摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

伊賀一宮 敢國神社(伊賀市一之宮)~伊賀忍者服部氏も神事を務めていた、大彦命の信仰を伝える一宮

2023年12月03日 | 伊勢、東海

[ あえくにじんじゃ ]

 

高槻市からは遠方の神社になりますが、どうも高槻市の「阿武山」と当社名が関係あるらしいという伝承もあることから、参拝したいと思っていました。車で新名神の甲賀IC経由で訪問しましたが、所要時間は1時半弱と思ったより早かった印象です。甲賀から伊賀へと入っていく中で周囲を山に囲まれた上野盆地の景色になんとなく隔絶感を持ちました。帰りは別のルートで伊賀から西に向かって、以前参拝した岡田鴨神社のある木津川市沿いを通る道を走り、古代加茂系氏族の移動ルートかしら・・・とロマンにひたりました。

 

 

【ご祭神の変遷】

ご祭神は、主祭神に大彦命、配神に少彦名命と金山比売命が祀られています。当社の名称は、「源平盛衰記」の「南宮大菩薩」を始め、12世紀の文献にはことごとく「南宮社」などと記されていて、平安末期には「南宮」と呼ばれていたとみられます。

ご祭神に関して、「文徳実録」「三代実録」「日本紀略」には「敢国津神」「敢国津大社神」と書かれ、本来「敢国津神」一座で、旧阿拝郡一帯の国つ神であったはずだ、と「日本の神々 東海」で森川桜男氏が書かれています。ただ、この神名が記紀に見えないため、中世以降に、金山比咩または金山比古を充てる説と、これに開拓神として名高い少彦名命を加えて二座とする説の二説が多く語られるようになります。

 

社殿への昇り階段。社務所前は意外にこじんまりしています

 

室町時代末期頃成立とされる「大日本国一宮記」や1503年の「延喜式神明帳頭註」には゛敢国神社 号南宮 金山姫命云々゛とあり、同じ室町時代成立と考えられる「永閏伊賀名所記」は、敢国大明神=少彦名神、南宮山金山明神=金山比咩之命として祭神二神説をとり、これが二神説の始まりとなったようです。また同書は現存が確認できない藤原信西の「国分」を引いて、977年南宮明神を一の宮の敢国明神と同所に移し奉ったので、南宮山も一の宮の神体山となったと述べますが、先の森川氏は確証はないとされます。さらに、1687年の「伊水温故」には、南宮山金山姫は天武の御世に美濃の南宮(岐阜県不破郡の南宮大社)より勧請したとありますが、森川氏はこれについても傍証資料を欠いていると考えておられました。いずれにせよ、「伊水温故」や「三国地誌」などが祭神二神説を唱えてから、これが次第に定着していったのです。

 

拝殿

 

【゛をさなきちごの宮゛】

その後、1713年に国学の勃興を反映して、渡会延経が「神名帳考証」を著した時、当社のご祭神を阿倍氏の祖大彦命としたのです。そしてこの説にもとづき、明治7年に当時の当社宮司が教部省に伺い出て、その頃ご祭神の一柱に加えられていた甲賀三郎(後述)を排して大彦命を主祭神とし、右に金山比咩命、左に少彦名命をお祀りし、そのまま現在に及んでいます。

なお、平安時代末期の「梁塵秘抄」には、゛南宮の本山は、信濃国とぞうけたばる、さぞまうす、美濃国には仲の宮(南宮大社)、伊賀国にはをさなきちごの宮(敢国神社)゛とありますが、この゛をさなきちごの宮゛の名について、「三重県の地名」では、近世の「伊賀国一宮敢国津社記」などが採用する少彦名命祭神説が、既に平安時代に当社で確立していたと解釈しています。

 

