摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

伊居太神社(池田市綾羽)/ 呉服神社(池田市室町)~近世以降の呉服信仰に至る経緯

2023年07月15日 | 高槻近郊・東摂津

[ いけだじんじゃ/くれはじんじゃ ]

 

東摂津の西の端、かつて豊島郡だった池田市に鎮座する、姉妹社の如き二社を同日に参拝させていただきました。伊居太神社の方は、其の名が「延喜式」神名帳に載ることから「式内社」の冠が付きますが、事はなかなか難解なようです。両社は車ですぐの位置関係ですが、呉服神社が阪急池田駅駅前の住宅街にあり華やかな社殿と境内が目を引くのに対し、伊居太神社は多くの人が訪れる五月山公園のすぐ横にもかかわらず、直接行き来できるわけではなく、ひっそりと、しかしなかなかこんもりと雰囲気有る社叢の中に鎮座している風で、好対照でした。なお、共に神社の駐車場は有りません。

 

(伊居太神社)五月山公園から少し歩いた住宅街にある、入口の登り階段

 

【ご祭神、ご由緒】

伊居太神社のご祭神は、穴織姫、応神天皇、仁徳天皇。呉服神社のご祭神は、呉織姫と仁徳天皇です。

現在、この池田市の二社について語られる御由緒としては、以下の話が一般的と思われます。応神天皇の頃、中国の呉国から機織縫製の技術を持つ呉服(くれは)と穴織(あやはとり)という姉妹が渡来し、布帛を織り続けてその技術を日本に伝え、そのおかげで衣服が全国に広まりました。姉妹の死後、呉服は呉服神社に、穴織は伊居太神社に祀られ、呉服という言葉の由来にもなった神として現在に至るまで信仰されてきたといいます。

 

(伊居太神社)参道

 

しかし、「日本の神々 摂津」で松下煌氏は、特に伊居太神社は「延喜式」神名帳に載る同名の神社そのものではなく、これら二社の成立の経緯はきわめて複雑で多くの未解明な部分が有ると述べておられます。そして松下氏は、伊居太神社・呉服神社は、古くからそれぞれ穴織社・呉服社、あるいは秦上社・秦下社と称し、さらには上の宮・下の宮とも呼ばれて池田の人々に最も親しまれてきた社であるとして、その歴史を説明されておられます。

 

(伊居太神社)神門。左に向くと猪名津彦大明神の祠があります

 

【穴織社(伊居太神社)の起源】

池田は「和名抄」に摂津国豊島郡秦上郷・秦下郷として記された地域で、古代この地には、郷名のとおり秦氏が勢力を張っていました。現在も池田市には秦、畑の地名が残り、北側に茨木市あたりまで連なる五月山連山の一つは秦山と呼ばれていたそうです。この秦地域には、上円下方の鉢塚古墳、双円墳の二子塚古墳など特殊な後期型古墳が存在し、渡来系文化の痕跡をとどめると考えられています。

 

(伊居太神社)境内

 

この秦氏は、この早い時期から五月山西端の展望の良い地に、自らの神祠として秦の社を斎いており、これが穴織社(現伊居太神社)のはじまりだろうと、松下氏は考えます。穴織社の神主河村氏は長らく秦姓を名乗り、元禄六年(1693年)には゛穴織宮神主采女正秦定直゛、寛永十七年(1640年)の゛河村三右衛門秦定年゛、文政七年(1824年)の゛河村安芸守秦定正゛などの史料の記録が残ります。穴織社の参道周辺からは縄文から弥生期に及ぶ遺品が早くから発掘されていて、この周辺が古くから開けた地である事が分かります。

なお、「延喜式」神名帳の伊居太神社は「河辺郡」の所属とあるのに対し、池田の地は古代から一貫して猪名川東岸の豊島郡なので、池田市にある現在の伊居太神社を式内社とするのは難があるという事になるのです。

 

(伊居太神社)舞殿

 

【坂上氏の呉庭社(呉服神社)】

池田は平安中期には、河内の漢(あや)系渡来氏族である坂上氏が進出してきます。その最初が、坂上正任(別名、土師太郎)です。ここで、冒頭のご由緒に記載した、呉国からの呉服・穴織姉妹の渡来譚が関わってくるのです。姉妹を連れて来たのが、漢氏の祖阿知使主と都加使主なのです。「呉人」と呼ばれたこの渡来集団の流れをくむ坂上氏は、自らが開発領主となった池田の地を「呉庭(くれは)」と名付け、呉庭田を中心とする呉庭荘の繁栄の為に総社として天王社を建て、自らその神主となりました。この天王社が呉服神社の起源であり、舟崎正孝氏によれば時期は鎌倉初期と考えられます。この時に坂上氏はその始祖神として、阿知使主と都加使主、穴織、呉織の他、天王社と称するからには牛頭天王も祀っていたと考えられます。

 

(伊居太神社)本殿。千鳥破風が三つの流造

 

【南北朝以降】

時代は降って南北朝の争乱期になると、呉庭の地の西にある能勢の内藤氏(北朝側)が、陣営強化のために血縁の池田氏を美濃から呼び、呉庭に築城させたことから情勢は一変し、この時に地名も「池田」に変わりました。この時に池田氏が、この地の先住者のために、既存の二つの神社をこの地の産土神として祭祀したと考えられます。つまり、坂上氏の祭祀する織姫伝承に二神を分けて、秦上社に穴織を、秦下社に呉織を祀ったのです。ここに、現在の穴織社と呉服社の成立を見るのです。

この時に、イケダの地名から、河辺郡にあった式内伊居太神社が衰勢していたのに乗じて、二社のうちでより古い秦上社を「伊居太神社」と冒称するに至ったと考えられると、松下氏はまとめられます。

