摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

談山神社(たんざんじんじゃ:桜井市多武峰)~定恵は藤原鎌足の遺骸を高槻市から移したか

2022年08月13日 | 奈良・大和

 

学校で誰もが習った「大化の改新」(近年は襲撃を分けて「乙巳の変」)の密談の場だったり、秋ともなると3000本のカエデの紅葉に十三重塔等の社殿が包まれる絶景で有名な神社です。また現在では、境内社・東殿がご祭神・鏡王女(藤原鎌足の妻とされる万葉歌人)にちなんで「恋神社」と呼ばれ、縁結びの神様として女性の信仰を集めてきたことが、特にPRされるようです。灯篭も含めると国重要文化財が15もあり、それだけでも見ごたえ十分ですが、十三重塔を中心とした社殿がこんもり木々に覆われた境内はとても良い雰囲気で、憩える場です。拝観料は大人600円必要ですが、拝殿や神廟拝所が昇殿して参拝・見学できるので、その価値はあるでしょう。

 

・入口石標と一の鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、言わずと知れた藤原鎌足公。当社本殿裏山「談所の森」で、中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が極秘の談合をされ、それによる乙巳の変(645年)で蘇我入鹿を討ち、その後の中央集権政権確立へのきっかけとなった聖地ということになります。

当社縁起による当社創建の云われは、天智天皇の669年に鎌足が亡くなると次男の不比等はすぐに摂津の阿威山(茨木市の将軍山古墳という説もありましたが、今では高槻の阿武山古墳が有力)に葬りました。その時、長男の定恵は遣唐使として唐に居ましたが、天武天皇の時代になって帰国し、不比等と協議の結果、鎌足の遺骸を多武峰に改葬し、墓上に唐の清涼山宝池院の塔婆を模して十三重塔を建て、南に三間四面の講堂を配して、これを妙楽寺と呼びました。また、文武天皇の701年に、塔の東に聖霊院を建てて近江の彫工高男丸の造った鎌足の木造を安置しました。談山神社はこの聖霊院が進展したものです。

 

・木々で覆われる140段の石段

 

しかし、この社伝には古くから学者より多くの疑問が持たれてきました。一つ目は、定恵の遣唐使期間について、縁起は667年から678年(白鳳七年)としますが、「日本書紀」による653年(白雉六年)から665年(天智天皇四年)の記載と合わない事。二つ目は、「鎌足伝」「貞恵伝」に鎌足改葬の記事がみられないこと。三つ目に、「延喜式」に゛多武峯墓 贈太政大臣正一位淡海公(不比等の諡号)藤原朝臣、大和国十市郡ニアリ゛とみえ、「三代実録」863年には、大和国に下知して部内の百姓が藤原氏先祖贈太政大臣多武峰墓四履(四至)において伐樹放牧する事を禁じたと記されていて、多武峰墓の被葬者は藤原不比等と考えられる事、などがその疑問です。同じ「三代実録」や「類聚符宣抄」には多武峰墓を鎌足の墓としていますが、これはおそらく後人の改ざんによるものとみてよい、と「日本の神々 大和」で大矢良哲氏が述べられています。

 

・総社本殿。三間社春日造

 

【神像御破裂と藤原氏】

「談所の森」から更に上る御破裂山は、鎌足を葬ったと信じられてきた廟山で、国家の大事が有るごとに鳴動し、聖霊院の鎌足像の首部が破裂してこれを予兆したといわれています。これがあると、寺はすぐに朝廷又は藤原氏の長者に報告し、京都では即座に告文使を山に発遣して奉幣祈願を行ったようです。記録では898年に初めて起こり、1607年に至るまで35回有ったとのことです(「大職冠神像破裂記」)。こうして、御破裂山の鳴動は子孫に対する藤原氏祖霊の警告として藤原氏一門を震駭せしめたのであり、当社の歴史を論ずる場合は、その起源が鎌足にあるか不比等にあるかは問題でなく、平安時代以降鎌足の神霊がいかにその神威を発揮したかを見るべきだと、先の大矢氏は考えられていました。