拝殿も敷地一杯に建てられています

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

当社の祭祀氏族は、阿閉臣と考えられます。森川氏によれば、一般に臣や君の姓をもつ豪族は地域名を氏の名としていて、これは彼らがもともとその名の土地を支配する地域首長だったことによります。阿閉臣は壬申の乱による功績により、朝臣の姓を賜りました。748年の小治田藤麻呂解には、゛阿拝郡・大領外従六位下敢朝臣安麻呂゛とあり、゛外゛が付くので畿外が本貫であったことが分かるのです。本居宣長も「古事記伝」で、阿閉臣の本貫を伊賀の阿拝としていました。

上記した国史に、850年から891年にかけて、従五位下から正五位上に進階したことが見えます。「延喜式」神名帳では伊賀国二十五座のうちに゛敢国神社 大゛とあり、のちには伊賀国一の宮、または伊賀国総社とも呼ばれました。

 

三間社流造の本殿。手前の欠けている灯篭は、1610年に藤堂采女元則により寄進されたもの

 

【阿倍氏と阿閉臣】

「日本書紀」孝元紀に、゛大彦命は、是阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡て七族の始祖なり゛とあり、この七氏族のうちに伊賀を本貫とする阿閉・伊賀両氏がみえることから、阿倍氏の旧本貫も伊賀であろうとする説があります。しかし、森川氏曰く文献上それを証する物もなく、大和から伊賀への入口に安部田という地名もありますが、阿倍氏との関係は不明ということです。

「播磨国風土記」に、゛(景行天皇が)阿閇津に至り、御食を供進りき。故、阿閇の村と号く゛という記事があり、森川氏は「アヘ」の本来の意味は「饗(アヘ)」だとされ、これは同族に膳臣がいた事からも裏付けられるとします。そして、上記の七族は新嘗の儀礼における供膳を職とする阿倍臣を中核とした擬制的血族による一種の派閥だったと、森川氏は推定されていました。

 

桃太郎岩。550年前に社前の南宮山から遷したとの古伝がある、安産・子授けの守護の霊石

 

阿閉氏といえば、顕宗天皇の御世に任那に派遣され、月神(葛野月読神社)と日神(目原坐高御魂神社)の託宣をした阿閉臣事代がいます。それぞれの神を祀ったのは、前者が壱岐県主の先祖、後者が対馬下県直ですが、この両氏が亀卜を専門とする氏族であったので、阿閉氏は卜部を統率した氏族であるとの推測もできるようです。また岩波日本古典文学大系の「風土記」の頭註は、「伊勢国風土記」逸文に伊勢都彦と戦ったとある゛阿倍志彦の神゛について、敢国神社の神か、と述べています。

「日本古代氏族事典」での阿倍氏の説明では、大彦命後裔の最有力氏で建沼河別命を祖とし、阿倍氏の本拠地は大和国十市郡安倍(桜井市阿倍)だとされています。記紀には大彦命を北陸に派遣したとありますが、阿倍氏の管掌した丈部(はせつかべ)の分布が広く東国、北陸にみられ、同族の膳、阿閉、宍人等諸氏の勢力もこの地方に及んでいるので、大和政権の東国、北陸経営に大彦命後裔氏族が深く関与していた事実が推察されます。政界の表舞台に現れたのは、「日本書紀」宣化元年に阿倍臣大麻呂が大夫に任じられた時からだという事です。

 

おみくじ。なぜ伊勢三郎義盛なのかは、説明がありません

 

【中世以降歴史】

中世には敢国神社は諏訪信仰との関りと持つようになりますが、それは上野盆地から山一つへだてた近江国甲賀郡からの影響と考えられます。福田晃氏によると、諏訪信仰を持ち込んだのは甲賀望月系修験者で、1423年前後に甲賀地方に定着して甲賀三郎伝承を伴う諏訪社を甲賀郡一帯に勧請しました。福田氏は当社のご祭神の一柱少彦名命についても言及されていて、後代陰陽師が医薬の神として祀った神であり、杣人たちの斎く神であったに違いないが、その神がやがては山伏たちの手に受け継がれていった例も他でみることができると、修験者の影響を指摘されています。

