群などなどの奈具・奈具岡遺跡群の中核遺跡で、その出土品は国の重要文化財になっています。

 

奈具岡遺跡の説明掲示板があるところ。今は埋め戻されてます

 

奈具岡遺跡の集落は丘陵斜面に展開し、円形住居が96基検出されました。北側の谷部が、緑色凝灰岩の管玉を製作したエリア、そして丘陵で隔てられた南側の谷部には、水晶や透明度の高い石英塊を素材とする小玉、棗玉、勾玉、ガラス小玉の制作工房となっていました。出土遺品には、玉作の原料となる石材、未成品や失敗品、玉の加工に用いられた石製、鉄製の加工具とその未完成品があり、弥生時代の玉作の工程が復元できる貴重な資料が大量に出土しました。特に硬い水晶や透明度の高い石英による玉類は、穿孔に鉄製の棒状工具を使用していて、加工に伴う鍛冶関連遺物も認められます。また、大陸から輸入されたカリガラスや鉛ガラスを加工した痕跡も認められ、これら工房のあり方からは、この地の集団が高度の技術レベルによる手工業生産で、遠隔地との交易を進め、首長のもとに富を蓄積させてこの地の弥生文化を発展させた歴史が見えるようです。

 

 

さらに、府立清新高校の敷地あたりにあった奈具遺跡の方は弥生時代の集落遺跡で、奈具岡遺跡で玉作り工房と営んでいた人々の集落と考えられています。そしてその奈具遺跡と奈具岡遺跡の間にある谷筋に位置していたのが奈具谷遺跡で、弥生時代中期の水田・水路跡やトチの実のあく抜き場などが見つかっています。丘陵の西端の竹野川に近い位置にあった奈具谷4・5号墳は、弥生時代中期末から後期の方形貼石墓で、墳丘に石を貼ったお墓です。特定の個人が埋葬されている可能性があるとのことです。

 

境内から奈具岡遺跡方面を臨む

 

【伝承】

東出雲王国伝承から想像される゛天女゛の悲劇に関わるロマン的な想像は比沼麻奈為神社の記事で記載しましたので、こちらでは違う話を。

「お伽話とモデル」で斎木雲州氏は、乙女の水浴と衣盗みの話は古代には日本各地にあったと書かれています。地方では母系家族制が遅くまで続き、結婚相手を決めるのは女性側だったので、男は結婚するのが大変だったというのです。なので、水浴中の女性の衣を盗んで女性に結婚の約束をさせるのは、良い方法だったそうです。そんな乙女が天女に変わったのは、神社がご祭神が天から来たと説明するためだったと斎木氏は言われます。つまりはおとぎめいた話にぼやかして、神社にゆかりの人物がどこからやって来たのかをあまり考えないように曖昧にしようとした、と理解されます。

 

 

斎木氏は、安土桃山時代から江戸初期の武将で歌人・文人でもあった、三浦為春の「太笑記」の一説を紹介されています。

゛「さやかなる 鷲の高峰の 雲居より 影やはらぐる 月よみの森」 (伊勢の)外宮月神のことを、いにしへの西行のよみ給ふ・・・゛

西行の詠んだ゛月よみ゛は、一般には伊勢神宮の別宮を歌ったものと解されているようですが、三浦為春はそれを゛外宮月神゛だとしていることから、西行もそう考えていた事が分かる、と斎木氏は結論付けられています。実際にどう書かれているか、見てみたいですね。

 

境内に残る石碑

 

月神、ツクヨミ神となると、やはり豊国宇佐の古代月神信仰と思いたくなります。宇佐神宮の元神職家の後裔であった宇佐公康氏が「古伝が語る古代史」で、古代宇佐族のツクヨミ信仰について明確に語っておられ、伊勢神宮別宮である 月読宮月夜見宮の記事で紹介しました。「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏は、雄略天皇の時代に既に比治山の真名井から宮津市の真名井神社に遷座されていた豊の月神と、当時の海部氏の宇賀御魂神から、豊受大神という神名が生み出されたと説明されます。そして、「豊」の字に「豊の月神」が含まれているといいます。その雄略天皇22年に豊受大神は伊勢に遷宮されたようですが、その経緯には「日本書紀」で蓬莱山に行ったと書かれた浦島子が関わると「仁徳や若タケル大君」に詳しく書かれています。

 

船木の通り堂。谷間の奥の船木村への門としての役割だったもの

 

(参考文献:奈具・奈具岡遺跡群説明掲示板、今城塚古代歴史館・特別展図録「古代の日本海文化-タニワの古墳時代-」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 山陰」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 比沼麻奈為神社(京丹後市峰... | トップ | 多治速比売神社(荒山宮:堺... »
最新の画像もっと見る

丹後・丹波」カテゴリの最新記事