 

・談山、御破裂山への登山口

 

【中世以降歴史】

中世には興福寺との争いが繰り返されています。多武峰が叡山の末寺で天台宗に属したのに対し、興福寺は法相宗でした。宗派的に異なるにもかかわらず場所的に近い事から、寺領関係でも衝突しやすかったのです。加えて、藤原氏の氏寺としての興福寺と中興の祖鎌足を祀る多武峰との祖廟本家争いがそれに拍車をかけたのです。文献に記されただけでも、平安~鎌倉時代に十数回発生していて、多武峰はその都度興福寺の僧によって焼かれたのでした。南北朝争乱期の1435年には一山の社殿が焼失し、鎌足公の木造が一時橘寺に移りましたが、1441年に多武峰に戻っています。近世には、豊臣秀吉の弟秀長が入国した時には、大職冠、本坊以下全てを郡山に移す厳命が出され、由緒ある故地が放置、野放しにされるという困難にも見舞われています。

 

・神廟としての十三重塔。見出し写真のとおり一段下に神廟拝所(旧講堂)があります。

・権殿(旧常行三昧堂)。ご祭神は、芸能・芸術、魔除け・厄払いの神であるマダラ神

 

そんな中で最も多武峰に変革を強いたのは、やはり神仏分離と廃仏毀釈だと言われます。長年神仏習合の形態を続けて来た多武峰は、維新後に聖霊院を中心として神社として生まれ変わり、妙楽寺を廃して僧がみな還俗して神官となったのです。この時、聖霊院を神社の本殿、護国院を拝殿として、また十三重塔婆を神廟、講堂をその拝所として、常行三昧堂は権殿と改称しました。こうして明治7年、「別格官弊社談山神社」となったのです。

 

・拝殿入口の楼門。ここから昇殿します

 

【社殿、境内】

建築物としては、室町時代の十三重塔、権殿、拝殿・ 楼門・東西透廊、そして江戸時代の惣社拝殿・本殿、閼伽井屋、神廟拝所、比叡神社本殿、西宝庫、東宝庫、そして三間社春日造の本殿が、いずれも重要文化財になっています。また、1303年の摩尼輪塔と、鳥居手前の1331年の石燈籠も重要文化財です。

 

・拝殿(旧護国院)外観

 

ご由緒でも触れたように、当社はそもそも寺と神廟の二面要素の複合体であり、十三重塔を中心とする妙楽寺と、御影堂としての鎌足の霊像を祀る聖霊院の二つに分かれていました。914年に右大臣忠平が聖霊院を改造し、講堂も修理されます。そして926年には惣社が建立され、談山権現の勅号が下賜されました。こうして十三重塔・講堂と聖霊院そして惣社という三位一体の神仏習合の形態が出来て、聖霊院を中心とした一山の基礎が確立されていきました。とくに室町時代に後花園天皇からの大明神を授けられてからは、まさしく神社として崇祇されるにいたったのです。

 

・拝殿内部

 

【所蔵神宝】

国宝として、粟原寺三十塔伏鉢1個が有ります。江戸中期に発見され、物としては、塔の上に載っている金属製の相輪の一番下にあたる部分になります。銘文が刻まれていて、そこには、中臣朝臣大嶋が天武天皇と持統天皇の息子・草壁皇子をしのび創立を誓願したが果たさず没し、比売朝臣額田が二十二年を要し栗原寺を建立した等々が書かれています。栗原寺は現在も礎石が残っているようです。

 

・拝殿から三間社春日造の本殿(旧聖霊院)を伺う。周囲から外観は見えませんでした

 

【祭祀・神事】

当社で注目される祭礼に、十月の秋祭り・嘉吉祭があります。上記した南北朝期の争乱で鎌足公の木像が戻って来た時の祭典にちなんでいるようで、「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」という、特殊神饌と呼ばれる中でも殊に特殊な神饌が奉納される事で知られています。

