日記の「雑感」から少し手を加えて掲載することにした。日記はなるべく公開したくない。他人に読まれて恥ずかしい部分や都合の悪いことが多く書かれている。掲載するとすれば、選んで手直しして・・・という手順を踏まないととても無理である。人間なのだ。
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12月21日。月曜日。このところ連日晴れが続いている。片山右京の富士山遭難の事件も、昨日でパタッとメディアが報じなくなった。僕がblogに疑問として載せたような、細かい経緯は発表されていない。200メートルほどの滑落とはいえ、片山氏の方は、凍死をするような状態ではなかったのである。片山氏が生きて同じ場所にいる間に、二人とも亡くなったようなのである。その違いが明確に報道されていない・・・・・。
今日は、「吸血検査」の結果を聞きに行く日である。どうなっているやら。ここ2、3ヶ月余り、血圧の高い日が続いている、と思う。先日新しい血圧計を買ったばかりで、ここ数週間のデータしか取れていないが、やはり高めで、だからまず当たっているだろうと思うのである。「吸血鬼」の事は既にblogに書いた。ま、面白く読んでくれれば幸い、といったところだ。
数日前に立ち上げた別のblogの中身を昨日、掲載した。モラから始めた。ほぼ、おふくろ、もしくはその関連の作品のフォトで行こうと思っている。4枚のモラのフォトを載せ、最後はXmasにちなんだモラで終わっている。素人の作品なので良し悪しは別として、時宜を得た素晴らしい掲載と言えるだろう。いずれも未発表のものである。今回初公開・・・。
11月21日・2009のblog・渋谷・副都心線の駅
のあと、
渋谷の街へ出て歩いた。
その時のフォト・・・
ビックカメラのキャンペーン。フォトを撮りたいと言ったら
恥ずかしがってポスターの裏に隠れてしまった。
言わずに自然の姿をそのまま撮った方がよかったかな。
国立代々木競技場(第2体育館)
同上。第1体育館と少しプロポーションが違う。
国立代々木競技場(第1体育館)
オリンピックプールでは30年以上前に泳いだことがある。
もちろん競技ではなく、遊びで。
有名過ぎて、見慣れたアングル。
誰もが見慣れてしまって何とも思わないかもしれないが、
横長の開口のカーブが流れるようで、いつも観て気持ち良いと思う。
フィーリングの問題。
同上。夕方。話す二人。
吊り構造の屋根の曲線。
見飽きたと言ってしまえばそれまで。
追記
現在20日の午前3時である。前記の遭難事故で、安否が気付かわれていた二人は、その後、19日の段階で遺体で収容された、と報道があった。やはり駄目だったか、との思いだ。片山氏が山で、まだ二人のそばにいた時に、すでに一人は脈が無くなり、もう一人には毛布をかぶせて下山した、という報道であったからその時既にこと切れていたのかもしれない。片山氏は談話の一部で、何とかして担いで下りたかったが、助けられなかった、と語ったそうだ。気持はそうだったかも知れないが、問題はそういうことではないだろう。仮に力が信じられないくらいある人間だとして、かついで降りられたらそれで良かったかと言えばそうではないだろう。そこだけの問題では無いはずだ。それが分からないから事故を起こす。
もう一つ不可解なことがある。亡くなった二人は凍死だったそうだ。片山氏の話からすると、恐らく、片山氏がまだ二人のそばにいる時に凍死したのだろうが、彼らは200メートルほど飛ばされたとはいえ、怪我をしていなかったのであれば、その段階では歩けたのではないかと思うのだ。また仮に脚を骨折などして動けなかったとしても、そこから動かずに少しでも防寒などに努めれば、凍死はしなかったのではないか。現に片山氏はそこで凍死せずに下山している。その時滑落した二人と同じ条件下にいたはずなのだ。なのになぜ二人は凍死したのか。ここが分からない。
まだ事情聴取は続いているのかもしれない。詳しいことはまたいずれ発表されるかもしれない。他の、山に詳しい人の話だと冬の富士は厳しいという人ばかりで、実際そうなのだろう。・・・この辺にしておく。
・・・私は冬山はやらない。また、登山経験も他人に言うほどのものではない。が、山歩きは好きである。
昨日、2枚前のblogでズブロッカのことについて触れ、バイソングラスのことを書いた。ポーランドなどで牛が食べる草だったと記憶していたが、たぶん次のようであっただろうと調べてみたらやはり・・・であった。その牛のことをバイソンというのである。wikipediaで簡単に調べられる。楽なものだ。
ヨーロッパバイソン wikipediaより抜粋
大きく分けてヨーロッパバイソンとアメリカバイソンがいる。ヨーロッパバイソンはポーランド・ベラルーシの国境にまたがるビャウォヴィエジャの森に生息するのが最も知られている。ビャウォヴィエジャの森は世界遺産に指定されている。有名な、ラスコーの洞窟壁画に描かれているものもこれらの祖先の、古代のバイソンである。
ビャウォヴィエジャの森 wikipediaより抜粋
