摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

太田茶臼山古墳(茨木市太田)~継体天皇の謎の伝承から浮かび上がる被葬者と気になる太田神社の由緒~

2018年12月15日 | 高槻近郊・東摂津

 

先にアップさせていただいた、大阪府茨木市に鎮座する太田茶臼山古墳についての記事では、最近の考古学、古代史研究の中で論じられている話を、掴んでる範囲でまとめてみました。

今回は、この古墳の"近辺"に存在する東出雲王国伝承等をつなぎ合わせる事で、個人的におぼろげながら思い立った被葬者像について感じている事を記載してみたいと思います。知ってる事を集めてみました、という感じです。なお、残念ながら出雲伝承の中では、太田茶臼山古墳について触れた文章は確認していません。

今回の写真は、太田茶臼山古墳の周囲の陪冢や太田神社です。

・宮内庁に号。公園にあります



【「太田」「茶臼山」という名前】

茶臼山という名は、全国の古墳の多くに付けられてる名前で、前方後円墳が茶臼に見えるから、とウィキペディアに説明されています。だからこの名でどうだとは言えないとは思うのですが、出雲に親しくなると、どうしても気になるのです。

まずは、松江、つまり古代東出雲王国の神奈備山、出雲国風土記にも神名樋野として出てくる茶臼山があります。東出雲を代表する山です。

そして、東出雲王家の富氏の分家、登美氏が、摂津三島に一時居た後、大和に移動、纏向を拠点にした伝承は既に紹介しましたが、この地には桜井茶臼山古墳があります。これは別名、外山(トビ)茶臼山古墳と呼ばれており、出雲古伝では登美氏(古代、トビと呼んだそう)の御方のお墓だとしています。さらに、JR巻向駅の西側の遺跡の点在する地の地名が太田なのです。古伝では、大田田根子にちなんで付けられたといいます。

ただ、茨木市の太田については、「播磨国風土記」にある゛呉の勝、韓国より渡り来て、始め、紀伊国名草郡大田村(和歌山市の日前・
国懸神宮の西)に到りき。その後、分かれ来て、摂津国三島賀美郡大田村に移り到りき゛の話が通常は取り上げられる事も併記しておきます。太田神社を奉祀する中臣大田連の先祖のことです。


・宮内庁ほ号。に号と同じ公園に有ります


古代や歴史時代に出雲から全国各地に移り住んで行ったであろう人々の痕跡を地名や神社などを元にたどった、岡本雅亨氏の「出雲を原郷とする人たち」でも気になる"茶臼山"があります。

武蔵国、現在の埼玉県比企郡吉見町は、高負彦根神社などの出雲系の神社が密集しており、「吉見町史」でも「古代この地が出雲系の勢力下に有ったことは明らか」で、「住民には出雲系の血が濃く、生活文化の伝統にも大和とは異質のものが強く流れていた」と記されています。この吉見丘陵の、黒岩横穴墓群の近くに茶臼山古墳があるのです。

ちなみに、高負彦については出雲伝承があります。摂津三島にはかつて「高生」郡の地名があり、この地の出身の「高負」彦の子孫が各地に高負彦神社を建てたといいます。これが開化天皇の兄、大彦の後に続いた阿倍勢力です。そしてまた蛇足ですが、吉見町の高負彦根神社の鎮座地の通称がポンポン山なのですが、高槻の北部にもポンポン山があります。これも出雲系氏族のつながりの跡でしょうか。


「出雲を原郷とする人たち」でもう一つ茶臼山がありました。新潟県の早川谷の、出雲大神にまつわる八龍淵の伝説のある地です。大昔八口山(現在の火打山)に民を苦しめる八口なる者がおり、大穴持神がこれを征したところ、大蛇と化した八口が八色の血を流して山を下り、麓の池に入った。これが八龍淵になったといいます。この八口山と八龍淵のそばに有った火山が茶臼山と呼ばれていました。現在は焼山と名が変わっており、また八龍淵も茶臼山の噴出物で消滅したようです。


以上になりますが、つまり茶臼山の名には、出雲との濃厚な関係を感じてしまうという事なのです。



・宮内庁へ号。これでも宮内庁管理。


【継体天皇の出自についての出雲伝承】

継体天皇の出自については、近江だとも言われますが謎とされてま
す。対して出雲伝承はちょっと唐突な話ですが、継体天皇は旧東出雲王家、富(向)氏の当時の次男だと主張するのです。実は、出雲大社内では江戸時代始めに行われた神仏分離の際に、この事が当然の史実として認識され物事が動くときがあったそうです(「出雲と蘇我王国」)。そして振姫は、母でなく后として、出雲まで婿様を迎えに来た話がされています(「飛鳥文化と宗教争乱」)。何でもかんでも出雲!?という印象も有りますが、この話をとにかく゛代入゛してみます。