当社は1581年の伊賀の乱で焼失し、社記など多くのものを失いましたが、その社殿を1593年に上棟したのが山伏小天狗清蔵です。そして、藤堂高虎が伊賀入封の翌年の1609年上野城の鬼門鎮守として本殿を再興し、三年を費やして全体が整備されました。

 

裏参道にある大石神社。立派な鳥居があります

 

【鎮座地と大石明神、発掘遺跡】

当社参道入口に、南北に通じる県道がありますが、その道を南に400メートルほど行った所の東側を小字「大岩」と呼び、かつて「大石(オオイワ)明神」と呼ばれた大岩(通称「黒岩」)があって弥勒の像が刻まれていました(「三国地誌」)。この大岩は明治末から大正はじめにかけて採石によって消滅しましたが、大岩明神が昔の敢国神社の祭祀地ではないかとする考えが有ります。これに対し、大正5年の「敢国神社誌」は、当社に社地移転の伝承がないことからこの説を否定していたようです。しかし、森川氏は大石明神の地が当社の創祇とつながる可能性は否定しきれないとお考えで、1567年の敢国神社末社大石戸(大石明神~大石神社)の正遷宮に立ち会った京都吉田神道の吉田兼右卿の「兼右卿記」には、゛大石戸は根本当国一宮と為す、諏方(スワ、当社のこと)御勧請より此如く末社と為る゛とある事を森川氏は付記されます。

 

大石神社。薄暗い中に灯篭が灯り良い雰囲気でした

 

当社のある一之宮地区に北接する千歳地区からは銅鐸の耳部が出土しています。完成形を復元すると高さ1.09メートルと見られ、弥生後期のものといわれます。上記の小字「大岩」には池の東南に接して大岩古墳がありましたが、昭和6年の県道開削により消滅しています。内部構造は明らかではありませんが、遺物として須恵器、土師器の完成形などの他に、数個の祭祀用小形土器と滑石製小形臼玉二個が出土しました。その現地を視察した大場磐雄氏は、遺物出土地が片麻岩の風化した白砂が敷きつめられた状態にあることから、原始的な磐座祭祀が行われただろうと述べていたそうです。

 

芭蕉句碑。上野に帰郷していた1688年の句を刻んでいます。表参道の入口すぐのところ

 

【御墓山古墳】

当社の北東1.5キロの所に、三重県最大の5世紀の前方後円墳である御墓山古墳があります。大正の始め、これを大彦命の陵墓であるとして治定運動が展開され、その時に呼び方を「オハカヤマ」から「ミハカヤマ」に改めたのですが、結局決め手がなく国の指定史跡に留まりました。この事に関連して当社は、この古墳が大彦命の御陵墓であるとの伝えがあることをご由緒書にも記載しています。一方、「日本書紀」雄略天皇の御世の、伊勢の朝日郎が討たれた話に出てくる゛伊賀の青墓゛に比定する説(「大日本地名辞書」)もありますが、この古墳の被葬者と特定の氏族の長とを関連付ける伝承はないと、森川氏は書かれています。確かに築造年代から見ても、大彦命は無理だと思いますが、大彦命が当地と関わるという地域の方々の信仰がそれだけ強いことの現れとして理解したいと思います。

さらに、御墓山古墳から1キロ弱の外山の北側稜線に全長40~60メートルの前方後円墳が4基あり、こちらは阿閉氏の古墳と見られています。外山には7世紀頃の巨大石室をもつ勘定塚古墳もあり、これら古墳から古代この地域の氏族が大きな勢力を持っていた事は明らかです。

 

裏参道沿いの若宮八幡社。小さい祠には珍しい平入の神明造

 

【伝承】

富士林雅樹氏の「出雲王国とヤマト王権」によれば、2世紀の大和大乱から逃れる(記紀の説明は意味が違うとの主張です)ために、阿倍一族の祖大彦命が御子の沼河別とともに伊賀に来て新たな王国をつくり、そして敢国神社を建てたらしいです。その後、高槻市(摂津三島)に移住したと書かれています。一方、勝友彦氏は「親魏倭王の都」で、まず高槻市に逃れて、その後は沼河別だけが伊賀に来たとされます。大彦は、高槻に追手が迫った事から、次に近江に逃れていったらしく、その子孫が祀ったと思われる神社も滋賀県にあります。その一族の中で大伊賀彦が伊賀に残り、子孫が伊賀臣を名乗った事では両者は共通しています。