追記
ポーランドで思い出したが、自邸の居間のフローリングは、何かの縁か、ポーランド製の構造用木製パネル(チップを固めたもので安く、木目の面白さが特徴、ただ内装材として使う時は少しその木目がうるさく感じるので適所に・・・、ホームセンターなどどこでも手に入る)を私が半年ほどかけて木軸組も含めて張り替えた。遊びつつかなり凝ったものになった。根太を通常の倍ぐらい入れたので、恐ろしいくらいびくともしない。ハンディクラフト感は狙いどおり出過ぎるくらい出ている。作って行くプロセスとLIFEが密着したものとなった。今は亡くなった父親が、半ば呆れ半ば面白がっていた。
ところでもちろん私はこういうことばかりやっている訳ではないので・・・・・・。
今、このblogをZhane(ジャネイ)のalbumを聴きながら書いていた。album titleは「Satuaday Night」 ジャンルはsoul and R&Bに入る。黒人女性二人組のヴォーカル。ハーモニーを軽々とこなしていく。ものを書く時のBGMとして丁度よい。
他のblogを閲覧していた話の続き。コメントの多いblogというのは、文章短めだったり、肝心なところが少しだけ抜けていたりする場合が多い。
短めだと、おおざっぱに大意をつかみやすく、結果、「イイよねー」という論調のコメントに流れていく。少しだけ抜けていると、例えば、「この写真って、ドコ?」という類の軽い質問を含むコメントが付けやすい。
ところで私のようなblogにも、一件だけコメントが付いたことがあり、何と、出会い系の自己紹介コメントなのであった。blogの内容はそっちのけなのであった。ロシアのユニットのタトゥーのような格好をした、セーラー服に緩めたネクタイの少女のフォトが付いていて、5000円でお食事をお供します、という内容だったと思う。blog閲覧者に対してのものでコメントとしては凝ったものではあった。私は最初それを見たとき、私に対するメッセージで、何かオマケのようなものが当たり、5000円分、何か食べ放題のものでも食べられるのか、と思った。私は胃袋はかなり大きい、食べる時は相当食べられる。条件は整っている、とその時思った。
その昔、作家の開高健だったかが、その著書の中で、ズブロッカのことに触れていた。確か彼は、旨い酒は何故か水に近づいていく、というような事を書いていて、そこでズブロッカに触れていたと思うが、とても水のようには思えないし、ずいぶん以前に読んだものなので、記憶違いもあるかもしれない。ズブロッカは好きで、時々買ってきて飲む。瓶の中にバイソングラスという、一本の草が入っていて、その色がウォッカに滲み出、綺麗な薄緑色をしている。ポーランドの草原で牛が食べる、その草であったと思う。コップに注ぎ、少しだけ口に含むと、かすかな草原の香りと、ウォッカにほんの少しだけ、まろみととろみ、ほんのすこしだけ、がついた味わいがする。キンキンに冷やして飲むと、いつも旨いものだなと思う。
ラジオで一人称の話をしている。女性からのメールで自分のことをワシと言う人のものなどを紹介していて面白い。
ロッキーのテーマで高揚し、気合が入ってしまう人のメールも紹介していて、私と同じなので笑った。ろくすっぽ映画の方は観ていないのに、あのテーマが何処からか聞こえてくると、ウ―ッと気力が充溢し始め、月夜に狼に変身する狼男のごとく、少し違うか、力がみなぎってくるのはどういう訳か・・・。聞こえてくると自分の置かれている状況に関係なく、突如そうなるので、ほとんどの場合、そのパワーのはけ口がないことが多く、ランニングでもしに行くことになるのである。あるいは重りを持ち上げたり、と・・・。
いつもかかりつけになっている近所の医者へ今日、行った。内科の先生で、ずっとメタボ対策をして頂いている先生のところである。今日は採血検査であった。私は、この採血検査で、血を採ってくれるカワイイ看護師を「吸血鬼」と、ひそかに呼んでいる。だから採血検査は「吸血検査」と言っている。メタボではあるが大分、改善もされ、たちまちの重大な病気でもないから、力も血もみなぎっていて、欲しい人がいたら血などいくらでも分けてあげたいくらいだ。ただ、高脂肪、高尿酸の血かも知れないから病気になっても知らないゾ。吸血鬼に血を採られて血そのものが無くなってしまうと、高脂血症、高尿酸血症にもかかりようがないのだろうな、と注射針を刺されながら思った。その前に出血で息絶えるだろうけれど。結果は数日後。採られた血は小さな注射器に2,3本であった。大袈裟な・・・。
狼男、吸血鬼、ときたが、どれもどこかユーモラスだ。近頃は、現実の事件での、生の人間の方が怖い。訳の分らぬ馬鹿げた事件が多すぎる。
ラジオというのは、パーソナリティーがしゃべり続けにしゃべり続ける。TVなどと違って、映像で間を埋めるということもできず、したがって言葉を発し続けるのだろう。沈黙を恐れているようでもある。というよりただしゃべりたいのだろうな。人は空白を埋めたがるものなのかも知れない。絵などを描くと、そうだから・・・。