オオド王は、自分の出身家系、富氏の領土だった摂津三島の協力を仰ぎ、淀川水系の水運を利用し財力を蓄えます。この淀川地域を基盤としたのは、富~登美氏と三島の関係を考えると、ごく自然な事だったのです。弟国宮は越前国王の時から拠点とした所で、その当時から三島の人々が手伝いに訪れていたといいます。

この伝承を有りとしたなら、気になってくるのが継体天皇の真陵である今城塚古墳と太田茶臼山古墳の関係です。先の太田茶臼山古墳の記事でも触れました通り、約100年の隔たりのあるこの2つの古墳に、埴輪製作遺跡である新池遺跡から埴輪が供給されたと判明しているのです。この考古学上の成果から、今城塚の被葬者が太田茶臼山の被葬者との繋がりを強く意識したと考えられており、つまり継体帝と血のつながりが有る事を前提に、太田茶臼山古墳の被葬者が議論されているのが現況になっています。


宮内庁と号。やはり公園内です

 

【同時期に行われた、「三島大溝」と出雲意宇平野の水利開発】

雑誌邪馬台国の出雲特集で、島根県埋蔵文化財調査センターの池淵俊一氏が興味深い論考を寄稿されていました。日本書紀、仁徳即位前記の、淤宇宿禰にまつわる伝承を起点とした話です。

近年、島根県の意宇平野の発掘調査で、5世紀代の首長居館と推定される遺構とその周辺に多数の朝鮮式土器が出土しており、この地の首長が渡来人の定住に深く関与したことが分かってきたのです。これは、前記した日本書紀の、淤宇宿禰が仁徳天皇の命により朝鮮半島を往還した姿と重なるといいます。

さらにこの5世紀、意宇川の付け替えを含む大規模な水利開発がされた事も判明したのです。これら成果から、5世紀の意宇の首長層は大和王権と密接な関係を取り結ぶとともに、朝鮮半島から渡来人を招聘し、彼らの持つ先進的な水利技術により意宇平野の開発を進めた、と池淵氏は述べられています。


・太田神社入口。今年の地震や台風の影響で鳥居が壊れてました。



水利事業と言えば、思い出すのが、これも先に太田茶臼山古墳の記事で紹介した、同じく5世紀の、三島における大規模灌漑用水路、三島大溝の事業です。淤宇宿禰に象徴された意宇平野の首長が、大和王権との関係から優先的に朝鮮半島の渡来人の水利技術を利用する特権があったのなら、大和王権が主導したとされる三島大溝の技術も、この渡来人の力を利用したのではなかったか。。。それを管理したのが、意宇平野、つまり東出雲の首長である気がするのです。そもそも三島の地はかつて出雲王家富氏の領地との主張しているのです。勝手が分かっていたと思われます。

森田克行氏の三島大溝の文章の中に朝鮮半島や渡来人に関する発掘情報は有りませんでしたが、ただ三島鴨神社及び鴨神社の公式の由緒に、仁徳天皇の時代に朝鮮半島、百済の神がやって来た話が有りました。おそらく渡来人がやって来たのでこのような由緒が出来たのではないでしょうか。


・太田神社拝殿。この裏に、宮内庁は号陪冢があります。

 

実は近年の東出雲、富氏にこんな話が有ったそうです。1968年に出雲国造が「出雲国造家文書」を発行しましたが、その家系図に、野見宿祢と淤宇宿禰が"付け足されてた"そうです。斉木雲州氏は、この御二方は富氏の人であり、国造家とは関係ないと主張されます。富氏と国造家は一時婚姻関係があり、そのあたりを利用して有名人を家系に入れたかったと思われるようです。それはともかくここで大事にしたいのは、富氏及び出雲国造家が、淤宇宿禰が出雲にいた実在の人として取り上げ、出雲伝承は富氏の人だと主張した事です。これで、オオド王と淤宇宿禰がつながりました。。。


つまり、太田茶臼山古墳は、大和王権の要請により、かつて領土だった摂津三島の地を、渡来人の技術を活用して開発した、淤宇宿禰を葬った古墳だったのではないでしょうか。ここでいう淤宇宿禰は、固有名詞ではなく、東出雲王家、富氏の家系の御方、と捉えておきたいです。








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