 

(伊居太神社)「猪名津彦大明神」

 

【式内伊居太神社の比定】

現在の伊居太神社には古くから河辺郡塚口村(現在の尼崎市塚口あたり)への神幸祭を最重視する伝えが有り(「穴織社拾要記」)、本来の式内伊居太神社は塚口村にあったと考えられます。一方、「摂津志」や「摂津名所図会」の゛伊居太社はもと河辺郡小坂田にあり゛とする説もありますが、小坂田(伊丹市。今は大阪空港により消滅)は、「延喜式」では豊島郡に属しているから、松下氏は首肯できないとされていました。また、現在尼崎市下坂部にある伊居太神社は、明治までは春日神社だったのが改名されたもので、式内社とは関係がないようです。

 

(呉服神社)石標と神門。鳥居はもっと手前に駅寄りありました

 

【漢氏】

「日本古代氏族事典」による漢氏の説明では、4,5世紀以来の渡来系氏族で、東漢(やまとのあや)氏と西漢(かわちのあや)氏とがいて、姓は直、のちに連、忌寸となる氏族です。阿知使主については、「続日本紀」785年の坂上大忌寸苅田麻呂らの上表によると、゛後漢霊帝之曾孫阿智王゛とあり、また「坂上系図」には漢高祖皇帝の曾孫で゛阿知王゛、或いは霊帝の曾孫で゛阿智使主゛とあります。雄略天皇の時代に漢部の伴造となって直の姓を賜り、以後、渡来系技術者と漢部を統括し、奈良盆地の南部で隆盛しました。六世紀には、書、坂上、民、長などの枝氏に分かれます。飛鳥時代には蘇我氏に接近し、乙巳の変の時には、蘇我入鹿が殺害された後、武装して蝦夷の身辺を警護したとされています。

 

(呉服神社)境内

 

伊居太神社の神門の手前に、「猪名津彦大明神」の石標を持つ祠が鎮座しています。説明掲示もあり、それによると猪名津彦は為那都比古であり、この神が阿知使主、都加使主のことであり、ココが「延喜式」神名帳にある為那都比古神社だと書かれます(なお、箕面市に比定社である為那都比古神社があります)。この神が倭漢直の祖であり、為那都比古大明神は反正天皇の勅令によるおくり名とのことです。その祠は、文明年間にこのあたりの阿知使主のものと伝えられていた古墳が盗掘され、そこから朱塗りの棺の破片人骨の若干を持ち帰り、ここに埋葬したという説明です。当地ではこのように信仰されてきた、という事でしょう。

 

(呉服神社)拝殿

 

【摂津の秦氏】

松下氏は、豊島郡の秦氏について、応神天皇紀にみえる新羅から武庫に遣わされた造船・木工の技術集団「猪名部」が、後に豊島に入って秦氏になっていくのではないかと推定されていました。一方、大和岩雄氏は、葛城から南山城の岡田鴨そして摂津へと移動した鴨君(「新撰姓氏録」日下部宿禰と同族)と共に、秦忌寸や秦人も進出してきたと考えられます。時期は雄略天皇の時代です。「続日本紀」の769年には、豊島郡の秦井手忌寸小足の名前が載ります。

 

(呉服神社)本殿。入母屋造に千鳥破風付の複雑な形態

 

【呉服神社の「姫室」】

呉服神社本殿向かって左側、天満社の奥に姫室と名のつく石碑があります。呉服神社の境内に掲示されている謡曲「呉服」の説明の中に、仁徳天皇の時代に亡くなった呉服の祖神の遺体が伊居太神社の梅室に納められ、一方こちらの姫室には形見の三面神鏡を納め、翌年に呉服神社が建てられたと書かれています。

 

(呉服神社)境内社、恵比須神社の拝殿

境内のその石碑への入口に「姫室への道」と掲示があるのにバリケードがあったので、社務所の神職の方に伺うと、案内していただきました。ご説明によると、石碑の裏には大正時代に建てられた事が刻まれていて、その頃の阪急池田駅の建設の際(建築自体は明治の終わり頃)に姫室、梅室と呼ばれていた古墳から人骨や鏡が発見され、それらが崇敬者の方によりこちらに遷されて建てられたのがこの石碑とのことでした。その鏡は発見時には割れてしまっていたようで、具体的にどんなものだったか分かりませんが、古代古墳の遺物が埋納されている場所である事は間違いありません。なお、伊居太神社にも「姫室」銘の石碑が有るそうですが、拝見しませんでした。

バリケードが有るのは、近年近隣に住宅や施設が密集するようになって、団体の観光客的な人が自由に出入りする事で近隣への影響が出やすくなってきたために、やむなく制限するような形にしているそうです。

 

(呉服神社)恵比須神社の本殿。゛三度たたけば幸ち来る゛の「叩き板」があります

 

【古代由来の神社が語るご由緒】

現在の穴織姫・呉服姫の信仰は、平安時代にある意味他の地域から勧請されてきたもので、それが南北朝時代に再構築されて現在に至るという調査・論考は、古代からの歴史を持つ神社のご由緒が、奈良時代以降の長い歴史時代の中でいろんな人の思惑の変遷の結果で形作られる場合もある事例として興味深いです。神社のご説明はあくまで信仰ですので、それはこの国が形作られる過程でそのような神様がおられた事を偲び感謝する分には、それでよろしいかと思っています。ただ、厳密な史実かどうかはまた別の話だと、改めて心に留めるバランス感覚も必要と思いました。

 

(呉服神社)「姫室」石碑。エリアに入るには社務所への問い合わせが必要です

 

(参考文献:呉服神社ご由緒掲示・公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津/山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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