摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

爲那都比古神社(いなつひこじんじゃ:箕面市石丸)~薬師岩が秘める爲那都彦の不思議

2023年01月06日 | 高槻近郊・東摂津

 

馴染みにくそうな不思議なお名前を持つ延喜式式内社ですが、駐車場からしてキッチリ舗装されてなかなか広く、境内もきれいに整えられている感じで、たまたま平日に訪れたにも関わらず着飾った七五三の家族連れがおられたりで、現在も広く市民に親しまれている神社であると感じました。

 

神門

 

【ご祭神・ご由緒】

爲那都比古、爲那都比売の二神をまつります。神社名にある「爲那」は、為奈、為名、猪名とも書かれ、「日本書紀」仁徳天皇三十八年に、天皇に牡鹿を献上した佐伯部がいたという、地名の為名県のことと考えられています。ただ、猪名県主に関する史料はなく、当社との関係など明確でないですが、猪名県主をまつる県主神社であったとの考えがあります。また、同じく「日本書紀」の応神天皇三十一年では、新羅の調の使いがいた武庫の港で起こった失火に対し、新羅王が驚いて優れた造船・木工の匠を奉りますが、これが猪名部らの祖先だと書かれています。猪名県の所在地はのちの河辺郡為奈郷を中心にして、猪名川に沿って豊島郡にまでおよんでいたと考えられています。

 

拝殿

 

【祭祀氏族】

「日本書紀」天武天皇十三年八色の姓の猪名(為名)真人や「新撰姓氏録」で為名真人と同祖とする川原公を当社と結び付ける説(「大日本史」「神名帳考証」)や、この二氏の祖が宣化天皇の上殖葉皇子であることから、当社の二神を上殖葉皇子夫妻とする説(「特選神名蝶」「神社カク録」)があるようですが、「日本の神々 摂津」で松下煌氏は、「三代実録」で為名真人や川原公の本拠地が西方の猪名川を越えた川辺郡であることなどから、首肯できないとされます。

それよりも、吉備津彦、磯城津彦、伊勢津彦などの「地名・ツ・ヒコ」の類型に当てはまる神名から、律令制以前の当地方の土着豪族の首長の神格化で、それが産土神となった可能性が高いようです。そして、上記「書記」の記載から想定される猪名県主の存在が重要な示唆であり、当社のすぐ西の如意谷から出土した大型袈裟襷文銅鐸(高さ84.5センチ、突線鈕3式。滋賀県大岩山出土鐸にも同形式がある)にかかわる集団だと考えられるのです。

 

本殿。流造

 

猪名部氏について「日本古代氏族辞典」では、渡来系の土木技術者である猪名部とその伴造の後裔氏族と説明され、上記した「書記」の応神紀を取り上げます。しかしその一方で、「新撰姓氏録」での猪名部造は、゛伊香我色男命之後(左京神別上)゛であり、為奈部首は゛伊香我色男命六世孫金連之後(未定雑姓・摂津国1)゛や、゛出自百済国人中津波手(摂津国諸蕃2)゛となっていて、物部氏系(造姓、首姓1)と百済系(首姓2)の猪名部氏が伝わることにも触れられています。

 

拝殿向かって右側の境内社、天満宮

 

【鎮座地、比定】

もともと当社二座のうちの一座は、現鎮座地の西方1キロの、大宮寺池(箕面市白鳥)のあたりに、「大宮」と称して爲那都比売を祀っていました。今その辺りには大宮寺があり、大宮寺池から山間に300メートルほど入っていくと、人型をした巨岩があります。医王岩(いおういわ)と呼ばれ、地元では薬師岩とか、ヨーガ岩と呼ばれているそうです。「摂津名所図会」でも見えていて、゛この岩に大己貴命と少彦名命が生まれました゛と書かれ、二神が医道の祖である伝承から、本地仏の薬師が神宮寺(大宮寺)に祀られ、医王山持宝院と号す由来が記されています。

「摂陽群談」には、寺の創建は892年で、聖宝尊師(理源大師)が当神社を管理する豊島郡司時原佐道について当山に入り、開山したと書かれています。「箕面市史」での藤沢一夫氏によれば、この時原氏とは、「三代実録」に゛清和天皇貞観五年、秦忌寸春風等三人に時原宿禰の姓を賜う。その先秦始皇帝の後なり゛とあるように、秦氏の氏族と考えられます。この豊島郡には古くから秦氏が住んでいて、「和名抄」にも秦上郷、秦下郷の地名が見えています。

 

徳川八代将軍吉宗が命じて奉献したという社号碑

 

これらから松下氏は、爲那都比古神社を秦氏につながるとして、如意谷銅鐸の集団の地に進出した秦氏が、産土神としての爲那都比古をこの地に祀り、みずからの領域となった当地域の西(秦上社つまり伊居太神社)と東(爲那都比古神社)の端に二つの神祠を設けて守護を図ったのではなかろうか、とまとめておられました。そこにつながるのが、応神紀に見える匠・猪名部であり、この集団が豊島に入り秦氏になっていったのでは、ということです。なお、摂津の秦氏に関しては、雄略天皇の時代以降に、秦氏が鴨氏とともに岡田鴨神社の地を拠点に山城に進出していく時期に、摂津にも共に進出してきただろうという、大和岩雄氏によるお考えもあります。

なお、1259年の勝尾寺文書には、゛当庄西東天王゛と見えていて、その当時から爲那都比古神社が二社存在したことが証明されています。

 

日露戦争の旅順港攻撃に使用したものを陸軍省から下賜されたという砲弾

 

【伝承からの思案】

如意谷から出土した袈裟襷文銅鐸が滋賀県の大岩山出土の銅鐸と形式が近いと聞いてしまうとと、東出雲王国伝承に馴染んだ身には、高槻に弥生時代後期に一時住んでいたらしい、初期大和勢力の皇子だった大彦命が持っていた銅鐸なのでは、という想像になります。そして、医王岩の伝えにも、大彦命の祖先にあたる古代出雲王国からの移住者がこのあたりにも勢力を持っていた(そもそも領地だった)事を感じます。松下氏は、その゛如意谷銅鐸の集団の地゛に秦氏が西側から入ったと考えられていましたが、まずは大和から物部氏系の人達が大彦命(出雲伝承は、「将軍」でなく意味が違うとの主張)を追討しに来て、この地に根をはったのではないかという想像をしたくなります。お隣の茨木市の「穂積」の地名も気になります。

 

・神武天皇遥拝所もあります

 

秦氏に関しては、松下氏と大和氏の説を見ましたが、2説だけで既に混とんとした感じになって難しいです。初期大和勢力で、出雲系の登美氏(この後が鴨/賀茂氏)と連携した海部(アマ)氏について、斉木雲州氏はアマ氏が元来の秦氏であり、それが5世紀頃に朝鮮渡来系の人達と混同された、というような気になる説明をされています。となると、大和氏が賀茂氏と一緒に岡田鴨神社の地から移住したのは、海部氏系の人達だったかも?その混同の発端となったのが姫路市(廣峯神社等)のだと云うですが、もしかしてこの爲那の地もそんな地だったのかなと、具体的には全然整理できていないのですが、氏族が複雑に交流していた事を想像してしまいます。

 

境内

 

(参考文献:イワクラ(磐座)学会 青銅器のデータ集、Web版尼崎地域史辞典、かやの薬師大宮寺HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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