摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

佐和良義神社(さわらぎじんじゃ:茨木市美沢町)~銅鐸製造の東奈良遺跡や佐奈部神社との関係も偲ばれる王族の神

2021年01月10日 | 高槻近郊・東摂津

 

現在は茨木市で「桜通り」として有名な5kmにもおよぶ細長い緑地公園の一角に、寄り添うように鎮座する堂々「延喜式」式内社です。道路を伴うこの曲がりくねった公園は、元々茨木川下流だった地で、度重なる決壊を防ぐために田中町のあたりで安威川へ合流されたため廃となりました。当社も近いところでは明治40年の洪水で社殿が流失しており、現在のものは大正6年に竣成したものです。古代には大阪湾の海がいりこみ淀川沿いの低湿地だったようです。なお、藤原鎌足が乙巳の変の前に一時隠居したという「三島別業」が、この沢良宜あたりだったとの説があります。

 

・参道はかなり高い木々で覆われています

・すぐ横は、公園の遊歩道が並行します

 

「延喜式」神名帳の吉田家本は゛サワラキノ゛、金剛寺本では゛サワラミノ゛、さらに「特選神名牒」では゛サワラゲノ゛とよまれています。中世になっても、この地域の荘園は興福寺領であり、「佐良宜庄」とか「澤良宜庄」または「佐波羅木庄」の用字で記され、゛サワラギ゛゛サハラギ゛とよむのであろう、と「式内社調査報告」で生澤英太郎氏が書かれています。

 

・境内。公園の一部のようになっていて、散歩やジョギングする人がよくお参りされていました

 

本居宣長が「古事記伝」で、このサワラギについて、佐和良臣がどの国の地名かはっきりせず、「和名抄」にある筑前国早良郡の早良郷や平群郷であろうか、と書いてるようです。さらに氏人としては、「姓氏録」河内国皇別にある、早良臣、平群朝臣同祖、武内宿祢の御子平群都久宿祢の後、だとしています。生澤氏は語源として、万葉集にも出てくる低湿地にさく草木「澤蘭(サワアララギ)」が変化した可能性を述べられていました。

 

・境内社の八幡社。ご祭神は応神天皇

 

創建の年代は分からないようです。平安時代は東寺も荘園を佐和良木村に持っていましたが、文献によるとこの地域は主として摂関家(藤原氏嫡流)領であり鎌倉時代からは近衛氏の荘園としてあらわれ、やがてその氏神・氏寺である春日大社・興福寺に寄進され荘園となったと記されています。神社について、中世に記録はないものの、江戸時代の「摂津志」や「摂津名所図会」に記述が見られます。そして、昭和46年、神社の北300mの所で、弥生時代を画期とする環濠集落、東奈良遺跡が検出されるのです。遺跡としては古墳時代や以降の室町代にかけての複合遺跡でしたが、やはり弥生時代の銅鐸やその鋳型までが検出されたことで、この遺跡に注目が集まりました。

 

・拝殿

 

ご祭神は「古事記」でも有名な加具土命。意味は゛火のかがやく神゛とされますが、生澤氏は板橋倫行氏の異説で、「日本書紀」の一書の石凝姑による天の羽鞴(ハブキ)作りの神話により、加具土は゛鹿子つち゛で鞴(フイゴ)の神との説も紹介されていました。東奈良遺跡では銅など金属を溶かすために大量の空気を送り込む鞴口も出土しています。このように、この地が青銅などの鋳造拠点であった事が明らかとなり、その神が祀られた事が考えられますが、生澤氏はそれが火の神として祀られた関連は明らかでない、と述べられていました。

 

・本殿。二間の春日造。

 

なお、ご祭神については古来より他説もあり、「神名帳考証」では゛平群都久宿祢は佐和良臣祖なり゛と、そして「神社覈録」では、゛祭神早良臣祖神歟゛とあり、「古事記」や「姓氏録」の記述からきているだろう、と生澤氏は云います。また、「摂津志」「摂陽群談」「摂津名所図会」では、単に澤良宜村の産土神と記されています。

 

・佐奈部神社入口鳥居

 

東奈良から500m東側に、佐奈部神社があります。由緒はほとんど分からなくなっているようですが、茨木市によると佐奈部は農具・佐奈を制作する部民のことであり、あるいはサナは澤の事でこの地域の鍛冶集団の一翼を担ったと説明します。一方で、「先代旧事本紀」や「古語拾遺」に鉄鐸(佐那伎:さなぎ)を造ったとあり、これは銅鐸の原型とも言われます。東出雲王国伝承では、銅鐸こそが昆虫のサナギに似ているから、古くはサナギと呼ばれたと説明します。その言葉が、伊賀上野の佐奈具の地名や三河の猿投(サナゲ)神社の名前になったと、富士林雅樹氏が「出雲王国とヤマト政権」で述べられていました。「佐奈部」名にはどうしてもサナギとの関連を考えたくなります。

 

・佐奈部神社拝殿。本殿も含めて新しい社殿です

 

また東出雲伝承は、早良臣と同祖だという平群氏から河内王朝の大王が出て(※)、その御方が百舌鳥の巨大古墳に埋葬されている、と主張します。ただし記紀では親族間で人物の名前が入れ替えて書かれたので読んでもわからなくなったそうです(「お伽話とモデル」「出雲と我王国」)。丁度、鉄器が重要視される時代あり、その王族がくからの金属製造の地に始祖神を祀ったとすれば、りと重要な神社なんだという感じがします<(※)「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏が平群氏とは別の氏族だとする異説を出してる事を、付記しておきます>

 

(参考文献:皇學館大学「式内社調査報告」、中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/河内」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公「古伝が語る古代史」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、「お伽話とモデル」富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その大元出版書籍


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