 

むすび社の入口鳥居

 

さらにこの東出雲王国伝承で悩ましい話の一つが、この「アベ」姓が高槻市の阿武山(アブヤマ)と関わるという話です。というのも、どちらが元かで2説あり、上記の勝氏や斎木雲州氏は阿武山からアベ姓が生れたとし、一方、富士林雅樹氏はアベが先で、ここから阿武山名が生れたとされるのです。敢國神社の名前も含めて、とにかくアベと阿武山は関係するかもしれないと、高槻市民としては期待をしておきたいと思います。なお、阿武山は中臣鎌足の墓との説が有力な阿武山古墳が山頂にある事で知られる山で、出雲伝承は神奈備山であると書いていました。

 

むすび社

 

「日本書紀」に書かれるとおり、大彦命は事代主命の血筋を持ち、出雲の国譲りに登場する、諏訪神社のご祭神建御名方命は事代主命の兄弟(出雲伝承によれば事代主命の子)です。「事代主の伊豆建国」で谷日佐彦氏が面白い話を書かれています。敢国神社でも祀られている金山姫や金山彦の「金山神」は、出雲王国の古い露天踏鞴の製鉄神らしく、「金屋子神」は屋根の下で鉄を作る、その後の製鉄方式の神だというのです。それはともかくとして、その金山神をたどれば、上記でも登場した岐阜県垂井町の南宮大社に行きつき、さらにその先には、諏訪大社上宮にゆきつくらしいです。その諏訪大社のご祭神建御名方命の「御名方」の意味が忘れられて「南方」と誤解され、それで「南宮大社」の名称が発生したといいます。そしてその「南宮」が敢国神社まで伝わったということです。どうにも曖昧な話で、学者さんから見ると語呂合わせで根拠がないとされそうですが、一般的にも認識される事代主命つながりを思うと、諏訪神社と当社は根が一致しているように思いたくもなります。

 

むすび社前からは、社殿と向いあう南宮山の絶景がのぞめます、

 

さらに谷氏は上記の書で、これも上記した「梁塵秘抄」の歌について、゛信濃国゛は諏訪大社を指し、そして゛をさなきちご(稚き児)゛とはご祭神の大彦命のことであり、事代主命の子孫なので「児」と表現したらしい、と書かれます。つまり、平安時代末期の「梁塵秘抄」の歌は、旧出雲王国由来である金山神でつながる三社の強い関係を表現していたという主張のようです。さらに谷氏は上記の書で、金山神は大阪府八尾市の金山彦・金山媛神社から当社へ伝わったとも書かれていました。

 

楠神社の石標

 

【楠神社】

社殿背後の高台の地に鎮座する境内社むすび社を目指して登っていくと、まず楠神社の石標が目に入ります。むすび社とならんで石の祠の楠神社も鎮座しているのです。富士林雅樹氏の「出雲散家の芸と大名」によれば、「上嶋家文書」に伊賀国浅宇田荘の土豪・上嶋元成が、楠木正成の娘を妻に娶っていて、この上嶋元就はのちに北伊賀の服部家を継ぎ、服部治郎左衛門元就を名乗るようになります。つまり楠木正成は伊賀忍者の服部氏と親戚だったということです。この話があったので、敢国神社の境内社に楠神社がある事に、なるほどと思えました。また、当社リーフレットには、源氏・平氏・敢国の三流の服部一族のうち敢国服部が当社の神事を務めていたとあります。なお、富士林氏は上記の本で、楠木正成は当時出雲とつながっていたという興味深い話をされています。

 

楠神社。むすび社の隣です

 

(参考文献:敢國神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 東海」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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