横スカッとジャンパーズ

徒然なる侭に、主にマリノスと日常をくっちゃべります。毒にも薬にもなりません!

そんな事言わないで

2008年07月22日 12時51分27秒 | Weblog
父が来て、1ヶ月。
変わらないと思っていた父の病状だったが、先週中旬から1人でベッドから立ち上がるのが難しくなった。
親として弱っているところを子どもに見せたくないという考えの父は、母の助けを借りて何とか立ち上がっていた。

枇杷の葉こんにゃく湿布を当てたり、体をさすったりしながら、良くなればと念じながら二週間近く。
それでも緩やかに父の体調は悪化し、とうとう日曜の午後には1人で椅子から立ち上がれなくなった。
父は私や兄に介助されながら、トイレや椅子での立ち上がりをし始めた。

そんな中、父は祖父(今年91歳)の遺産の分配について、日曜に叔父と話し合いを行った。
母はずっと押し黙っているのに叔父の嫁が何度も口を挟むという、所謂遺産争いが起きたらしい。
我々は兄弟は別室で控えていたのだが、一時間あまりの長い話し合いの末、父は祖父が望んだ遺産分与を、父が何かあったときは兄が代襲相続するという形でなんとか叔父夫婦に納得して貰った。

叔父が相続したら、祖父の大事な土地や家を売り払ってしまうからだ。
親元を離れた後も、叔父達が家や墓の購入には祖父の資金援助があった事は、我々は知っている。祖父自身も父にそのような特別な援助をせず、両親が自分達の貯金でやってきたのを知っていたから、父に土地と家(家督)を、叔父に株や現金を残すと常々言っていた。
しかし叔父の嫁が「半分こです、全部半分こです!」と主張し、叔父も「(土地の方が財産価値があるから)そこで俺達も住むから」と…。

父に何かあったときは兄が代襲すると決まり、兄が叔父夫婦と交えて話し合う時も、兄と入れ代わりながら、
「あくっまはいいよね、お母さんのお家で」
と口にしていたので、「…わたしゃ何でもいいよ」と答えた。


その話し合いから帰ったら、父は1人で立てなくなった。
翌日月曜、父はテレビを見ているから買い物に行っていいと話したので、食材と近所のお寺と神社にお参りして帰ったら、居間で父が倒れていた。電話が鳴ったから出ようとしたら、倒れたそうだ。ぴくりと動かない父を見て、叫んでしまった。

幸いなことに父はこめかみを浅く切る程度で済んだ。しかし倒れた父を起こすのは一苦労で、体育座りまではあくっまさんの力で出来たが、起き上がらせるには兄が帰ってくるまで出来なかった。

それから父は1人で歩くのを嫌がり、家のなかでも家族の支えを必要とした。
今日また化学療法を受けるために入院するので、1人で立てない父を支えるために会社を半休した。

先週までは何事もなく母と二人で出かけられたのに。

骨と皮になり、身体中から何もかもなくなってしまった。お腹だけ腹水で少し腫れている。
好転する事がないのは分かっている。現状維持でさえもこんなに難しいことなのか。

十年ぶりに家族一緒に過ごして1ヶ月しか経っていない。
叔父一家に最後の別れのように品川駅で見送られて、2ヶ月。

「東海地方は二人が出会った土地だから良い事あるよ」「お母さんの病気も治ったしね」

両親の言った通り、父は物が食べられて化学療法が受けられる体になって帰ってきた。
しかし、帰宅する事になり近所にある雑誌『安心度病院ランキング』上位に掲載されていた大学病院に転院したら、あまりに古い設備や治療法(前にいた日本有数の専門病院だけでなく、東海地方のランキング外のような地方病院でもやっていた、スタンダードな療法)、高い個室料金のわりに酷い部屋や看護婦の不勉強等、まさに「聞くと見るではまるで違う」病院に行くこととなった。
切羽詰まっている我々はお金で解決するしかない。
「病室が空いていない」なら差額ベッド代を払って個室を、治療費を、全て払った。
必要が感じられない入院が何日も続いたときは文句を言っても受け入れられず、毎日差額ベッド代を払った。


だから、お金が大切なのはよくわかる。
何かあったときに命を繋ぎ止められるのは、金だ。

それで、財産放棄をしてもいいと言う家族の言葉に耳を貸さず、父は必死に遺産権利をもぎ取ってきたのだろう。
…所詮口約束だから、いざ遺産配分になり父がテーブルにつかないような事態になったら、あっさり覆ってしまうかもしれないが。


「お母さんさんのためじゃない、お父さんは子どもの為に頑張って話し合ったんだよ」
既に老人ホームにいる祖父の空き家を、父と母が楽に住めるようにリフォームの注文をしている。
父に何かあったら、母はそこで暮らしながら家賃収入で細々食べていく。
今の四人で住むには小さな家でなく(何せ座敷牢のような四畳半で父が、居間で母が寝ているのだ!)、もう少し広い家でゆったり暮らさせてあげたい。


二週間と言われた余命宣告から2ヶ月経った。
しかし、治療が出来ない二週間と治療が出来てからの2ヶ月は違う。
たった2ヶ月だ。

あの時癌研の医者がマニュアル通りではなく融通をきかせて抗がん剤をうってくれたら。
あの時色々検査したたくさんの病院で、父の癌の再発に気付いてくれたら。
そもそも、最初にあんな研修医上がりが父の担当にならなければ。
あの医者達がちゃんと時間をかけて父の体を洗浄させてくれれば。


ご飯を食べながら母が「どうしてこうなっちゃったんだろうね」と言った。
食事に味がなくなった。


そんなこと言ったらどうにもならなくなる。前に進めなくなる。
だが去年の今頃は、三連休でユーミンのコンサートを取ったと話していて、誕生祝いに皆でランチしようと話していて。
どうしても我々は去年に返ってしまう。こんなはずじゃなかったのに、なんて話すと。


今の我々にとって、一日一日が宝石のように輝いていて、貴重な宝物なのだ。