現実を創造するために行うこと - 02
意識の深いレベル(無意識)では、「自己重要感(自己肯定感)」を満たすことが必要とされます。
意識の深いレベル(無意識)を書き換えるためには、
ルー・タイスの「アファメーション」を使用します。
ルー・タイスの「アファメーション」は、自己暗示ではありません。
催眠の技術や自己暗示の技術は、使用しません。
時間は、未来から過去へと流れている。
レスター・レヴェンソンは、心が作り出した現象世界には、
時間があるが、無限には時間は、存在しないと言っています。
永遠の「今」のみが、存在します。
心が作り出した現象世界にある時間を、どうフォーカスするかで、
今の現実が、変わります。
過去から未来へと流れている。とフォーカスするか?
未来から過去へと流れている。と、フォーカスするか?
時間は未来から過去へと流れています。
そして、この概念を理解することが、
私たちが理想の人生を送るためのカギなのです。
理想の人生、すなわち思い通りに夢が叶っていく人生ですが、
それはどのように実現していけばいいか知っていますか?
「自分の理想の夢を叶えた未来はもう決まっている。
あとは、その未来がやって来るまで、時間が経つのを待つだけだ。」
という状態です。
(100) Kuusii Ta - 時間は、未来から過去へと流れている。 苫米地英人は次のように主張する。...
時間は、未来から過去へと流れている。
苫米地英人は次のように主張する。
「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学で古くから述べられている。またこれは現代の分析哲学における結論でもある、と指摘しつつ、苫米地英人はこの見方を支持している。
「現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。つまり現在の結果が過去です。あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているわけです。」
参考資料
注記:時間 - Wikipedia
これはこのページの過去の版です。RJANKA (会話 | 投稿記録) による 2015年7月9日 (木) 16:33 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。
時間の向き
苫米地英人の主張:時間は未来から過去へ流れる
苫米地英人は次のように主張する。
「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学で古くから述べられている。またこれは現代の分析哲学における結論でもある、と指摘しつつ、苫米地英人はこの見方を支持している。
「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方というのは、創造主が世界をつくった、とするユダヤ・キリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない、と苫米地は指摘している。
創造主のいる宗教では「絶対神がビッグバンを起こし宇宙を創造したことからすべてが始まりそれにより玉突き的に因果が起きて現在まで来た」と考えたがるが、そう考えないと創造主自体の存在を肯定できないので、「過去の出来事が現在の原因である」と解釈されることになる、と苫米地は指摘した。
こうした考え方で“過去の因果によって現在、そして未来がある”などと考える限り、自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない、とも指摘されている。自分自身を、まるでただのサーモスタットのように見なすことになってしまうからである。
ユダヤ・キリスト教的な時間観の枠内だけで育った人には意外に思えるかも知れないが、その枠をとりはらって少し考えてみてみると分かるようになるという。以下のように解説されている。
現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。
つまり現在の結果が過去です。あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているわけです。
この感覚は一度理解できると意外なほどに腑に落ちるという。自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく感覚。(自分が過去から未来へと向かっているのではなく)未来のほうが自分に向かって流れてくる感覚である。
そして現在起きたことがどんどん過去になり遠ざかってゆくという時間の流れの感覚である。こう考えれば、現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、しかもその未来は(過去の因果ではなく)さらに未来の因果によって決まる、ということになる。
これを川の流れに喩えるなら、クルーザーに乗って川上に進みつつ、自分は川の一点を見ている、ということである。川は上流(未来)から下流(過去)に向かって流れている。ある時自分が上流から赤いボールが流れてくるのを見る。その後青いボールが流れてくるのを見る。
ユダヤ・キリスト教的時間観で見てしまうと「赤いボールが流れてきたから、青いボールが流れてきた」という解釈になる。だが実際はそうではない、と苫米地は指摘する。赤いボールが流れてきた結果青いボールが流れてきたわけではない。
未来という上流から、未来における何かの因果によって、赤、青の順番で放たれてそれが現在にまで到達したから、赤、青という順番で流れてきた、と苫米地は指摘する。
例えば上の事例で、赤いボールを拾うか拾うまいか迷った揚句拾わなかった。その後青いボールが流れてきたのを見た時に、どう考えるか、ということがある。
ユダヤ・キリスト教的な時間観で解釈してしまうとつい「しまった、赤いボールを拾わなかったから、青いボールが流れてきてしまった」と考えることになってしまうが、この場合も、赤いボールを拾わなかった、ということと、その後に青いボールが流れてきた、ということは何の関係もない。
つまり「あの時、赤いボールを拾ってさえいれば…」などとくよくよ悩むことは意味がないのである。過去に縛られる理由などどこにもないと苫米地は指摘する。
続きます。
現実を創造するために行うこと - 03
(2015-09-27 14:11:16 | レスター・レヴェンソン感情のリリーシング)
意識の深いレベル(無意識)では、「自己重要感(自己肯定感)」を満たすことが必要とされます。
意識の深いレベル(無意識)を書き換えるためには、
ルー・タイスの「アファメーション」を使用します。
ルー・タイスの「アファメーション」は、自己暗示ではありません。
催眠の技術や自己暗示の技術は、使用しません。
時間は、未来から過去へと流れている。
レスター・レヴェンソンは、心が作り出した現象世界には、
時間があるが、無限には時間は、存在しないと言っています。
永遠の「今」のみが、存在します。
心が作り出した現象世界にある時間を、どうフォーカスするかで、
今の現実が、変わります。
過去から未来へと流れている。とフォーカスするか?
