摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ:高市郡明日香村)~飛鳥の盟神探湯(クガタチ)の神事を現在に受け継ぐ古代山口社

2022年10月08日 | 奈良・大和

 

飛鳥とえいば甘樫丘(?)というくらいの有名なお名前を持ち、天皇ゆかりの伝承を持つ神社という思いで伺ったら、入口に鳥居もないとてもこじんまりした境内で、現在は地域の氏神様として大切にされてる風でした。元豊浦宮の地という向原寺(広厳寺)のすぐ裏に鎮座しています。

 

【ご祭神・ご由緒】

「旅する明日香ネット」(「奈良縣高市郡神社誌」参照)によれば、現在は主祭神に推古天皇、さらに八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おほまがつひのかみ)、神直日神(かむなほびのかみ)、大直日神(おほなほびのかみ)が祀られています。後記の四柱の神々は、伊耶那岐神の禊の時に成った神様です。

最も古い記録としては、1446年の「五郡神社記」があり、推古天皇を除く四柱だったとありますが、江戸時代になると「和州旧跡幽考」「大和志」などに、推古天皇を祀ると記載されるようになります。当社の1631年の棟札には六所大明神とみえ、1758年の棟札になると、推古天皇を主神として八幡神、春日大明神、天照皇大神、八咫烏神、住吉大明神、熊野権現が併記されているようです。時代に合わせてご祭神が変えられていき、現在は豊浦で政治をされた天皇を中心に古いご祭神を重視したと言うところでしょうか。

 

・甘樫丘展望台より当社側北西方面。左が畝傍山と奥に二上山、右が耳成山。見出し写真は明日香村方面

 

【神階・幣帛等】

当社といえば、記紀に載る允恭天皇の盟神探湯(クガタチ)の地として有名ですが、「延喜式」四時祭式の祈年祭の条に、゛及、甘樫、飛鳥、石村、忍坂、長谷、吉野、巨勢、賀茂、当麻、大坂、胆駒、都祁、養布(ヤギフ)等山口。井吉野、宇陀、葛木、竹谿(ツゲ)等水分十九社。各加馬一疋゛とあり、当社が山口神社の一つとして筆頭に記されています。ただ、「延喜式」神名帳の方では当社は゛甘樫坐神社四座゛であり山口神社扱いではないですし、逆に山口神社である耳成と畝傍が四時祭式では除かれている事に、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が疑問を呈されていました。

 

・向原寺入口。当社は左を折れてすぐです

 

【甘樫丘の記録と「辞禍戸の砷」】

甘樫丘は、記紀を始め古代以降の古典に登場して、現在の甘樫丘が連綿としてだいたいその読み方で呼ばれていたと理解されます。昭和の時代は、「甘橿」と表記されていましたが、現在は「古事記」の表記「甘樫」と表記されています。

  • 「古事記」允恭天皇。゛甘樫の丘の言八十禍津日(コトヤソマガツヒ)の碕(前)゛
  • 「日本書紀」允恭天皇四年。゛味橿丘の辞禍戸(コトマガヘ)の砷゛
  • 「日本書紀」斉明天皇五年゛甘檮の丘の東の川上に須弥山を造りて・・・゛
  • 「玉林抄」゛甘橿の嶽は豊浦寺の東、橘寺の北゛
  • 「大和名所記」゛飛鳥川にあまが瀬の渡りといふあり、あまかしの片言なり゛
  • 「西国名所図会」゛飛鳥川の西岸を甘樫と称す゛

 

・神社入口。鳥居がありません

 

また、允恭天皇の盟神探湯が行われた場所として、「古事記」に゛言八十禍津日の碕゛、「書紀」に゛辞禍戸の砷゛と有りますが、「新撰字鏡」(平安時代の漢和辞典)によると、゛碕 曲岸頭也 石乃出太留佐支゛とあり、山の突き出した端の所を意味するようです。「日本の神々 大和」で大矢良哲氏は、゛辞禍戸の砷゛とは甘樫山頂から西北に長く延びる丘前にあたるものと見るべき、と考えられています。

 

・拝殿

 

【盟神探湯】

記紀で允恭天皇が、誤りが多くなった官人たちの氏姓を正すために行ったとされる盟神探湯。「日本書紀」には注記として盟神探湯の解説も書かれています。「区訶陀智」といい、泥を釜に入れて煮沸し、手でかきまわして湯の泥を探ったり、斧を真っ赤に焼いて掌に置いたりしたとの事で、クカタチとは神に祈誓したうえで手を熱湯などに入れさせ、ただれた者を邪とする一種の神判であり、現代目線からするとあり得ない過酷な審判と感じられます。「弘仁私記」(「日本書紀私記」。奈良時代から平安時代中期にかけて、宮廷で行われた「日本書紀」講読の覚え書。弘仁3年(812年)のものが「弘仁私記」とも呼ばれる)の序の注には、このときの釜が大和国高市郡にあったと記されているそうですが、もちろん現存しません。

 

・本殿三つの祠

 

先の大矢氏は、応神紀九年に武内宿祢の「探湯」の説話も有る事から、古代に神聖な河川のほとりでこの方法によって神に盟う民族的事実が有った事は、一応みとめて良いだろうが、允恭天皇が氏姓の乱れを正すために甘樫丘で盟神探湯をさせたという記事を、そのまま事実と受け止めることはできないと断定されます。そして、このような伝承が允恭天皇と結びつけられるのは、飛鳥地方における最初の宮である遠飛鳥宮(「古事記」)がこの天皇の時に置かれたとする伝承に関係すると考えられます。この伝承から、以降の飛鳥の官人たちには、氏姓制度の法秩序が允恭帝の治世に定まったかのように映ったのではないか、ということです。

 

・真ん中の祠が春日造。両脇は流造

 

【社殿、境内】

とにかく目を引くのが、拝殿の北に立っている畳大の「立石」と呼ばれる板石です。高さ3メートル、幅約1.5メートル、厚さ約1メートルの片麻岩です。この豊浦だけでなく、岡、上居、立部、小原などにも残っていて、条里制の地割の標石とする見解もあったようですが、用途や年代は不明です。大矢氏も書かれていた通り、飛鳥の謎の石像遺物の一つと言えるでしょう。

 

・「立石」。前に石の輪に釜を据えると思われます

 

【祭祀・神事】

毎年4月の第1日曜日に「クカタチの神事」が今も行われていますが、これは記紀の記述にちなんで、戦後に始められたものです。往古より連綿と継承されていたものではなく、古式を偲んで嘘偽りを正し爽やかに暮らしたいと、地域の結束を強めるべく始められた神事のようです。

 

 

【伝承】

允恭天皇らの和の五王の時期の出雲伝承は、富士林雅樹氏の「仁徳や若タケル大君」に多く書かれていますが、允恭帝の盟神探湯の話は出てこないです。やはり、後に生成した説話と考えて良いのでしょうか。允恭帝については、玉田宿祢らの葛城氏への圧迫の事や、新羅との敵対関係等々の興味深い伝承が説明されています。また、斉木雲州氏の主張に依れば、甘樫丘の上に、いわゆる「記紀の蘇我氏」の邸宅が有った事はなく、向原寺や当社のある豊浦地域が拠点だったと主張されています。となると、近年甘樫丘の遺跡から火災の痕跡が見つかったという話はどう考えれば良いのでしょうか。機会をみつけて、その発掘状況の事も勉強してみたいと思います。

 

・境内

 

(参考文献:甘樫坐神社境内掲示、旅する明日香ネットHP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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