十一献金
参考サイト:
なぜ10分の1献金をしなければならないか | キリストの栄光教会
キリスト教入門_捧げもの・献金
<十一献金>
アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
創世記14:20
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためして見よ。・・・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ書3:10
十分の一献金とは、毎月(あるいは毎週収入のある人は毎週)収入があった時に、収入の十分の一の金額を献金するものです。もちろん強制ではありませんが、マラキ書3章8節には、十分の一と奉納物を盗んでいる。とあるので、収入の十分の一は、本来神の物なのです。
十分の一献金とは慣れていない人にとっては決して簡単な事ではないと思います。しかし、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。とあります。聖書には神を試してはいけないとありますが、ここだけは試して見よ。とあります。
私も、以前は十分の一に葛藤を覚えました。しかし、聖霊の促しに従って一大決心をして捧げました。その結果、給料が10万円もいい職場に代わることが出来たのです。以前は夜7時まで働いていましたが、5時で帰れるようになりました。
十一献金とは、生活の面で神に信頼することを意味します。経済とは、人間の弱い部分でその部分で神に信仰が持てない時、この世のお金に頼って生活しなければいけません。神がどんな時にも支え必要を満たしてくださる事を信じ、多少きついと思っても捧げる時、確かに神が豊かに支えて下さる事を体験できます。十一献金とは神に対する信仰と献身の現れです。
また、十一の捧げ方としては、収入が入った時点で初穂の最良の部分として十分の一を取り分け捧げましょう。
Testimony: 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容)
論述:離脱について: Testimony
2012/06/28
それでは、エックハルトの言う「離脱」とは、いかなるものなのだろうか。彼曰く、「真の離脱とは、鉛でけきた山が少々の風にはびくともしないで不動であるように、襲いくるあらゆる愛や悲しみ、名誉や恥辱、誹謗に対して、精神が不動であることにほかならない。このような不動の離脱こそが神と最も等しきものになるように人を導くのである」と。
聖書には、哀れみのゆえに神の意志に反するような行為は許されていない。それは、神の愛を疑うことなのである。それゆえ、自分の愛や哀れみの心よりも神の命令を優先すべきなのである。その結果、一人息子を失うことになってもである。
私たちの信仰は、共に独り子を捧げたアブラハムと父なる神ご自身にかかっているのである。この一線を越えることは、大きな冒険であり、この世の知識や力をもってしては無理である。それには、どうしても聖霊の力が必要である。聖霊にすべてを明け渡し、コントロールされる体験、すなわち「聖霊のバプテスマ」が必要なのである。
それでは、このような完全な離脱にある人は、どのような生活をしているのだろうか。彼は、霞でも食べて生きているのだろうか。しかし、エックハルトによれば、その人は一見、普通の人と見分けがつかない。
離脱は、彼の内なる人においてのみ実現されているからである。彼の外なる人は、この世界の人々と共に喜び、悲しみを共にしながら生きているのであり、それがキリストに付き従うということなのである。そして、彼の意識の中心がこの外なる人から内なる人に移るとき、彼は永遠なる世界をめざして「変容」するのである。
神と神性とについて: Testimony
2012/06/20
しかし、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」とエックハルトは語る。そしてまた、「内なる人と外なる人とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と語る。
この二つの隔たりの間には、いずれも有限から無限への壁と時間と永遠との間の飛翔が横たわっているのである。そして、神がその壁と飛翔とを超えて存在しているように、人の魂もまたそれらを超えて存在しているのである。
それでは、魂がこの壁を超えて飛翔するとき、彼は何を経験するだろうか。それは、エックハルトによれば、「神が消える」ということである。そればかりでなく、すべてのものが消える。
神無しには何ものも存在できないからであり、その意味は、個体性の消滅ということである。例えば、永遠の世界においては、「場所」というような局所的な概念は存在しないとすれば、そこにはまた個体性も存在しないことになる。
同様に時間についてもそのように言えるのであり、「神」ということと「個」ということは、そのように結びついているのである。「すべての被造物が神と言うとき、そこで神は、『神』と成るのである」とエックハルトは言う。これが「個体性」という意味であり、私たちはその中で神を認識するのである。
もし私が、神を愛するゆえに、自分の個体性を脱却しようと願うなら、それは良いことに思われる。「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とパウロも言っている。そして、それにより、私の個体的な欲望もまた消滅し、自由に主に仕えることができるようになるだろう。
しかし、そのとき私は、この「仕える」ということをもう一度問い直さなければならなくなる。エックハルトが次のように言っているからである。
「わたしが神の内へ帰り来て、神のもとにも立ちどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。
わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである」と。
観想的生と活動的生について: Testimony
2012/05/10
この説教には、信仰者に馴染みのマリアとマルタという2人の姉妹が出てくる。マルタは主をもてなそうと立ち働いていたが、マリアは主の足元にすわって御言葉に聞き入っていた。エックハルトによれば、「マリアは、なにものともわからぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っていた」のであった。ところでこの「なにものともわからぬもの」とは、「変容」にほかならない。
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なぜ10分の1献金をしなければならないか | キリストの栄光教会
