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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

尾崎咢堂記念館

2005-04-17 23:50:46 | Weblog
 昨日は寒かった。特に足元。寝袋の足元にセーターを突っ込んでるのだがそれでも寒い。ホカロンを2個足に取り付けたがまいった。風が強かったせいか。
 早朝犬の散歩に来る人がいるのでさっさとテントを畳み、公園でPCを開きブログなどを打つ。公園内にある津久井湖記念館の開館を待っている。食事はパンとコンビーフ、バナナなど火を使わずに済むもの。
 記念館の開館は10時だが、ちょっと早く見せてもらう。1階にはダムの歴史やジオラマがある。城山ダムは昭和28年に計画されたが、8年半もの激しい反対運動にあい、昭和36年8月に工事に着工、昭和40年3月に完成した。3町11、1つの小学校と3つの寺、285戸がダムの底に沈んでいる。記念館の2階には水没地域の昔の写真パネルや、生活用具、古文書などが並ぶ。それまで漁や田畑で生計を立てていた人も移転先は住宅地であり、生活そのものを変える必要に迫られたわけだ。

 津久井郡郷土資料館は水金土が開館日でこの日は休み。仕方なく尾崎咢堂記念館のみ見学する。ここは「憲政の神様」尾崎行雄の記念館。この人はこの地の出身なのだ。いやあ、凄い人だ。館内には尾崎の人生を紹介した紙芝居が張られてあり、よく分かる。実に96才まで生きた人だが、晩年は世界連邦の建設を盛んに訴えていた。いわく「文化の進歩と国際戦争は並行不能で、継続すれば国家人類は滅亡する」と。全くアメリカや北朝鮮に聞かしてやりたい名言である。ともかくこの人のエピソードはどれも面白いが、発言はユーモアに満ちている。戦時中不敬罪で巣鴨の拘置所に入れられ、昭和19年に高裁で無罪。翌年宮中で天皇と会見した時に「今日は御所、昨日は獄舎、明日はまた地獄極楽いづち行くらん」と詠んだそうだ。
 また、東京の焼き討ちを冗談に言ったのが元で三年間東京を追放された時、号を「学堂」から「愕堂」に改めている。「東京追放に驚いた」方が受けがいいだろうと思ったかららしい。
 92才の高齢でなお米国を訪問したりしている。(ワシントンに咲く桜は東京市長時代に尾崎が日米友好の証に贈ったものだ。) 写真を見ると実にかくしゃくとしたものだ。94才の書に「人生の本舞台は常に将来にあり」と書くのも凄い。

 国道20号沿いに小原宿本陣というのがあるそうなので行ってみる。相模原町小原の郷。ここは郷土資料館でもある。小原宿は甲州街道の江戸から9番目の宿場、2町半の間に本陣、脇本陣、7軒の旅籠があった。神奈川県下の26の本陣のうち、残っているのはここだけという。建物は屋根をトタンで覆った以外は当時のままらしい。毎年11月3日には本陣祭りが行われ、大名行列を再現するそうだ。お茶のサービスを受けながらいろいろと面白い話を聞く。相模湖駅は湖ができるまでは与瀬駅といったが、「よせ、よせ」と駅名を連呼され、降りるのをよしてしまったという人もいたらしい。
 本陣を見に行く。以前見学したほかの本陣に比べると狭い感じがする。まったく普通の農家っぽい。5年前まで清水さんという人が実際に住んでいたそうだ。

 この日は天気がよく暑い。上は半袖のTシャツに、下はGパンから短パンに着替える。元々サイクリングにGパンという格好はあり得ないのだが。

 相模湖記念館に行く。相模湖交流センターの建物の2階。1階では「世界の少年少女絵画展」もやっていた。相模湖は日本最初の多目的ダム。完成したのは戦争真っ只中の昭和19年。こちらの記念館は津久井湖の記念館とはまるで趣が違う。どちらかというと様々な装置で子供たちが楽しく遊べるといった具合。映像も多い。オリエンテーリング「水の冒険クイズ」は4つのポイントで3問づつ答えていくが、決して子供向けの問題ではなく、クリアするため3回もやってしまった。例えば「日本は世界で何番目にダムが多い?」とかそんな問題が出てくる。

 藤野町郷土資料館が分からず通り過ぎてしまう。戻ると、丁度職員の人が鍵を閉めて帰ろうとしているところだった。閉館時間ぎりぎりだったが、何とか見せてもらう。展示は2階部分。民具や農具など寄付された品々がこれでもかと並んでいる。3階もあって、消防関係の器具とかある。職員の人に解説して頂く。養蚕なども子供の頃に手伝っていたとか。しかしなかなか見学者は多くないようだ。この日も午後は僕一人だったらしい。

 明日のことも考えて、この日は桂川のほとりで寝る。明日は「魔の月曜日」。何が「魔」なのかというと、それは……。(明日に続く。)