 

・拝殿内に展示された百味の御食。最上段左が米御供。その右が毛御供。最下段奥が鎌足公のお弁当箱

 

百味と言う言葉通り沢山の形態に製作された神饌があるのですが、一番重要なのが和稲御供(にぎしねごく)、地元では米御供と呼ばれるもの。円柱状のもので、丸い和紙にハケで糊を塗り、円形の和紙の外周に40から42粒の米粒を竹串で向きを揃えて円状に並べて、これを繰り返して積み上げて作られます。米粒は赤、黄、緑、そして白の4色に染められており、設計図のようなものをたよりに模様を描くのです。米御供は全て模様が違うものが4台作られ、3台は氏子が、そして残り1台は神職が作ります。模様には「卍」を描くものも有り、当社が以前お寺だった名残だそうです。1台の米御供は一人で製作し、氏子さんの中には20年以上続けているベテランもおらます。NHKの番組「新日本風土記」で、氏子さんが米御供の製作中に宅配業者が来ても出れなくて、申し訳なさそうに製作を続ける様子が紹介された事が有りました。

 

・拝殿からの絶景

 

米御供に続く特異な神饌が、荒稲御供(あらしねごく)、地元では毛御供と呼ばれるものです。わざわざ特別に栽培されている古代米の長い禾(あわ)、つまり穂先をカエデの木の台に一穂づつ糊付けして積み上げて作られます。また、「鎌足公のお弁当箱」というユニークな名を持つ神饌は、木の箱に藁を編んで担く形にしたもので、当日は蒸した御餅を入れて奉納します。米御供や毛御供が円柱状に積み上げられるのは、他の神社でも見られる高盛で供える形から来てると考えられますが、それでも当社の神饌の特異性は際立っているとされています。

 

・東殿。「恋神社」。ご祭神は、鏡女王・定恵・藤原不比等

 

【伝承が語る定恵】

「飛鳥文化と宗教争乱」で斎木雲州氏は、鎌足の長男定恵は、孝徳大君が皇太子の頃に鎌足に与えた采女が生んだ子であり、鎌足の妻になった時には既に身ごもっていたと書いています。これは、茨木市大念寺の残される「摂州島下郡阿威山大織冠堂縁起並序」の記述と合うようにみえます。東出雲王国伝承の語る定恵の遣唐使の時期は「日本書紀」の記述のとおりで、孝徳大君を難波に残したまま中大兄皇子と鎌足らが飛鳥に戻った年に、長男を出家させて遣唐使船に乗せたという説明です。定恵が帰国したのは、故国が恋しくなったからであり、その665年に帰国し亡くなったと書きます。また、唐での学びから歴史書の必要性について大海人皇子に報告したという話も有りますが、奈良の権力者と鎌足の遺骸の改葬について相談したという話は、出雲伝承では出てこないです(そもそも、亡くなってもいない)。これを前提とすると、それほど定恵が父を思っていたという信仰と捉えておきたいです。それに考古学的には、高槻市に藤原鎌足公のお墓がある裏付けにもなります。

また斎木氏は、藤原不比等の別邸が多武峰の麓の高家村落に有り、そこに舎人親王と柿本人麿が国家プロジェクトの相談で訪れたと言う話を「古事記の編集室」に書かれていました。とにかく、この多武峰が日本を支えた藤原氏にとって、大変重要な聖地であり続けた事は間違いないのでしょう。

 

・境内出て東に少し坂を下がった所にある摩尼輪塔。1303年銘

 

(参考文献:談山神社公式HPご由緒、桜井市観光協会公式ホームページ、NHK「新日本風土記」、三重放送「氏神さま」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今宮戎神社(いまみやえびす... | トップ | 井於神社(いおじんじゃ:茨... »
最新の画像もっと見る

奈良・大和」カテゴリの最新記事