キリスト教入門_捧げもの・献金
<十一献金>
アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
創世記14:20
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためして見よ。・・・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ書3:10
十分の一献金とは、毎月(あるいは毎週収入のある人は毎週)収入があった時に、収入の十分の一の金額を献金するものです。もちろん強制ではありませんが、マラキ書3章8節には、十分の一と奉納物を盗んでいる。とあるので、収入の十分の一は、本来神の物なのです。
十分の一献金とは慣れていない人にとっては決して簡単な事ではないと思います。しかし、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。とあります。聖書には神を試してはいけないとありますが、ここだけは試して見よ。とあります。
私も、以前は十分の一に葛藤を覚えました。しかし、聖霊の促しに従って一大決心をして捧げました。その結果、給料が10万円もいい職場に代わることが出来たのです。以前は夜7時まで働いていましたが、5時で帰れるようになりました。
十一献金とは、生活の面で神に信頼することを意味します。経済とは、人間の弱い部分でその部分で神に信仰が持てない時、この世のお金に頼って生活しなければいけません。神がどんな時にも支え必要を満たしてくださる事を信じ、多少きついと思っても捧げる時、確かに神が豊かに支えて下さる事を体験できます。十一献金とは神に対する信仰と献身の現れです。
また、十一の捧げ方としては、収入が入った時点で初穂の最良の部分として十分の一を取り分け捧げましょう。
Testimony: 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容)
論述:離脱について: Testimony
2012/06/28
それでは、エックハルトの言う「離脱」とは、いかなるものなのだろうか。彼曰く、「真の離脱とは、鉛でけきた山が少々の風にはびくともしないで不動であるように、襲いくるあらゆる愛や悲しみ、名誉や恥辱、誹謗に対して、精神が不動であることにほかならない。このような不動の離脱こそが神と最も等しきものになるように人を導くのである」と。
聖書には、哀れみのゆえに神の意志に反するような行為は許されていない。それは、神の愛を疑うことなのである。それゆえ、自分の愛や哀れみの心よりも神の命令を優先すべきなのである。その結果、一人息子を失うことになってもである。
私たちの信仰は、共に独り子を捧げたアブラハムと父なる神ご自身にかかっているのである。この一線を越えることは、大きな冒険であり、この世の知識や力をもってしては無理である。それには、どうしても聖霊の力が必要である。聖霊にすべてを明け渡し、コントロールされる体験、すなわち「聖霊のバプテスマ」が必要なのである。
それでは、このような完全な離脱にある人は、どのような生活をしているのだろうか。彼は、霞でも食べて生きているのだろうか。しかし、エックハルトによれば、その人は一見、普通の人と見分けがつかない。
離脱は、彼の内なる人においてのみ実現されているからである。彼の外なる人は、この世界の人々と共に喜び、悲しみを共にしながら生きているのであり、それがキリストに付き従うということなのである。そして、彼の意識の中心がこの外なる人から内なる人に移るとき、彼は永遠なる世界をめざして「変容」するのである。
神と神性とについて: Testimony
2012/06/20
しかし、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」とエックハルトは語る。そしてまた、「内なる人と外なる人とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と語る。
この二つの隔たりの間には、いずれも有限から無限への壁と時間と永遠との間の飛翔が横たわっているのである。そして、神がその壁と飛翔とを超えて存在しているように、人の魂もまたそれらを超えて存在しているのである。
それでは、魂がこの壁を超えて飛翔するとき、彼は何を経験するだろうか。それは、エックハルトによれば、「神が消える」ということである。そればかりでなく、すべてのものが消える。
神無しには何ものも存在できないからであり、その意味は、個体性の消滅ということである。例えば、永遠の世界においては、「場所」というような局所的な概念は存在しないとすれば、そこにはまた個体性も存在しないことになる。
同様に時間についてもそのように言えるのであり、「神」ということと「個」ということは、そのように結びついているのである。「すべての被造物が神と言うとき、そこで神は、『神』と成るのである」とエックハルトは言う。これが「個体性」という意味であり、私たちはその中で神を認識するのである。
もし私が、神を愛するゆえに、自分の個体性を脱却しようと願うなら、それは良いことに思われる。「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とパウロも言っている。そして、それにより、私の個体的な欲望もまた消滅し、自由に主に仕えることができるようになるだろう。
しかし、そのとき私は、この「仕える」ということをもう一度問い直さなければならなくなる。エックハルトが次のように言っているからである。
「わたしが神の内へ帰り来て、神のもとにも立ちどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。
わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである」と。
観想的生と活動的生について: Testimony
2012/05/10
この説教には、信仰者に馴染みのマリアとマルタという2人の姉妹が出てくる。マルタは主をもてなそうと立ち働いていたが、マリアは主の足元にすわって御言葉に聞き入っていた。エックハルトによれば、「マリアは、なにものともわからぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っていた」のであった。ところでこの「なにものともわからぬもの」とは、「変容」にほかならない。
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