未来から過去へと流れている。と、フォーカスするか?
時間は未来から過去へと流れています。
そして、この概念を理解することが、
私たちが理想の人生を送るためのカギなのです。
理想の人生、すなわち思い通りに夢が叶っていく人生ですが、
それはどのように実現していけばいいか知っていますか?
「自分の理想の夢を叶えた未来はもう決まっている。
あとは、その未来がやって来るまで、時間が経つのを待つだけだ。」
という状態です。
(100) Kuusii Ta - 時間は、未来から過去へと流れている。 苫米地英人は次のように主張する。...
時間は、未来から過去へと流れている。
苫米地英人は次のように主張する。
「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学で古くから述べられている。またこれは現代の分析哲学における結論でもある、と指摘しつつ、苫米地英人はこの見方を支持している。
「現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。つまり現在の結果が過去です。あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているわけです。」
参考資料
注記:時間 - Wikipedia
これはこのページの過去の版です。RJANKA (会話 | 投稿記録) による 2015年7月9日 (木) 16:33 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。
時間の向き
苫米地英人の主張:時間は未来から過去へ流れる
苫米地英人は次のように主張する。
「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学で古くから述べられている。またこれは現代の分析哲学における結論でもある、と指摘しつつ、苫米地英人はこの見方を支持している。
「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方というのは、創造主が世界をつくった、とするユダヤ・キリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない、と苫米地は指摘している。
創造主のいる宗教では「絶対神がビッグバンを起こし宇宙を創造したことからすべてが始まりそれにより玉突き的に因果が起きて現在まで来た」と考えたがるが、そう考えないと創造主自体の存在を肯定できないので、「過去の出来事が現在の原因である」と解釈されることになる、と苫米地は指摘した。
こうした考え方で“過去の因果によって現在、そして未来がある”などと考える限り、自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない、とも指摘されている。自分自身を、まるでただのサーモスタットのように見なすことになってしまうからである。
ユダヤ・キリスト教的な時間観の枠内だけで育った人には意外に思えるかも知れないが、その枠をとりはらって少し考えてみてみると分かるようになるという。以下のように解説されている。
現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。
つまり現在の結果が過去です。あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているわけです。
この感覚は一度理解できると意外なほどに腑に落ちるという。自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく感覚。(自分が過去から未来へと向かっているのではなく)未来のほうが自分に向かって流れてくる感覚である。
そして現在起きたことがどんどん過去になり遠ざかってゆくという時間の流れの感覚である。こう考えれば、現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、しかもその未来は(過去の因果ではなく)さらに未来の因果によって決まる、ということになる。
これを川の流れに喩えるなら、クルーザーに乗って川上に進みつつ、自分は川の一点を見ている、ということである。川は上流(未来)から下流(過去)に向かって流れている。ある時自分が上流から赤いボールが流れてくるのを見る。その後青いボールが流れてくるのを見る。
ユダヤ・キリスト教的時間観で見てしまうと「赤いボールが流れてきたから、青いボールが流れてきた」という解釈になる。だが実際はそうではない、と苫米地は指摘する。赤いボールが流れてきた結果青いボールが流れてきたわけではない。
未来という上流から、未来における何かの因果によって、赤、青の順番で放たれてそれが現在にまで到達したから、赤、青という順番で流れてきた、と苫米地は指摘する。
例えば上の事例で、赤いボールを拾うか拾うまいか迷った揚句拾わなかった。その後青いボールが流れてきたのを見た時に、どう考えるか、ということがある。
ユダヤ・キリスト教的な時間観で解釈してしまうとつい「しまった、赤いボールを拾わなかったから、青いボールが流れてきてしまった」と考えることになってしまうが、この場合も、赤いボールを拾わなかった、ということと、その後に青いボールが流れてきた、ということは何の関係もない。
つまり「あの時、赤いボールを拾ってさえいれば…」などとくよくよ悩むことは意味がないのである。過去に縛られる理由などどこにもないと苫米地は指摘する。
続きます。
現実を創造するために行うこと - 03
(2015-09-27 14:11:16 | レスター・レヴェンソン感情のリリーシング)